アスペクト

今日もごちそうさまでした

角田光代
お肉は好きですか? お魚は好きですか? ピーマンは? にんじんは? 美味しいものが好き、食べることが好き、何よりお料理が好きな角田さんの食にまつわるエッセイがスタートです。

035 牡蠣風呂は遠い

 牡蠣をはじめて食べられるようになったときのことを、今でも覚えている。六年ほど前、料理上手の友人Mさんの家に飲みにいったとき、牡蠣入りクリームシチュウが出たのである。牡蠣食べられないって言おうかな、でも、Mさん料理上手だから食べられるかも、と一瞬迷い、食べてみて、「おや!」と牡蠣への思いこみを一新したのだ。当時私は貝が苦手で、鮑サザエ系はとくにだめで、牡蠣はなんというか鮑サザエの最強版と思いこんでいたのである。つまり最強に磯くさく、最強にこりこりした食感で、最強に苦い部分がある。でももっとやさしいですね、牡蠣は。

 食わず嫌いで育つと、いちいちこうした発見がある。

 牡蠣、食べられた、おいしいおいしいとその場で喜んだのを覚えている。Mさんは、知人から生牡蠣が送られてきたときも呼んでくれた。Mさんの夫が牡蠣の殻を苦労して剥いてくれ、私たちはそれをずるずると次々食べては白ワインを飲み「うまいねえ」「うまいねえ」と言い合った。Mさんの夫、なんてすばらしい人なんだろう。

 M家で出合って以来、私の暮らしにはごく自然に牡蠣が寄り添うようになった。こういうこと、つまりお呼ばれされたホームパーティで紹介され親しくなりごく自然に寄り添うようなことが、人間間同士で起きるといいのだが、かなしいかな人間界ではなぜか滅多にない。

 牡蠣は、牡蠣歴が短い人間からしてみれば、形状がずいぶんグロテスクに思える。びらびらしているし、ひだが黒いし、ぷっくり膨れたところとそうでないところがあるし、何か丸くてちいさな鏡のような部分がはめこまれている。牡蠣歴の長い人は「うんまそうー」と思うのだろうが、私はこれをじーっと見ると、だんだんこわくなってくる。食欲がしずかに減退していく。だから、あんまり見てはいけない。買ってきたらすぐ、塩水でざばざば洗って、よく見ずに水気を拭き取る。

 大根おろしで洗うときれいになるらしいのだが、そんな、洗うためだけに大根なんかおろせますか。超一級の面倒くさがりな私は、一度試しただけで、もう大根はおろさなくなった。

 牡蠣と親しくなってから、ERと牡蠣の関係も知った。ERのつく月の牡蠣がもっともおいしいそうである。すなわちSeptember、October、November、December。でもJanuary、Februaryの牡蠣もおいしいと私は思うが。まあフランス語にすれば、一月二月もERは入るし、という理解の仕方でよしとしよう。

 牡蠣を好きになると、冬場の料理の幅がぐーんと広がる。牡蠣フライ、牡蠣シチュウ、牡蠣グラタン、牡蠣酒蒸し、牡蠣土手鍋、牡蠣炊き込みごはん、牡蠣ムニエル。

 シチュウでもグラタンでも、私は牡蠣に小麦粉をはたいてバターと白ワインでかりっと蒸し焼きにしたものを使うのが好きだ。

 ところで、牡蠣歴の長い筋金入りの牡蠣好きになると、牡蠣風呂を夢見るらしい。幾人かがうっとりと言うのを私は聞いたことがある。生牡蠣がいっぱい詰まっている風呂に入りたいくらい、牡蠣が好きだという意味だ。いつかバケツでプリン食べたいというのと、同じ愛の表現であろう。

 牡蠣歴が短いと、じつは牡蠣をおいしいと思っても、そんなに量は食べられない。風呂はいくらたとえにしたって、「いや遠慮するわ、それ」と思ってしまう。私の場合、「おいしい」と思って食べる牡蠣は上限四個くらいである。食べ放題、と言われても、さっぱりうれしくない。

 ニューヨークにいったとき、知り合いに紹介されてオイスターバーにいった。紹介してくれた在ニューヨークの方は「この前三十個も食べちゃったの〜」と言っていた。さ、三十個。まさに牡蠣風呂。さらに彼女は「クマモトをぜったい食べるべき」と力説していた。クマモトという名の、クマモトで採れたわけではない牡蠣があるらしい。

