アスペクト

今日もごちそうさまでした

角田光代
お肉は好きですか? お魚は好きですか? ピーマンは? にんじんは? 美味しいものが好き、食べることが好き、何よりお料理が好きな角田さんの食にまつわるエッセイがスタートです。

029 父と白菜

 白菜ってなんであんなにでっかいんだろう。

 あんなにでっかいのに、冬になるとどんどん、どんどん値段が下がってきて、馬鹿でかい四つが紐でくくられ、五百円とかで売られていて、たのもしいようなあわれなような気持ちになる。そうして、でっかい白菜を見ると自動的に父親を思い出す。

 私はエッセイなどで母親のことをよく書くが、父親のことはめったに書かない。小説にも、男親というのはあんまり登場しない。なぜかというと、私自身が父親をよく知らないからだ。

 父は私が十七の秋に亡くなったので、今では、父を知っている時間より、父を知らない時間のほうが長くなってしまった。さらに、ものごころつくまでと、思春期女子特有の(おとうさんってなんかイヤ)的な時間を差し引くと、父を知っている時間というのはもっともっと短くなってしまう。

 その、よく知らない父親関連で、なつかしさを喚起させるものもまた少ないわけだが、白菜は、数少ないなかのひとつである。

 私の両親は典型的な昭和の人間で、共働きだったにもかかわらず、父は家事をいっさいしなかったし、母はいっさいさせなかった。やかんでお湯だってわかせない父親が、それだけはみずから行うのが、冬場の漬け物作りだった。

 白菜をまとめて買ってきて、玄関先で、塩と唐辛子とともに巨大な樽にぎゅうぎゅうに詰めこむ。板の蓋をして、まるで凶器のような漬け物石をどーんと置く。かさが、日に日に減っていく。

 おとうさんってサー、なんにもしないのに、なんで漬け物だけは自分で漬けるの? と、母に訊いたことがある。「自分が食べるからよ」との答えであった。

 たしかに、冬場の夕食時に食卓に登場するそれを、私も家族もお相伴程度に食べていたけれど、いちばんよく食べるのは父親だった。父は酒飲み献立だったので、しめのごはんはおかずではなく漬け物と食べるのだ。

 酒飲み献立には、父親だけの酒のあてがいくつか用意されるわけだが、私は父の食べるものを一度たりともおいしそうだと思ったことがない。そもそも好き嫌いの多い偏食児童だったのだ。畳鰯だの酒盗だのぬただの、見かけだけで「ウー」なのである。けれど、食事の最後に父が白菜漬けを食べるときは、それはじつにおいしそうに見えた。自分だって食べているのに、でも、もっととくべつおいしいもののように見えた。しゃくしゃくという音も、ちろりと一滴垂らしたしょうゆも。

 父が亡くなって、あの巨大樽で漬け物を漬ける人はいなくなった。樽はいつのまにかなくなっていた。凶器のような漬け物石も。

 ザ・昭和夫婦の父と母は、愛していると言い合ったり、触れ合ったり、けっしてしなかった。どちらかというと母は父のことを悪く言うことが多かった。父が亡くなってずいぶんたってから、ともに夕食を食べていた際、「おとうさんの作った白菜漬けはおいしかったわね」と、ぽつりと母が言ったことがあって、たまげた。なんというか、その一言が私には、愛というものとは根本的に異なる、情としか言いようのない何かに思えたのである。しかも、その何かは愛より熱く、頑丈に思えた。

 白菜漬けを、私はもちろん作らないが、買ったこともない。外食のときに出てくれば食べるし、おいしいと思うが、漬け物屋でまず買わない。もしかしたら「おとうさんの白菜漬けはおいしかった」という母の言葉のせいかもしれない。記憶はもうほとんどないのだが、あの一言によって父の白菜漬けは完璧においしいものになり、どんな市販品もかなわないと無意識に思いこんでしまったのかもしれない。

