肉が好きだ、というのは、たんにその通りの意味であって、魚が嫌いだ、という意味にはならないと思うのだが、なぜか、肉が好きだと言うと、魚が嫌いだととらえる人が多い。私は魚も好きだ。鮨なんか好物だ。
あちこちで公言したり、文章に書き記してきたせいで、私の肉好きは自分でも恥ずかしくなるほど広く知れ渡っている。そしてその「広く」のほとんどすべての人が、肉好きを魚嫌いと翻訳して覚えている。野菜なんて言語道断だと、これまたものすごい誤訳までしている。
初対面の人と取材旅行にいって、「すみません、今日の夜、魚料理なんです。ほんと申し訳ない」とあやまられることが、何度もあって、その都度ぎょっとする。「魚好きです好きです好きです」と言っても信じてもらえなかったりする。
はたまた、仕事で地方にいった際、現地の仕事相手の人が連れていってくれる店はみな肉関係である。肉には詳しくなるが、魚にはどんどん疎くなる。その地方ではどんな季節にどんな魚がおいしいのか、まるで知らない。
驚いたのは、やっぱり仕事で台湾にいったときのこと。私の本を中国語で刊行してくれた出版社の方々と、ごはんを食べることになったのだが、その店に向かいながら若い女性編集者が「カクタさん、ごめんなさい、その店は魚の店なのです」と言ったこと。う、海を越えて知られている(そして海を越えて「魚嫌い」と翻訳されている)。「そんな、あやまらないでください、私は魚も好きですから」と言いながら、恥ずかしくてたまらなかった。
しかしながら、そのように「私は魚も好きです」と言い続けていると、どういうわけか、肉好きをさらに印象づけるようである。「肉が好きだが、魚も、食べられるには食べられる」というようなニュアンスになるのだろうか。「も」がいけないのか。
そんな次第で、人に誘われる外食は肉料理が圧倒的に多い。イタリア料理でも、メインに肉しかない店だったりする。多くの人は、私よりよほど肉に詳しいと思う。
肉と魚について、じっくり考えてみた。私はいったいどの程度、肉と魚に差をつけているのか。
セットメニュウのある料理店や、あるいは飛行機なんかでも、肉か魚かを選ぶときは、肉を選んでいる。イタリア料理店、フランス料理店は、メニュウのメイン欄に、肉コーナーと魚コーナーをわけてのせているが、こういう場合、魚コーナーをちらりとも見たことがない。だからそういった料理店で、どのような魚がどのような料理法で扱われているのか、まったく知らない。
やっぱり肉好きじゃん、と思うのは、しかし時期尚早。私はナイフとフォークで魚の骨をよけたりとったりするのが、いやなだけなのだ。肉なら切ればいいだけだ。骨付き肉でも、でかい骨に添ってナイフを入れればいいから楽だ。魚の小骨に比べたら、肉の骨など骨ではない。
そんなら、小骨のない魚にすればいいではないかと思うかもしれないが、魚というのは油断ならないもので、「これには骨はなかろう」と思っても、あったりする。見た目、骨なんかないようでも、咀嚼中「ちりっ」と舌を刺したりする。そんな賭けはしたくないのである。
箸の使える店なら魚の小骨なんてまるでこわくない。私が鮨を好きなのは、骨がないからだ。
それから、焼き肉屋で私はキムチと肉以外のいっさいを食べない。野菜焼きやサラダ、ごくまれにある魚介系の焼き物も食べない。それはやはり同行者に「野菜嫌い」「肉好き」という印象を与えるようだけれど、それにも理由があって、私はあまり量を食べられないため、野菜やごはんなど食べてしまうと、肝心の肉が食べられないのである。焼き肉屋で肉が食べられないなんて、なんだかおかしいと思うから、肉中心に食べているだけの話である。そこがもし、野菜焼き屋なら野菜を中心に、魚介焼き屋なら魚介を中心に食べる。
と、書き連ねているうちに、他人にとってはどうでもいいようなことへの言い訳を、猛烈な勢いでしている気分になってきた……。
昨日は隣町のホルモン屋にいった。これは某社の担当者が一カ月も前から、「肉を食べにいきましょう」と誘ってくれていたのである。「食事にいきましょう」「飲みにいきましょう」では、ない。「肉を食べにいきましょう」。
彼は、知る人ぞ知る、まったく予約のとれない中野区にある肉専門店にいこうと思っていたらしいのだが、案の定、一カ月前でも予約はいっぱいで、近隣のホルモン屋になった。
この中野の肉専門店であるが、私は二度ほどいったことがある。焼き肉屋とも違う、分類としては肉専門店というよりない店で、今はどうかわからないが当時は肉の刺身が豊富で、しかも、焼いたもの、煮たもの、なんでもおいしかった。お客さんたちは予約が取れないことを知っているので、帰りがけ、いつくらいなら予約とれそう? とお店の人に訊いている。そして空いている三カ月とか、四カ月とか先の日にちを、とりあえず予約して帰っていくのである。考えてみれば、すごいことである。