 バーといっても昼時間もやっているレストランだった。牡蠣をメインに、前菜やスープと組み合わせてランチコースになる。牡蠣の種類、すごい。日本で暮らしていると牡蠣といえば牡蠣と岩牡蠣くらいしか思い浮かばないが、ワインリストのようなメニュウには、びっしりと牡蠣の名前と採集場所が書いてある。そんなにたくさんあってもわからないし、クマモトもちゃんと含まれているのを確認し、サンプラーというおまかせ盛り合わせを頼んだ。

 巨大な皿に渦巻きのように美しく牡蠣が並べられて登場。それにしてもみんな、ちっこい。日本の牡蠣の三分の一か、大きいものでも半分。これなら三十個、食べられるかもしれない。クマモトは、蛤くらいの大きくない牡蠣で、ちいさいだけあって身が引き締まり、うーんとクリーミーで味が濃く、たしかにたいへんおいしかった。

 かように国内外で寄り添って暮らしているとはいえ、殻つきの牡蠣を買おうと思ったことは今までなかった。開けるのがたいへんにむずかしそう。Mさんの夫のようなすばらしい男の人が、次々と開けて差し出してくれればいいな、と漠然と考えていた。が、先だって仕事の合間についふらふらと、北海道の殻つき牡蠣をネット注文してしまった。仕事が煮詰まりすぎたとき、こういう無意識行動がよくある。

 殻つき牡蠣が届き、家には私ひとりしかいなかったので、軍手をはめて挑戦してみた。するとなんたることだろう、牡蠣二個目にして牡蠣開けの極意を理解してしまった。牡蠣の膨らんでいる方を下にして持ち、隙間にペティナイフを差し入れて、上側にくっついている貝柱を切れば、いともかんたんに開く。隙間のない牡蠣は少し蒸したり焼いたりしてやれば、ほ、と少しだけ口を開けてくれる。

 生牡蠣もいいし、蒸したり焼いたりしたのが、また最高。ひとりで殻を開け、ひとりで白ワインを手酌、ひとりで牡蠣を次々と食べ、ヨシしあわせと思う。私はかつて、自己完結しすぎて友人も恋人もいらなくなるのではという不安の故、ひとりで居酒屋にいって飲める女にはなりたくないと思っていたのだが、でも、このひとり牡蠣ってその自己完結至福に似ていないだろうか……。

036 煙草とチョコレート

 昨年、禁煙をはじめたのだが、そもそも私が煙草を吸いはじめたきっかけは、チョコレート防止目的だった。

 二十一歳のとき実家を出てひとり暮らしをはじめた。三度の食事を食べずともよい、食事のかわりに菓子を食べてよい暮らしが、私には新鮮ではじめてで、夢のようだった。このころの私は甘いものに目がなく、チョコレートはとくに好きだったので、主食かというくらい、チョコレートを食べた。

 食生活がいきなり乱れに乱れたわけだから、チョコ主食の結果とはいえないのだが、気がつけばたいへんなアトピーになっていた。目のまわり、口のまわりが真っ赤に腫れ、右手の人差し指と中指がこれまた真っ赤に腫れ、かゆくて夜も目覚めるほど。アトピー発症と食生活のつながりはよくわからないのだが、当時いった病院では、原因はわからないがストレスではないのか、と言われた。

 チョコ食べ放題で、働いてはいたが(少女小説を書いていた)まだ学生で、ストレスという言葉に思い当たることは何もなく、しかしとにかくかゆいしつらいので、チョコレートをやめてみようと私は思い立った。どのようにやめるか、しばし考え、煙草だ、と思った。当時私のまわりの多くは煙草を吸っていて、彼らはみんな、甘いものを好んでいなかった。

 今でも覚えている。中野区野方の、ワンルームのアパートの部屋をひとり出て、いちばんそばにある煙草の自動販売機まで歩いていったことを。白々した光を放つ販売機に、どきどきしながら硬貨をすべりこませ、いちばんニコチン数の少ない薄荷味のものを買った。フロンティアのメンソールだったと思う。

 そこから私がいっぱしのスモーカーになるのに、本当に時間はかからなかった。そうして私の推測通り、ぴたりとチョコ欲は消えたのである。実家にいたころのようにはいかないが、食生活も(飽きのため)ふつうに戻り、お菓子を食事のかわりにすることもなくなった。おそらく煙草のおかげで、長年の持病であった便秘もなおり、またたくまにアトピーもなおってしまった。