 白菜を買うときは、だからもっぱら料理用だ。それも四分の一に切ったもの。

 キャベツもレタスも半分のものは買わない私にとって、四分の一の白菜を買うときはうっすらと敗北感を味わう。「う、負けた、でも」と思いながら、四分の一を買う。馬鹿でかすぎて、半分サイズだって切りにくい。

 白菜と豚肉を重ねてほんのちょっとの酒と水、たっぷりの黒胡椒でくたくたに煮る料理をはじめて作ったときは、感動した。淡泊な白菜は、ハムと牛乳と煮て洋風にしてもおいしい。たまにいく飲み屋で、白菜の芯部分と塩昆布を和えたサラダがあって、これも真似して作ることがある。餃子も、キャベツでなく白菜で作ると、ふんわりする。

 近ごろ、ミニサイズの白菜を見つけた。あの白菜のかたちのまま、サイズだけがちいさいのである。まあ、なんて便利な、と手に取り、隣にあるふつうサイズの丸ごと白菜を見ると、ますますたのもしいようなあわれなような感じが強まっている。

 そういえば、「たのもしそうで、でもどこかあわれ」な感じって、私のなかの父親のイメージそのままだなあ。

030 ふだん着鶏、よそゆき鶏

 私の分類のなかで、鶏肉は魚類である。

いや、鶏が魚ではないことくらい私も知っている。魚に分類してもいいくらい、肉としてはあっさりとしている、というような意味合いだ。今日は肉を食らう、というときに意味する肉に、残念ながら含まれていない。

では鶏肉は嫌いかというとそんなことはなくて、好きだ。魚として、好きだ。

私が子どものころ(七十年代)のごちそうといえば、牛でも豚でもなく、鶏だった。クリスマスに鶏肉を食べるのは、西洋からの受け売りだろうが、お誕生会も鶏肉だった。鶏の唐揚げ。私んちではチューリップ型にして揚げ、骨の部分にリボンがついていた。

しかし同時に、鶏肉は地味食、もっともポピュラーな弁当のおかずでもあった。

ごちそうと、地味食、矛盾するようでしないのが鶏肉のチャーミングな個性である。鶏を丸ごと焼いたり、鶏ももの部分を焼いて持つ部分に飾りをつけたり、チューリップにしてリボンをつければ、地味食がごちそうになる。かなり無理やりだとしても。

ただ揚げれば、茶色のおかずになる。卵焼きやブロッコリーといった彩りを添えないと、そこはかとなく恥ずかしい、地味なおかず。

七十年代当時の母親たちは、個性より共通を重んじていた気がする。いや、重んじていたというより、みんなとおんなじことをしてもちっとも気にも苦にもならなかった、というのが正しいのだろう。だって、ほとんどの子のお誕生会のメニュウがいっしょだったもの。鶏の唐揚げとポテトフライとちらし寿司。

みんな同じじゃつまらないから、うちはイタリア料理にしましょうとか、うちは贅沢にすき焼きに、なんてことはあんまりなかった。

弁当のおかずに唐揚げがよく登場するのも、同じ理由と思われる。私の世代の男女をつかまえ「ポピュラーと思われる弁当の中身は」と訊けば、八割が「おむすび、唐揚げ、卵焼き」と答えるであろう。そのくらいよく唐揚げは弁当に唐揚げは弁当になじみすぎていた。

同じ素材なのに、ふだん着にもなり、よそゆきにもなる鶏は、当時の母たちにたいへんな人気だったと思われる。

鶏といって私の記憶にこびりついているのは、唐揚げのほかにもある。焼き鳥である。はじめて焼き鳥を食べたときの、あの衝撃を未だに覚えている。

小学生のときだ。近所に、持ち帰りの焼き鳥専門店ができたのだ。飲み屋ではなく、焼き鳥のみ店頭に並べて売る店である。肉屋と八百屋と豆腐屋と金物屋くらいしか歩いていける距離にない、ちいさな町に、焼き鳥屋。子どもにとってはニュースターの登場。