隣町のホルモン屋であるが、こちらも人気店で、何カ月も前からということはないが、それでも当日ふらりとやってきても入れない。この店はなんといっても安くておいしい。コンクリートの壁一面に、漫画家の人たちの絵が描いてある。
担当編集者二名と、共通の友だち、四人で乾杯し、豚タン、豚バラ、Wホルモン、リードヴォー、ギアラ、ハラミ、パンチェッタ、アスパラ、エリンギ、などなど頼み、じゃんじゃん七輪にのせて焼き、それぞれの近況について話しながら、焼けたものを食しては「ンマーッ」と叫んだ。
肉の脂が落ちて、七輪から炎が上がり、逆煙突みたいな装置にすーっと吸いこまれていく。炎が出たとき氷をのせて火を消す人がいるけれど、あれはやらないほうがいいといつだったか焼き肉屋の人に教わった。炎をよけるように私たちは顔の角度を変えて話し続けた。
そうしながら、肉について思いを馳せる。
肉って安い。人はそんなことを深く考えもせず、高級肉は高いし、安い肉は安いと思っている。でも、やっぱり肉って安いんじゃないか。
もちろん、ものすごい値段の肉の店もある。でも、高級店の肉というのはたいがいコース設定になっていて、メインの肉料理が出る前に、トリュフだとかからすみだとか、鮑だとか伊勢海老だとか蟹だとか、そういったあれやこれやが出る。肉、単品、それだけならば、五万も十万もしない(する店もあるかもしれないが、知らない)。そうしてそうした高級店は、日常的にいくようなところではない。
そのホルモン屋であるが、ンマーッと絶叫するおいしさで、肉はみな、五百円。豚バラもハツもミノも五百円。だから混んでいる。
世の焼き肉屋は値段的にピンからキリまであるが、いくら高いほうに分類される焼き肉屋でも、ひとり一万円以上払うことはあんまりない。一万円以上になるときは、さんざっぱら飲んでいる。
豚だともっと安くなる。サムギョプサル、豚しゃぶ、焼きトン、グリル、炭火焼き、各国料理店で扱う豚は、たとえブランド豚であっても牛より安い。鶏はさらに安くなるし、私の愛する羊も安い。
さっきから、安い安いと連発しているが、絶対的に安価だ、と言っているのではない。「魚と比べて」相対的に思うのである。
鮨を食べにいったらば、焼き肉屋なんかの比ではない。そもそも、通りがかりの焼き肉屋には入れるが、鮨屋には入れない。知らない店の鮨がいくらするのかわからないからである。
松葉蟹。本マグロ。ふぐ。みーんな高い。
ずうっと前のこと、食事にお呼ばれして、鍋料理だったから気楽に、料理に気を遣わず、わいわいと食べていたら、呼んでくれた人が、この鍋の魚は東京ではめずらしいのだと言い、そのコースの値段を口にした。一同、しんとなって鍋のなかを見つめたことがある。私はその値段が胸のなかでこだまのように響くのを感じつつ、「もう一度最初からていねいに味わいたい」と思っていた。だって、その魚、値段を言われなければ私には白身魚としか思えなかったのだ。ちょっとおいしい鱈鍋、と言われても納得しただろう。
高い肉の天井値段は想像がつくが、魚はまったくわからない。外食だけではない。
よくいく魚屋さんに、めばるが並ぶ。めばるの煮付け、いいな、と思うが、値段を見ると一尾八百二十円。すぐさま私は切り身魚に目を逸らし、カレイの煮付けかな、と瞬時に考えを変えるが、こちらは一切れ五百円。どうすべか、と考える自分が自分で恥ずかしい。
いつだったか、キンキがまるごと一尾、八百円で売られていた。いつもは二千円台なのに、どうしたことか。私はさっそくウキウキと、「キンキくださーい、おなか出してくださいねー」と上機嫌で言ったのだが、支払いの段になって仰天。べつの魚で値段札が隠れていたのだ。八百円ならぬ、千八百円。まあ、いつもよりは安いが、それでも千八百円。
旬の魚は、出はじめは高いが、旬ど真ん中になると安くなる。件のめばるだったら、一尾五百円台かそれ以下になったときに私は買う。
一方、肉に値段の変動はない。めばる二尾ぶん、肉だけ買えば、けっこうな肉料理になる。すき焼きをしようとか、ステーキを焼こうという場合は、もちろん肉だって高いのだが、しかし何かそこには「お祝い感」がある。でもきんき煮付けはどこまでも日常だ。
そうか、肉って安いのか。私はしみじみと思いつつ、ンマーッとさらに心の奥深くから言った。尊敬の念をこめて。
肉記、というのは、今月からはじまる、そんな私の日記のようなものである。
もちろん肉のことばかりでなく、ほかのことも書きますが、飲食中心の日記になることと思います。どうぞよろしくお願いします。
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