私の分類のなかで、鶏肉は魚類である。
いや、鶏が魚ではないことくらい私も知っている。魚に分類してもいいくらい、肉としてはあっさりとしている、というような意味合いだ。今日は肉を食らう、というときに意味する肉に、残念ながら含まれていない。
では鶏肉は嫌いかというとそんなことはなくて、好きだ。魚として、好きだ。
私が子どものころ(七十年代)のごちそうといえば、牛でも豚でもなく、鶏だった。クリスマスに鶏肉を食べるのは、西洋からの受け売りだろうが、お誕生会も鶏肉だった。鶏の唐揚げ。私んちではチューリップ型にして揚げ、骨の部分にリボンがついていた。
しかし同時に、鶏肉は地味食、もっともポピュラーな弁当のおかずでもあった。
ごちそうと、地味食、矛盾するようでしないのが鶏肉のチャーミングな個性である。鶏を丸ごと焼いたり、鶏ももの部分を焼いて持つ部分に飾りをつけたり、チューリップにしてリボンをつければ、地味食がごちそうになる。かなり無理やりだとしても。
ただ揚げれば、茶色のおかずになる。卵焼きやブロッコリーといった彩りを添えないと、そこはかとなく恥ずかしい、地味なおかず。
七十年代当時の母親たちは、個性より共通を重んじていた気がする。いや、重んじていたというより、みんなとおんなじことをしてもちっとも気にも苦にもならなかった、というのが正しいのだろう。だって、ほとんどの子のお誕生会のメニュウがいっしょだったもの。鶏の唐揚げとポテトフライとちらし寿司。
みんな同じじゃつまらないから、うちはイタリア料理にしましょうとか、うちは贅沢にすき焼きに、なんてことはあんまりなかった。
弁当のおかずに唐揚げがよく登場するのも、同じ理由と思われる。私の世代の男女をつかまえ「ポピュラーと思われる弁当の中身は」と訊けば、八割が「おむすび、唐揚げ、卵焼き」と答えるであろう。そのくらいよく唐揚げは弁当に唐揚げは弁当になじみすぎていた。
同じ素材なのに、ふだん着にもなり、よそゆきにもなる鶏は、当時の母たちにたいへんな人気だったと思われる。
鶏といって私の記憶にこびりついているのは、唐揚げのほかにもある。焼き鳥である。はじめて焼き鳥を食べたときの、あの衝撃を未だに覚えている。
小学生のときだ。近所に、持ち帰りの焼き鳥専門店ができたのだ。飲み屋ではなく、焼き鳥のみ店頭に並べて売る店である。肉屋と八百屋と豆腐屋と金物屋くらいしか歩いていける距離にない、ちいさな町に、焼き鳥屋。子どもにとってはニュースターの登場。
当時、なのか、その店が、なのかわからないけれど、塩とたれなんて種類はなくて、並んでいるのはみんなたれ。はじめてできた店だから、もの珍しさに母親が買ってきたのだと思う。そうして食べて、がびーんとなった。世のなかにこんなにおいしいものがあるのかと、鶏といえば唐揚げかチューリップだった小学生は、思ったのである。
以来、学校から帰った私は母にまとわりつき「おつかいいこうか? おつかいいってあげるけど。あ、そんなら焼き鳥も買おうか? 焼き鳥をおやつにしたらどう?」と、執拗に言い募り続けた。焼き鳥をなぜおやつにせねばならなかったかというと、それは夕飯のおかずには(母の独断で)なり得なかったからである。おつかいのご褒美のように買ってもよいときもあれば、断固許されないときもあった。買ってもらるとしても、おやつだから二、三本。小学生の私は夢見たものである。いつかごはんのかわりに、焼き鳥だけを思うまま食べたい。
お祝いごとには手羽、一度でいいから思うまま食べてみたいのが焼き鳥。今思えば、お手軽な時代であったし、お手軽な子どもであった。今や「鶏肉は魚」と言ってはばからない大人になったのに。
そして大人になってみれば、「ごはんを食べず、焼き鳥だけ思うまま食べる」というのは、じつはいつでも容易に実現可能、というか、よくある事態なのである。そんなこと、想像だにしなかったなあ、子どものころは
今の私にチューリップ揚げはごちそうではない。今現在私はクリスマスに鶏も七面鳥も食べない。誕生日ももっと肉肉しい肉で祝う。鶏肉はとくべつな日のものではなくて、日常献立内のものになった。私にとってやっぱり鶏肉は魚なので、「昨日は焼き肉だったし、一昨日は豚だった。今日は何かさっぱりしたものにしよう」というとき、食卓によく鶏肉が登場する。鶏の唐揚げは失敗がないし、ハンバーグも合い挽でなく塩味の鶏挽肉にするとさっぱりしてたいへんよろしい。軟骨をフードプロセッサで歯ごたえが残る程度に砕き、挽肉にまぜて作る軟骨入りバーグはコラーゲン摂取にもとてもよいらしい。
鶏肉は、私にとってもうごちそうではないと先に書いたが、しかし大勢のお客人を招くとき、鶏肉はひそかに大活躍する。鶏のチャーシュー風なんて、材料も安く調理もかんたんなのに、見た目がたいへんに華やかだし、ささみと三つ葉やほうれん草を辛子醤油で和えた一品も、箸休めにちょうどいい。
いつだったか、シャンパン「だけ」ざぶざぶ飲もう会、というものを企画したことがあって、このとき、シャンパンに合わせるとしたら豚でもなく牛でもなく羊でもなく鶏だろう、と思い、私にしてはめずらしく鶏料理と野菜のみのメニュウにしたが、たいへん好評だった。鶏肉は人の集まる場所に未だひっそりとよそゆきを着て、活躍しているのである。
しかしながらシャンパンに鶏、などと書いていると、どこか照れくさいのは、チューリップ揚げがごちそうであり、焼き鳥を思うまま食べることを夢見ていた子どもが、まだ私の内にいるからだろうと思う。お誕生会を唐揚げで祝い、クリスマスに鶏もも焼きを食べ、弁当に唐揚げを持っていった私と同世代の男女は、みんな大人になった今でも、鶏肉に身内意識を抱いているのではないかと想像する。
昨今は食材もレシピも、三十年前とは比べものにならないくらい抱負で、なおかつ、外食もちっともめずらしいことではなくなった。ファストフード店で子どものお誕生会をやっているし、レストランではスタッフがケーキを用意しバースデイソングを歌ってくれる。お誕生会は家で鶏の唐揚げなんて、ちゃぶ台や茶の間と等しく、遠い昭和の産物になってしまったんだろうなあと想像する。情報が増え生活が多様化し、世代的に共通の思い出をだんだん持ちづらくなっているはずだ。だからこそ、なんとなく私は「鶏肉身内感」を世代で共有していることに、ちょっとしたよろこびを感じるのである。 |