昨年、禁煙をはじめたのだが、そもそも私が煙草を吸いはじめたきっかけは、チョコレート防止目的だった。
二十一歳のとき実家を出てひとり暮らしをはじめた。三度の食事を食べずともよい、食事のかわりに菓子を食べてよい暮らしが、私には新鮮ではじめてで、夢のようだった。このころの私は甘いものに目がなく、チョコレートはとくに好きだったので、主食かというくらい、チョコレートを食べた。
食生活がいきなり乱れに乱れたわけだから、チョコ主食の結果とはいえないのだが、気がつけばたいへんなアトピーになっていた。目のまわり、口のまわりが真っ赤に腫れ、右手の人差し指と中指がこれまた真っ赤に腫れ、かゆくて夜も目覚めるほど。アトピー発症と食生活のつながりはよくわからないのだが、当時いった病院では、原因はわからないがストレスではないのか、と言われた。
チョコ食べ放題で、働いてはいたが(少女小説を書いていた)まだ学生で、ストレスという言葉に思い当たることは何もなく、しかしとにかくかゆいしつらいので、チョコレートをやめてみようと私は思い立った。どのようにやめるか、しばし考え、煙草だ、と思った。当時私のまわりの多くは煙草を吸っていて、彼らはみんな、甘いものを好んでいなかった。
今でも覚えている。中野区野方の、ワンルームのアパートの部屋をひとり出て、いちばんそばにある煙草の自動販売機まで歩いていったことを。白々した光を放つ販売機に、どきどきしながら硬貨をすべりこませ、いちばんニコチン数の少ない薄荷味のものを買った。フロンティアのメンソールだったと思う。
そこから私がいっぱしのスモーカーになるのに、本当に時間はかからなかった。そうして私の推測通り、ぴたりとチョコ欲は消えたのである。実家にいたころのようにはいかないが、食生活も(飽きのため)ふつうに戻り、お菓子を食事のかわりにすることもなくなった。おそらく煙草のおかげで、長年の持病であった便秘もなおり、またたくまにアトピーもなおってしまった。
そうして煙草を吸っていた二十年ほど、私はまったくチョコレートを欲さなかった。そしてその二十年ほどのあいだに、チョコレート界は激変した。六歳の子どもが二十六歳の娘っこになるくらいの変わりようだ。世界各国から有名店が進出し、チョコ、と言わずショコラ、と言わねばならぬような、高価できらびやかなチョコレートがわんさと登場した。そのような高級チョコレートは、やっぱり「うわー、おいしい」と思う。でも、そのおいしいも、わざわざ求めにいくような、能動的なおいしさではなかったのだ、私にとって。
さて昨年、煙草をやめたのだが、私は禁煙外来の投薬でやめた。禁断症状がいっさいないと言われているとおり、本当に、震えたり指の先が冷たくなったり、吸いたくて吸いたくて吸いたくてそれしか考えられない、という状態になったりせず、やめることができる。が、やっぱりそこは長年の習慣だったわけだから、なんとはなしに手持ちぶさたにはなる。
そんなときはチョコだ、と私は思った。そもそも煙草でやめたチョコなのだ、煙草を忘れるにはチョコだろう。久しぶりに能動的に食べるチョコレートは、じつにおいしかった。手持ちぶさたのときチョコレートを食べると、気が紛れる。自身の勘の通り、煙草でやめたチョコで煙草をやめることができたのである(ややこしい文ですみません)。
こうして二十年のときを経て、私とチョコの蜜月は戻ってきた。
ジャン・ポール・エヴァンでなくていい、メゾン・ド・ショコラでなくていい、コンビニエンスストアで売っているチョコレートで充分。
仕事をしている合間や食事後に、突発的に体が欲し、理性が押しとどめてもそれをふりきって口にしてしまう、というところが、チョコレートはじつに煙草とよく似ている。
先だって、マリという国に取材旅行にいった。アフリカの内陸国マリは、最貧国の部類に入る。その国の人々の生活がどのくらい困窮しているかということと、菓子の種類というのはみごとに反比例していると私は前から思っている。九八年に旅したベトナムは、ドイモイが提起されてから十年以上たっていたがまだまだ経済復興はままならず、至るところに物乞いがいたし、道路の中央分離帯で生活する家族もいた。ホーチミンにはアイスクリーム屋が一軒あって、そこが地元の客と貧乏バックパッカーでいつも混み合っていた。マリにはアイスクリーム屋もないのだった。キャンディやガムを売る屋台、袋菓子を売るガソリンスタンド内の売店などは見たが、菓子の専門店は繁華街でも見かけなかった。
私と同行者は、首都から車で十二時間ほどひた走った村に滞在していた。もちろんそこには、店自体が存在しない。私たちは意識はしなかったが、甘いものに心底飢えていた。ときどきコーラやファンタが出されると、日本でそんなにおいしいと思ったことがないのに、天国の味だと言い合って数秒で飲み干した。
このとき私は、いきの空港で買った袋入りのハーシーチョコを持っていた。いろんな味のミニサイズハーシーが袋に詰め込まれたものである。私はこれをちびちび食べ、ちびちび同行者に分け、そして食べるたび、「ああ、こんなにうまいものが……」と思った。そのチョコがついに切れてしまったときは、世界から一色なくなったようにさみしかった。
マリからの岐路は、パリの空港で乗り換えである。乗り換え時間が六時間くらい開いてしまって、店をぜんぶ覚えるほど空港内ショップを眺め倒して過ごした。私はぼうっとそれらを眺めたのち、テナントに入っていたメゾン・ド・ショコラに向かい、宝石みたいにきれいなチョコを、この世のものではないかのように眺め、だれにとも決めずおみやげ用に一箱買った。包装を待っているあいだ、お店の人がサービスでひとつチョコをくれた。口に入れて、泣きそうになった。久しぶりなのと、おいしいのと、それから、今まで見てきたマリの世界が、いかに未知のものだったかを思い知らされて。たぶん一生忘れない、高価なチョコレートの味である。
私たちはチョコレートを知ってしまったし、もう、知らないところには帰れないのだあと、あれからのち、チョコを食べるたびに思うのである。 |