学生時代の友だちと、べつの友だちの芝居を見にいった。私たちはみんな演劇サークルに属していて、その同期なのである。このサークルの出身者は、じつに多くが今も芝居をやっていたり、演劇関係者だったりする。すごいサークルだったんだと、今になって思う。
観劇後、私の住まいのある町に戻り、飲もう、ということになった。焼き鳥、焼き肉、バル系、ごくふつうの居酒屋、どれがいい? と訊くと、焼き鳥、とのこと。よっしゃ。地元の、私がいちばん好きな焼き鳥屋に連れていくぞ。
駅からほんの少し離れた場所にあるそのお店は、正確には焼き鳥屋さんではなく、焼き鳥もやきとんも、ほかの料理もあり、冬はもつ鍋を出す。この町ではおいしい店はきちんと人気店になる。七時過ぎにふらりときても、入れないことが多い。
着いたのは六時の開店すぐで、まだまだ席は空いている。よかった。カウンターに二人で並び、友だちはハートランドの生ビール、私はレモンサワーで乾杯。ポテトサラダ、トリッパ、串を何本か注文する。ポテトサラダはふつうで、まっとうなおいしさ。バゲットと出てくるトリッパも、あつあつで、トマトの酸味が絶妙。
串は、せせり、アスパラ豚巻き、肝、皮、などなど。焼き鳥ややきとんって、焼くだけのように思うのだが、おいしいものとそうでないものとあるのはなぜだろう? じつは一週間ほど前、そうでない焼き鳥を食べたばかりなので、この店のおいしい焼き鳥とついつい、比べてしまうのである。友だちが、おいしい、おいしい、と連発してくれるのでうれしくなる。連れていったお店で喜んでもらえると、こんなにうれしいものなんだなあ。
飲みものをおかわりし、さらに串を注文しつつ、縁の不思議について考える。
学生時代、うーんと仲のよかった人でも、疎遠になる人のほうが多い。忙しくて会えなくてそのままになったり、気がつけば共通点がひとつもなくなっていたり、つるんでいる仲間が双方まったく変わったりして、そのうち連絡先もわからなくなる。それきりなのは、双方それで何も困っていないから。
一方で、学生時代にさほどいっしょにいたわけではないのに、ほそぼそとながら、ずーっとつきあいの続く人もいる。
いちばん不思議なのは、学校を出てからなんとなく音信不通になり、三十歳過ぎにばったり再会し、またつきあいがはじまる、というパターンだ。
カウンターで並んでいる女友だちは、ほそぼそとながら続いている友だち。ほかに、三十過ぎで再会パターンの古い友だちもいる。
なんなんだろうなあ、と思う。切れる縁と切れない縁の違いは、なんなんだろうなあ。学生時代に読んだ宮本輝さんのエッセイに、そのような縁について書かれたものがあった。たしかその本には、近くにいる友だちというのは、持っている「器」が同じなのだと書かれてあった。
器、というものが私は未だ実感できないけれど、でも、たしかに、そのように縁のある友人たちは、みんなどこかしら似ている。類は友を呼ぶって、きっと真実なんだろう。
ほうれん草とチーズを豚肉で巻いた串が、毎日ひと串食べ続けたいと願うほどおいしい。気がつけばお店は満席。私がこのお店を好きなのは、料理がおいしいのはもちろんのこと、カウンターのなかにいる店主のおにいさんがすてきなこと。男前のおにいさんは、どんなに忙しくても、どんなに混んでいても、ずーっとほほえんで串を焼いているのである。そのたたずまいがとてもいいのだ。注文したシークアーサーサワーがずいぶんきていないことに気づいて、注文通っているでしょうかと訊いてみると、「あっシークアーサー、今もいできたところなんで!」と笑顔で即座に返す。
お勘定を割り勘で払い、お店を出る。ああおいしかった、おいしかったと二人で言い合いながら、暗い道をにこにこ歩いた。二十代のときも、この同じ夜道を彼女とほろ酔い気分でにこにこ歩いたなあと思い出す。 |