アスペクト

今日もごちそうさまでした

角田光代
お肉は好きですか? お魚は好きですか? ピーマンは? にんじんは? 美味しいものが好き、食べることが好き、何よりお料理が好きな角田さんの食にまつわるエッセイがスタートです。

No.065 イカ想念

 はじめてイカを買ったときのことを鮮明に覚えている。

 二十六歳のときに料理を覚えたと幾度か書いたが、その料理独学中に、イカをいっぱい、買ってきたのである。あ、「いっぱい」って、たくさんという意味ではなくて、ひとつ、という意味です。

 料理には難易度があって、たとえば魚を三枚におろすなんてことは、初心者には難易度が高い。イカをさばくのも、三枚おろしほどではないが、まあ、高い。むずかしいということもあるが、それより何より、こわいのである。イカのあの、黒々とした目。たくさんの足。たくさんの足についたもっとたくさんのいぼ。ぬるりとした食感。この、こわいものに触れる、という意味での難易度が、イカの場合はすさまじく高い。

 私はこわさのあまり、じーっと見てしまった。足のいぼや半分閉じたような黒い瞳を。そしてもっともっとこわくなって、そのとき遊びにきていた友だちに、「ねえ見て見て、こわいから見て見て」と見せ、友だちともこわい思いを共有し、「ひえええ」と思いながら、足と胴体を離し、足のいぼを切り、胴体の皮をはいだ。

 こんなにも鮮明に調理過程を覚えているのに、そのとき何を作ったのか、覚えていない。

 私はあんまりイカが好きではなかったが、自分でイカを料理するようになってから、食べる機会が増えた。もちろん今も、イカはこわい。けれどはじめてイカをさばいてから十八年。今ではじーっと見たりしない。ますますこわくなることがわかっているから。袋から出して、間違ってもあの黒い目など見つめずに、さっと足を引っこ抜いて軟骨を取り除いて洗って切る。皮も剥がない。面倒だから。「さっと」が肝心。

 ちなみに私は「ああ、イカが食べたい」と思うことが少ない。イカを買うとき、だから食べたくて買うのではなくて、その料理を作りたくて買うのである。たとえば、里芋とイカの煮物とか。イカめしとか。五色納豆とか(イカ、まぐろ、たくあん、柴漬け、卵)。海鮮焼きそばとか。イカリングとか。パエリアとか。八宝菜とか。

 「ああ、そうだった、この料理を作るには、イカがなくっちゃな」と思って、買い求めているだけ。

 それで「さっと」下ごしらえしてその料理を作り、食べるわけだが、そのとき、イカが異様においしく感じられることがある。どうしても食べたかったわけでもないのに、「うわ、イカ、うんまーいっ」と叫びたいほど、おいしい。

 そういうときは、疲れているときだと私は自己判断している。

 タウリンは栄養ドリンクに多く配合されている。疲れているときに飲むようなドリンク剤だ。ってことは、きっと疲労回復にいいのだろうと、勝手に解釈しているのである。実際は、疲労回復ばかりでなく、目だとか肝臓だとか脳だとか血液だとかもう体のあっちこっちにいい働きをするらしい。タウリン。
イカがこんなにおいしいということは、そうかそうか、体がタウリンを求めていたんだなあ、としみじみ思うわけである。

 函館にいったとき、空港から乗ったタクシーの運転手さんが、開口一番「カツイカを食べんとな!」と言い、市街地に着くまでずーっと、「函館といえばカツイカ」「カツイカを何がなんでも食べてって」と、ずーっとカツイカカツイカとくり返している。魚介より肉に愛のある私はつい「カツイカ? 豚カツとイカの新種料理だろうか」と思っていたのだが、ホテルについてようやく、「あっ」と理解した。カツイカ、つまり活イカ。

 その日の夜、たいへん大衆的な飲み屋にいって、その活イカを注文した。イカ刺しなのだが関東育ちの私の知っているイカ刺しとは見かけからして異なる。透き通って、しゃきしゃきしていて、すっきり甘くて、なんだこれ。私の知っている白くてねちゃねちゃしているものと、まるでちがう。

