野菜嫌いでまったく食べなかったころは、ブロッコリーを見もしなかった。もちろん名前は知っていたし、調理法だって知っていた。でも、自分には一生縁がない野菜だと思っていた。
三十歳を過ぎて野菜を食べるようになったころ、母親が、ブロッコリーのたらこマヨネーズソースをやたらに献立に加えるようになった。とはいえ私たちはいっしょに暮らしていなかったので、どちらかの家に遊びにいったときの夕食に、母がそれを出すわけである。茹でたブロッコリーに、たらことマヨネーズを和えたものをそえた、料理ともいえぬかんたん料理。
三十過ぎの成人娘にそういう行為もどうかと思うが、しかし母は母で、私が野菜を食べるようになったその隙に、ブロッコリーも好きにさせようと企てていたのかもしれない。たらこは私の好物だったから。母の企ては成功し、私はブロッコリーを(たらこソースがあってもなくても)食べるようになった。
しかし食べるようになったというのは、好きになったとイコールではない。食べるには食べたが、心情的にブロッコリーと私にはいっさい縁のないままだった。
その縁のなさを自身で自覚していると、どういうことが起きるとかというと、ブロッコリーを使った料理を、作りまくるのである。これは不思議な心理である。
苦手な友だちがいて、でも、苦手だと思うことに罪悪感を覚えるあまり、ほかの友だちよりもっと親しくしてしまう。そんな感じ。
風呂が嫌いで、でも、入らなくなる危険性があるから、本を持ちこみふつうの人より長く入ってしまう。そんな感じ。
克服とも違うし、必要性とも違う。なんか申し訳なくて……というのが、いちばん近い。
件のたらこソースも作るし、蒸してアンチョビソースというのもある。鍋でコンソメと茹で、そのままつぶして牛乳を加えるかんたんポタージュ。ポテトサラダにブロッコリーをつぶして入れる。ブロッコリーと海老とゆで卵をマヨネーズで和えたサラダ。ツナマヨをのせてチーズで覆って焼くかんたんグラタン。メインおかずならば牛肉とオイスターソースで炒める。ソーセージとスパイスで洋風に炒める。フライにする、フリッターにする。
幾度かうちの宴会にきてくれた友人は、毎回ブロッコリーが登場するので、よほどブロッコリーが好きなのだろうと思っていたらしい。違うんだけどねえ……。
なんか申し訳ない……と思いながら、続けざまに食卓に登場させ、登場させるたびに「ああ、やっぱり縁がない」と、思い知る。縁がないというのはつまり、すごくおいしいとは思えない、ということである。食べても食べなくてもかまわない。ブロッコリーの調理法は無限にあるし、白菜や大根のように淡泊というわけでもないのに、どんな素材とでも、どんな調味料とでも、とりあえず合ってしまうというのに、そのどんな素材とのどんな調味料とでも私は「すごく好き」にはなれない。はじめてのブロッコリーをたらこマヨの味で乗り切ったように、ポテトサラダならポテト味で乗り切るし、牛肉炒めなら牛肉味で乗り切るし、フリッターなら衣味で乗り切るのだ。
しかし、最近、私とブロッコリーの仲に、変容が起きている。まるでなかった縁が、芽生えようとしている。
きっかけは弁当である。
夕飯の残りを捨てるのがもったいなくて、仕事場に弁当を持参するようになったのが、三カ月ほど前である。はじめてみればなんとなくたのしくて、作り続けている。最初は、「自分で作る弁当なんて、中身も味もわかっていてつまらないのでは」と思っていたが、そんなこともない。ちゃんと作ろうと思うと、夕飯の残りではすまなくなり、ちゃんと弁当用のおかずを前日に下ごしらえするようになった。
弁当生活になってから気づいたこと。それは、ブロッコリーは弁当界のスターである、ということだ。
日本の弁当というものは宿命的に「真っ茶色」を背負っていると思う。唐揚げ、ハンバーグ、煮物、魚の照り焼き、生姜焼き、みな真っ茶色。卵焼きで黄色くしても、華やかさに欠ける。かくいう私も小学生時代(覚えていないが)母親に、「ほかの子のお弁当はもっときれい」と言ったらしい。そうして母は負けじと、以来十二年間、弁当の彩りに細心の注意を払って弁当を作るようになった(と、私が成人したのちに、いじましく幾度も幾度も、幾度も幾度も言われた)。
そう、世の多くの弁当の作り手が、弁当真っ茶色の宿命から、のがれようと苦戦しているのである。そこで活躍するのがブロッコリーなのだ!
自分で作るようになってから気づいたのだが、アスパラは弁当に入れると、緑色がなぜかあせる。茶色に埋没する。キャベツも炒めればかぎりなく茶寄りになるし、レタスはレタスのみでおかずにならない。ほうれん草は緑が保てるが、ごまよごしにすれば茶系になっていくし、ソテーにするには少々面倒。大根葉や小松菜を、じゃこや油揚げと炒めたものはごはんにたいへんよく合うが、やっぱりこれもなぜか地味色になる。
そこでブロッコリー。ブロッコリーで手のこんだおかずを作ろうとするとたちまち茶色じみてくるが、しかしたとえば少量のバターとともにレンジでチンしたものなどは、さえざえと鮮やかな緑で、弁当に加えると、ぱあっと茶色い大地が華やかになる。卵の黄色も俄然、生きてくる。つまり、手を抜けば抜くほど、ブロッコリーは美しくそこに在るのだ。偉大なり、ブロッコリー。
以前とは異なる意味で、私はブロッコリーを多用している。弁当の立て役者に感謝することで、かつてなかった縁がうまれつつあるというわけだ。
緑と縁って、漢字似てますね。関係ないけれど。 |