れんこんに、そもそも疑問を持ったことがない。野菜嫌いだった私だが、なぜかれんこんはごくふつうに食べていた。料理を覚えたときも、料理本を見なくても作ることのできた数品のなかに、れんこんのきんぴらは入っていた。ごぼうのきんぴらより、こちらのほうが私は好きである。
はじめてれんこんに対し疑問を持ったのは、飲み屋で、辛子れんこんを見たときのことだ。
だれかが頼んで、それが運ばれてきた。れんこんの穴の部分が、黄色い。しかも、周囲も縁取るように黄色い。私ははじめて見る奇妙な姿のれんこんから目を離すことができなかった。
勧められておそるおそる口にし、辛子がさほど辛くないことにまだ驚き、そうして不思議に思った。
いったいだれがれんこんに辛子を詰めこもうなどと思ったのか。いや、真の疑問はそんなことではない、なぜれんこんには、辛子を詰めこみたくなるような穴が開いているのか。
その穴が埋められていてはじめて、穴の存在に気づいたのである。空(から)であれば気づかないままなのに、空が埋まって空に気づく。なんか哲学的。
れんこんの穴には、調べてみればいろんなものが詰められているようである。明太子とか肉とか。そんなにいろいろ詰められて、何思う、れんこんよ。
冬になると、知人が土付きれんこんを送ってくれる。この土つきれんこん、じゃが芋のように日持ちするかというとそうでもないので、わりあい急いで食べきるようにしている。以前まで、れんこんといえばきんぴらか煮物、味噌汁、豚汁、サラダやチップスくらいにしか使っていなかったが、昨今、「する」ことも覚えた。
そしてまたあらたな疑問が生じた。
れんこんは、片栗粉などのつなぎを入れなくても、団子状にまるまってくれる。そしてそのまま食べるとしゃくしゃくするのに、するとなぜかもっちりする。れんこん、形状が奇妙なばかりでなく、切るとかするとかいった行程で、こんなにも変化を遂げるのだ。身の処し方でありようが変わる。これまた、何か身をもって私たちに暗示してくれているのではなかろうか。哲学的に。
すったれんこんに、鶏挽肉や椎茸を混ぜこんで丸くして蒸すと、きれいな丸が崩れないまま、れんこんまんじゅうになる。蒸さずに揚げてもいい。そこに生姜味のくずあんをかけると、なんだかたいそう立派な料理に見える。
海老蒸し餃子にれんこんを入れても、ぷりぷり感にむちむち感がプラスされておいしかった。
ハンバーグ種に、すったものと刻んだものと両方入れると、さくさくもっちりして、これもおいしい。
おいしいのだが、でもやっぱり疑問が消えない。何も穴なんかなくたっていいじゃないか。すったらもっちりしなくても、いいじゃないか。私たちに、その存在をかけていったい何を教えようとしてくれているのだ、れんこんよ。
友人宅に遊びにいったとき、れんこんをただ焼いて塩したものが登場した。厚めに切ったれんこんで、揚げ焼きした感じの焦げかたである。なんにも思わずこれを口に入れて、のけぞった。うまかったのだ。つい、言っていた。「れんこんなのに、うまい!」
いや、れんこんがおいしいことは知っているけれど、焼いただけで感激するほどうまくなるほどのものでもない、と、私はどこか見下していたのである。でも、おいしかった。この厚め揚げ焼きれんこんは、しゃくしゃくともっちりの両方が、あった。
私も早速、帰って真似した。少し厚めにれんこんを切り、両面に軽く片栗粉をまぶして、オリーブオイルでじりじり、じりじり、じりじりと、ゆーっくり焼いていく。両面焼いて、れんこんが透き通り、両面に焦げ目がついたら取りだし、うまい塩をかける。うまい塩でないといけない。今のところ、この食べかたが私はいちばん好きである。かんたんで、はっと目を見開いてしまうほど、うまい。
れんこんの菓子をいただいたことがある。笹の葉に包まれた和菓子である。れんこんが、菓子になっている。しかも、甘い菓子。
この和菓子はれんこんでできている、おかずでできている、煮たり焼いたりすったりして一般的にはショッパ味で食べるものでできている。そのことに自分でも不思議なくらい動揺して、私はそのいただきものをきちんと味わうことができなかった。だからどんな味だったか、ここに記すことができない。もっちりしていたようなかすかな記憶だけがある。
でも、菓子にならなくてもいいじゃないか、れんこんよ、と思う。そんなことをしていると、その穴にあんこを詰められて、「あんこれんこん」だの、カスタードクリームを詰められて「れんこんタルト」だのにされてしまうぞ。と、余計な心配をしてしまいたくなるれんこんなのだった。 |