 その店で食べたもうひとつのおいしいイカ料理は、蒸したジャガイモにバターとイカ塩辛をのせたもの。正式メニュウ名はなんだったか忘れてしまったが、「なんじゃこれ」と頼んだら、まさにそれがでてきたのである。え、うそ、と思って食べたが、これがおいしかった。不思議なことを考え出すものだなあと、感心した。

 旅先のイカといえば、ギリシャのカラマリが有名だ。からっと揚げたイカのフリットに、レモンをぎゅーっとしぼって食べる。これはどこのどんな店で食べても、おいしい。イカっておいしいんだなあと、疲れているからではなくて、旅していて気づかされたくらいおいしい。アテネのある食堂で、カラマリを頼んだら、揚げたイカではなくて、どう見ても焼いたイカが出てきた。夏の海の家や、お好み焼き屋さんで「イカ焼き」という、焼いたイカを切っただけの食べものがあるが、あれとそっくり。「えー、ギリシャでイカ焼き」と思いつつ、レモンをしぼって食べたら、これがむっちりふんわりしていておいしかった。ギリシャには不思議なことに、タラモサラダとか、肉詰めピーマンとか、なぜか日本の家庭料理とよく似たシロモノが多い。

 イカスミパスタはイタリア出身の料理だろうけれど、イタリアの旅で一度も食べたことがない。というより、日本でも食べたことがない。おいしいのだろうことはわかっているが、ついつい、ほかに食べたいパスタがあって、そちらを選んでしまうのだ。歯が黒くなるのもなんだかこわいし。

 イカスミといえば、忘れがたいのがジョン・アーヴィングの小説、『未亡人の一年』。主人公ルースの、どうしようもない浮気性の父親は絵本作家なのだが、イカスミをためてそれで絵を描くのだ。その描写は小説の前半にほんの少ししか出てこないのだが、その後の物語の放つ生ぐささを強調するものすごい小道具になっている。
あれ? はじめてのイカから、いつのまにか小説の話になっている。イカ、泳ぐ泳ぐ。

No.066 カクタステーキ

 牛肉と聞いて人が思い浮かべるものは、いったいなんだろう。すき焼きか、しゃぶしゃぶか、焼肉か、それともステーキ。いずれにしても、「なんか御馳走」感がある。実際のところ、鮨とか、鮑とか、フカヒレとか、値段の高いものはたくさんある。が、若き日の私は、「今日は御馳走してもらえる」という日に、「蟹にしました」とか「中華にしました」などと言われると、ガクーッときたものだった。御馳走っていえば、肉でしょ、肉! と思ったし、そして御馳走肉といえば牛肉、という思考回路だった。

 先に挙げた牛肉有名料理を、私の思う御馳走順に並べてみると、ステーキ、すき焼き、しゃぶしゃぶ、焼肉、である。これはもう、根拠がないから変えようのない脳内イメージである。

 何か祝いごとがあれば、ステーキ食べにいこうかな、と思うし、御馳走しましょう、と言われると、ステーキかな、と思う。私のもっとも好きなステーキスタイルは鉄板焼き屋のステーキ。その次がイタリア料理屋の炭火焼き。フランス料理のソースのかかった牛肉は、私にとって御馳走感があまりない。

 しかしながら、ステーキってそんなにたくさん食べられるものではない。麻布に、赤身肉のステーキを食べさせる大人びた店があって、同業者の友人が八〇〇グラムのステーキを食べたと言っていた。「サラダなんかは頼まず肉だけ頼めば、赤身だからぺろりだよ」と言っていた。後日、私もこの店にいく機会があって、おそるおそる友人と二人で四〇〇グラムをひとつ頼んで分けたが、食べきることができなかった。