当時、なのか、その店が、なのかわからないけれど、塩とたれなんて種類はなくて、並んでいるのはみんなたれ。はじめてできた店だから、もの珍しさに母親が買ってきたのだと思う。そうして食べて、がびーんとなった。世のなかにこんなにおいしいものがあるのかと、鶏といえば唐揚げかチューリップだった小学生は、思ったのである。

以来、学校から帰った私は母にまとわりつき「おつかいいこうか? おつかいいってあげるけど。あ、そんなら焼き鳥も買おうか? 焼き鳥をおやつにしたらどう?」と、執拗に言い募り続けた。焼き鳥をなぜおやつにせねばならなかったかというと、それは夕飯のおかずには(母の独断で)なり得なかったからである。おつかいのご褒美のように買ってもよいときもあれば、断固許されないときもあった。買ってもらるとしても、おやつだから二、三本。小学生の私は夢見たものである。いつかごはんのかわりに、焼き鳥だけを思うまま食べたい。

お祝いごとには手羽、一度でいいから思うまま食べてみたいのが焼き鳥。今思えば、お手軽な時代であったし、お手軽な子どもであった。今や「鶏肉は魚」と言ってはばからない大人になったのに。

そして大人になってみれば、「ごはんを食べず、焼き鳥だけ思うまま食べる」というのは、じつはいつでも容易に実現可能、というか、よくある事態なのである。そんなこと、想像だにしなかったなあ、子どものころは

今の私にチューリップ揚げはごちそうではない。今現在私はクリスマスに鶏も七面鳥も食べない。誕生日ももっと肉肉しい肉で祝う。鶏肉はとくべつな日のものではなくて、日常献立内のものになった。私にとってやっぱり鶏肉は魚なので、「昨日は焼き肉だったし、一昨日は豚だった。今日は何かさっぱりしたものにしよう」というとき、食卓によく鶏肉が登場する。鶏の唐揚げは失敗がないし、ハンバーグも合い挽でなく塩味の鶏挽肉にするとさっぱりしてたいへんよろしい。軟骨をフードプロセッサで歯ごたえが残る程度に砕き、挽肉にまぜて作る軟骨入りバーグはコラーゲン摂取にもとてもよいらしい。

鶏肉は、私にとってもうごちそうではないと先に書いたが、しかし大勢のお客人を招くとき、鶏肉はひそかに大活躍する。鶏のチャーシュー風なんて、材料も安く調理もかんたんなのに、見た目がたいへんに華やかだし、ささみと三つ葉やほうれん草を辛子醤油で和えた一品も、箸休めにちょうどいい。

いつだったか、シャンパン「だけ」ざぶざぶ飲もう会、というものを企画したことがあって、このとき、シャンパンに合わせるとしたら豚でもなく牛でもなく羊でもなく鶏だろう、と思い、私にしてはめずらしく鶏料理と野菜のみのメニュウにしたが、たいへん好評だった。鶏肉は人の集まる場所に未だひっそりとよそゆきを着て、活躍しているのである。

しかしながらシャンパンに鶏、などと書いていると、どこか照れくさいのは、チューリップ揚げがごちそうであり、焼き鳥を思うまま食べることを夢見ていた子どもが、まだ私の内にいるからだろうと思う。お誕生会を唐揚げで祝い、クリスマスに鶏もも焼きを食べ、弁当に唐揚げを持っていった私と同世代の男女は、みんな大人になった今でも、鶏肉に身内意識を抱いているのではないかと想像する。

昨今は食材もレシピも、三十年前とは比べものにならないくらい抱負で、なおかつ、外食もちっともめずらしいことではなくなった。ファストフード店で子どものお誕生会をやっているし、レストランではスタッフがケーキを用意しバースデイソングを歌ってくれる。お誕生会は家で鶏の唐揚げなんて、ちゃぶ台や茶の間と等しく、遠い昭和の産物になってしまったんだろうなあと想像する。情報が増え生活が多様化し、世代的に共通の思い出をだんだん持ちづらくなっているはずだ。だからこそ、なんとなく私は「鶏肉身内感」を世代で共有していることに、ちょっとしたよろこびを感じるのである。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。