キャベツってその存在がすでに天才だと思う。
野菜嫌いの私でも、子どものころからなじんでいたキャベツ。どんな料理にもするりと入って、自己主張せず、何ふうの何味にでも自身を変えるキャベツ。それでいて、無個性ということもなく、ほかのものとは代用がきかないキャベツ。
もしこの世からキャベツが消えたら、同時に消滅する料理のなんと多いことだろう。ロールキャベツがなくなり、回鍋肉がなくなり、お好み焼きがなくなり、野菜炒めがなくなり、コールスローがなくなる。そればかりか、べつに主役でもなんでもないが、焼きそばやポトフだって、キャベツがないなら作りませんという人はいるだろう。豚カツも、きっと今より格段に人気は落ちるはずだ。キャベツのない世界の、なんとさみしくみじめなことか。
が、そこまで各国料理に使われ続けているキャベツだが、グローバルという言葉と相容れない垢抜けなさがある。ミネストローネで活躍しようがアンチョビのパスタで重要な位置を占めようが、でも、キャベツって平成っていうより昭和のほうが断然似合う。それはどことなく、キャベツが貧乏くさいからではなかろうか。
いや、貧乏くさいのはキャベツ自身の資質ではなく、貧乏食といって想起されるもののなかに「キャベツ」は歴然としてある、ということなのだが。
私のバイブルでもある藤子不二雄先生の『まんが道』という漫画に、まさにそのようにしてキャベツが登場する。故郷金沢から上京した満賀道雄と才野茂が、親戚の家を出てときわ荘でともに暮らしはじめる。共同キッチンで作る彼らの食事に、キャベツはじつによく登場する。引っ越した一日目に、もう大量のキャベツを刻んでいるくらいだ。
私はこの漫画ではじめて、キャベツの味噌汁というものを知り、以来、よく作るようになった。キャベツが昭和的、という感想は、この漫画の影響でもある。
しかしキャベツが、というより、貧乏が、こんなに魅力的に描かれている作品もそうそうないんじゃないかと思う。好きなことをやるためならば、おかずがキャベツ炒めだけだっていいのさ、というすがすがしさ。ここで描かれるキャベツには、夢と未来と希望と可能性が詰まっている。
このキャベツが同様に安価なモヤシだと、微妙にニュアンスが異なるだろうと思う。パンの耳でも、おからでも、やっぱり違う。キャベツの、あのわしわし剥いて、剥いても中身があるみっちり感と、莫大な栄養価値と、腹持ちのよさ、それが合わさっていないと、貧乏のゆたかさは表現できないような気すら、する。
そういえば、たいへん昔の話だが、アメリカでキャベツ人形がはやったことがある。日本にもお目見えした。まったくかわいくないリアルな赤ん坊っぽい人形で、たしか、赤ん坊はキャベツから生まれると聞いて育った人が制作者だった。
葉っぱを剥いたら、そこに何かみっしりとしたものが入っている感は、夢と希望でも、赤ん坊でも、おんなじように思える。あの緑の葉っぱは、悪ではなく善、過去ではなく未来、空疎ではなく価値あるものをだいじにくるんでいるように、思えるのだ。
だからというわけではないが、私はまるごと一個のキャベツを使うとき、包丁で垂直に切ってしまうのが、あまり好きではない。いつも葉っぱを一枚一枚剥がして使っている。
おもしろいことに、剥がしても剥がしても、キャベツはキャベツのかたちをしている。ほんっとうの最後、葉っぱ二、三枚になったって、あんなふうにくるーっと内側にまるまっているのだ。何かを守るように。まったくもう、かわいいったらない。
キャベツは年がら年じゅう冷蔵庫に入っているし、じつに多くの料理に用いるが、じつは私は千切りが大の苦手。豚カツ屋さんは針のように細い千切りキャベツを出すが、あれがどうしてもできない。やろうとすると、ものすごくスローな動きになる。けれど千切りというのはリズムがたのしいのであって、慎重に、ざーくー、ざーくー、とやっていたのではおもしろくもないし、料理の高揚がない。それでざくざくざくざくとやると、太くなるわ手を切るわ。
いっそ、千切りなんかいらない、レタスやベビーリーフで代用しようかと思うが、でもやっぱり、コロッケや豚カツやメンチカツやスコッチエッグには、千切りキャベツじゃなきゃだめなのだ。
千切りキャベツは、そのまま出すのと氷水につけるのと、もうぜんぜん味が違う。だから、揚げ段階のかなり前でキャベツは千切りしなきゃならないし、氷水につけなきゃならないし、ざるに上げて水を切らねばならない。そんなことも面倒で、ザ・面倒くさがりを体現した私のような人間は、たいていの手間を省いてヨシとしてしまうのだが、氷水はぜったいに省かない。
さて、不器用ながら千切りにしたキャベツと、大好物の豚カツを前に、しばし考える。もしここから豚カツが消え、キャベツだけが残り、それを毎日毎日食べ続けなくならなくなったとして、そんな日々でもやりたいことがあると言える、それって若いときにしか言えないことだよな。若いときに、すでにそうしたものに出合っていることが、しあわせなのかそうでないのか私にはわからないけれど、でも、とてもつなく強いことだとは思うのである。 |