 一二〇グラムでも私には多い。でも、その、「ちょっとしか食べられない感じ」が、御馳走と結びついているように思う。

 第二位のすき焼きも然り。これまた、たくさん食べられるものではない。たれが濃いし、豆腐や白滝もおいしくてばくばく食べて、肉の量は意外に少なかったりもする。

しゃぶしゃぶはすき焼きよりはたくさん食べられる。湯をくぐらせてさっぱりさせるのがいいのだろう。味もポン酢と胡麻と、二種類あるから飽きもこない。

 焼肉はえんえん食べられる。タンからはじまって、ハラミ、カルビ、ロース、ミノ、レバ、トモサンカク、ザブトン、ミスジ、トウガラシ、めずらしい部位があればあったで頼んで、えんえん食べられる。もちろん食べられるのにはわけがある。焼き肉屋にいくときはたいてい大勢で、一皿をみんなで分け合う。ステーキのようにひとり一枚、すき焼きのようにひとり一皿ではない。

 さらに私は焼肉屋では、肉とキムチ以外のいっさいを口にしない。サンチュもサラダもまったく食べない。ステーキ屋やすき焼き屋ではそれは無理だし、肉以外のものも食べたくなるが、焼肉屋では肉だけ食べることが可能であり、なおかつ、私はサラダやサンチュを入れる隙間があったらそこに肉に入ってほしいのだ。

 つまり私の御馳走感って、食べられる量と比例しているのだ。少ししか食べられなければ、それは御馳走。たくさん食べられれば、日常食。単純だなあ。

 それにしても、日本人の「やわらかい肉」への愛は異様だ。この場合のやわらかさは、つまりは霜降り、サシの多さということになる。箸で切ることのできる肉、口のなかでとろける肉、まぐろのトロみたいな肉。私は全世界どこにいっても、こういう肉はあるんだろうと思っていた。あちこち旅してもなかなかそういう肉に出合えないのは、私が貧乏旅行者で、そうした高級肉のあるところに足を踏み入れないせいだろう、と。

 違うのだ。世界広しといえど、あーんなにやわらかい肉など、日本以外、ないのだ。あるとしたら日本料理店。いや、もしかして私が足を踏み入れていないところにはあるのかもしれない。でも、あれほど食に命をかける中国でも、焼肉の有名な韓国でも、炭火焼きならまかせろイタリアでも、人種のるつぼニューヨークでも、口のなかでとろける霜降り肉を私は食べたことがない。三十数カ国旅してわかったことは、日本人以外、肉のやわらかさに執着などしていない、ということだ。

 うまい肉、というと、他国では、やわらかさではなく、味、になる。噛んではじめてじゅーっと出てくる、肉の味。口のなかでとろけちゃいかんのである。噛んで噛んで噛みしめないといかんのである。

 今まで食べたステーキで、いちばんおいしかったのは、スペインのバスク地方で食べたものだ。バスクの中心街サンセバスチャンから遠く遠く離れた山奥に取材のために訪れた。山道をくねくねとしばらく車でのぼっていくと、なぜか、唐突に家がある。その家より高い場所には牛が放牧されている。山のなかにぽつりとあるこの家、なんと畜産農家のおかあさんが営む食堂で、ステーキが売りなのだという。

 ここでおかあさんが炭火で焼いてくれたステーキが、感動するほどおいしかった。塩加減がちょうどよく、外側がかりっと焼かれ、なかはしっとりとしたレア。噛むと肉のうまみがじゅーっと広がり、ほのかに甘く、とけたりしないがやわらかい。もう泣いちゃいたいくらい、赤ワインとよく合う。

 山のなかにあるこの食堂、昼どきにはけっこうな人がやってきて食事をしていた。ふらりとここに食事をしにくることができる人が、ねたましいほどうらやましかった。

 ちなみにこの食堂から見える山は、なんと、「カクタ山」というのだそうだ。「カクタ」とバスク人のおかあさんの口から発語されるこの不思議。ちょっと誇らしい気分であった。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。