アスペクト

今日もごちそうさまでした

角田光代
お肉は好きですか? お魚は好きですか? ピーマンは? にんじんは? 美味しいものが好き、食べることが好き、何よりお料理が好きな角田さんの食にまつわるエッセイがスタートです。

No.067 長いこと、ありが豚

 トークショーのあとの質疑応答で、司会者が、何か質問はありませんかと訊いたところ、お客さんのひとりが手を挙げ、「カクタさんに質問です」と言う。どんな質問がくるのか、背中をのばして待つと、「好きな肉の順位を教えてください」と訊かれた。この二十年の文学の変遷だとか小説と社会の関わりだとかよりはよほど答えやすい質問ではあるが、

「いちばんは豚です、それから羊、牛、という順番ですね」

 と真顔で答えながら、少々恥ずかしくもあった。一応、肉についてのトークショーではなかったので。

 肉でいちばん好きなのは豚。豚肉は牛よりもあっさりしていて、淡泊でありつつ奥ゆかしいうまみがあって、そして脂が独特においしい。賛同者がいるかどうかはわからないが私は豚の脂身が子どものころから好きで、家族が残す脂身をもらって食べていたほどだった。じんわりとにじみ出る、あのひそかな甘さ。豚カツは、だからヒレよりロースが好きだ。

 料理は愛情だなあと、私に思い知らせてくれたのは、豚肉である。この場合の愛情とは、食べさせる人たちへの愛ではなく、素材への愛である。たとえば私は煮魚が苦手で、マスターするまでにずいぶんと年数がかかったが、豚は、料理を覚えたてのころから失敗知らずだ。豚の角煮、豚カツ、生姜焼き、餃子、叉焼、ポークソテー、豚の冷しゃぶ、豚を使う料理のほとんど、どういうわけだか最初からレシピを見ずとも作れたし、失敗をしたことがない。これは魚より豚肉を愛しているからだ。

 さらに、私は発明料理、つまり名もなきおかず作りが苦手で、冷蔵庫に残った野菜や魚を自己流に調理すると、たいへん珍妙なものができあがるのだが、豚にかぎってはかならず成功する。豚カツ用の肩ロースの切り身に、たらことチーズをのせて焼く「好きなものだけ焼き」とか。薄切り肉に余り野菜を巻いて、醤油と酒とみりんの甘辛たれで煮詰める豚肉まきまきとか。戻した白花豆とトマト缶で豚のブロック肉を煮込んだ料理とか。牛ではなく豚肉を使ったポークストロガノフクリームソースとか。

 豚肉は、もう、どうしてみても失敗するということがなく、おいしい。これは私の豚肉への愛ゆえのことだろう。愛していれば、こんなにもうまくいくものなのだ、ほかのことと同様、料理もまた。

 ところで豚には銘柄がある。この十数年ほどでずいぶん増えた気がする。黒豚をはじめ、梅山豚、東京X、三元豚、白金豚、アグー豚、もち豚、ローズポーク、イベリコ豚……数え上げたらきりがなく、また、食べたことのない銘柄もずいぶんと多い。お肉屋さんでも銘柄を表記して売っている。表記されると、愛ゆえに、それぞれの良さを知りたくなる。

 一時期私は、豚肉ソムリエになろうとひそかな野望を抱き、いろんな銘柄豚を買って味を分析しようと思っていた。豚カツならば何が合い、生姜焼きならこれが合う、などと、すらりと言えるようになりたかったのだ。

 少しはわかった。東京Xはさっぱりしていて、イベリコ豚は牛と分類してもいいくらい濃ゆい、三元豚はあっさりしつつでもしっかりと豚のうまみと甘みがある……等々。が、わかるのはこの程度。どんな銘柄を買ってこようと、食べる段になって「うまーい」で終わってしまい、終わると忘れてしまう。アグー豚、うまーい。東京X、うまーい。三元豚、うまーい。それっきり。それぞれの味を覚えていて、比べるということができない。だってどれも、本当においしい。

 豚バーなるものがないかな、と私は夢想した。食事はすべて豚料理。しかも異なる銘柄がずらりあって、お客はきき酒ならぬきき豚ができる。そういう店さえあれば、それぞれの違いがよくわかるんだけどな。

 と思っていたら、豚バーとまではいかないが、種類の違う豚肉を出す豚しゃぶ屋さんがあった。その日その日で銘柄は違うが、何銘柄かの豚肉があり、ともに注文することで違いを味わうことができる。知人にこの店に数度連れていってもらった私は、「私はどうやらチェリーポークが好きだ」と思った。しかしながら、その日にほかのどんな豚があり、それらと比べどんな点においてチェリーポークが好きか、まったく覚えていない。あーおいしかったなー、しか、やっぱりないのである。

 チェリーポークは、幸いなことに、近所のお肉屋さんで扱っている。理由はさっぱり覚えていないが、でもチェリーポークが好きだと思った記憶を頼りに、たいていの豚肉はここでチェリーポークを買って調理している。

 もうひとつ、私が愛している銘柄豚があって、それはサイボクポークである。埼玉牧場の豚肉。これは少し歩いた場所にあるスーパーでたまたま買って、あまりのおいしさに仰天し、捨ててしまったパッケージを拾ってどこのなんという豚か、調べたほどのおいしさだった。味が深くてでも強すぎなくて、甘みがあって品が良くて、ほかの野菜と炒めても煮ても、ちゃんと豚の味が残る。そうして驚くべきは、値段。銘柄豚とは思えないほど価格が安い。

 チーズでも塩でも、種類と値段の幅が増えすぎると、うんざりしてくるのだが、豚だけはうれしくてありがたい。見たことのない銘柄を店頭や飲食店で見ると、わくわくする。やっぱり愛だなあ。普遍の愛だなあ。


 さて、この連載は、今回が最終回である。私はこの最後の回のために、もっとも愛する素材をとっておいたのだ。そう、弁当や料理は、いちばん好きなものをいちばん最後に食べる派です。

 長きにわたって、食にかんする私の雑談につきあってくださって、みなさま、ありがとうございました。食べもののことを話しているときって、おいしいものを食べているときに負けないくらい、しあわせなんだなあとしみじみ思います。

前の記事

著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。