 そうして煙草を吸っていた二十年ほど、私はまったくチョコレートを欲さなかった。そしてその二十年ほどのあいだに、チョコレート界は激変した。六歳の子どもが二十六歳の娘っこになるくらいの変わりようだ。世界各国から有名店が進出し、チョコ、と言わずショコラ、と言わねばならぬような、高価できらびやかなチョコレートがわんさと登場した。そのような高級チョコレートは、やっぱり「うわー、おいしい」と思う。でも、そのおいしいも、わざわざ求めにいくような、能動的なおいしさではなかったのだ、私にとって。

 さて昨年、煙草をやめたのだが、私は禁煙外来の投薬でやめた。禁断症状がいっさいないと言われているとおり、本当に、震えたり指の先が冷たくなったり、吸いたくて吸いたくて吸いたくてそれしか考えられない、という状態になったりせず、やめることができる。が、やっぱりそこは長年の習慣だったわけだから、なんとはなしに手持ちぶさたにはなる。

 そんなときはチョコだ、と私は思った。そもそも煙草でやめたチョコなのだ、煙草を忘れるにはチョコだろう。久しぶりに能動的に食べるチョコレートは、じつにおいしかった。手持ちぶさたのときチョコレートを食べると、気が紛れる。自身の勘の通り、煙草でやめたチョコで煙草をやめることができたのである(ややこしい文ですみません)。

 こうして二十年のときを経て、私とチョコの蜜月は戻ってきた。

 ジャン・ポール・エヴァンでなくていい、メゾン・ド・ショコラでなくていい、コンビニエンスストアで売っているチョコレートで充分。

 仕事をしている合間や食事後に、突発的に体が欲し、理性が押しとどめてもそれをふりきって口にしてしまう、というところが、チョコレートはじつに煙草とよく似ている。

 先だって、マリという国に取材旅行にいった。アフリカの内陸国マリは、最貧国の部類に入る。その国の人々の生活がどのくらい困窮しているかということと、菓子の種類というのはみごとに反比例していると私は前から思っている。九八年に旅したベトナムは、ドイモイが提起されてから十年以上たっていたがまだまだ経済復興はままならず、至るところに物乞いがいたし、道路の中央分離帯で生活する家族もいた。ホーチミンにはアイスクリーム屋が一軒あって、そこが地元の客と貧乏バックパッカーでいつも混み合っていた。マリにはアイスクリーム屋もないのだった。キャンディやガムを売る屋台、袋菓子を売るガソリンスタンド内の売店などは見たが、菓子の専門店は繁華街でも見かけなかった。

 私と同行者は、首都から車で十二時間ほどひた走った村に滞在していた。もちろんそこには、店自体が存在しない。私たちは意識はしなかったが、甘いものに心底飢えていた。ときどきコーラやファンタが出されると、日本でそんなにおいしいと思ったことがないのに、天国の味だと言い合って数秒で飲み干した。

 このとき私は、いきの空港で買った袋入りのハーシーチョコを持っていた。いろんな味のミニサイズハーシーが袋に詰め込まれたものである。私はこれをちびちび食べ、ちびちび同行者に分け、そして食べるたび、「ああ、こんなにうまいものが……」と思った。そのチョコがついに切れてしまったときは、世界から一色なくなったようにさみしかった。

 マリからの岐路は、パリの空港で乗り換えである。乗り換え時間が六時間くらい開いてしまって、店をぜんぶ覚えるほど空港内ショップを眺め倒して過ごした。私はぼうっとそれらを眺めたのち、テナントに入っていたメゾン・ド・ショコラに向かい、宝石みたいにきれいなチョコを、この世のものではないかのように眺め、だれにとも決めずおみやげ用に一箱買った。包装を待っているあいだ、お店の人がサービスでひとつチョコをくれた。口に入れて、泣きそうになった。久しぶりなのと、おいしいのと、それから、今まで見てきたマリの世界が、いかに未知のものだったかを思い知らされて。たぶん一生忘れない、高価なチョコレートの味である。

 私たちはチョコレートを知ってしまったし、もう、知らないところには帰れないのだあと、あれからのち、チョコを食べるたびに思うのである。

前の記事 次の記事

著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。