アスペクト

肉記


5 ねんねん苦手

 おいしいもの好きの私の友だちは、はじめての店に入って、出てきた料理がまずいと、我慢して食べるということができず、残して出てきてしまうらしい。

 しかしながら最近、まずいものって、そうそうはない。おおざっぱに言ってしまえば、「おいしいもの」と「そこそこのもの」、このふたつに分けられるのではないか。うわー、これまずい、というものにはめったにあたらない。

 そこそこのもの、というのは、おいしくないわけではないが、おいしいわけでもない、といったものだ。インスタント食品の味がする、とか、甘すぎるとかしょっぱすぎるとか。友だちが「まずい」というのは、もしやこの「そこそこ」のことなのかもしれない。

 どっちかの店を選べといわれれば、そりゃあ私だっておいしいものを食べたいけれど、でも、そこそこでも、さほどかなしんだり怒ったりしない。とうぜん、料理を残して店を出るということもない。「ふーん」と思いながら食べる。たいらげもする。

 飲食店を選ぶ際に私がもっとも重要視し、慎重になるのは、味よりむしろ接客である。そこそこのものでも、まずいものでも、平気だけれど、お店の人の感じが悪い、これだけは耐えられない。昔からそうだったのではなく、加齢とともに、どんどん、どんどん耐えられなくなった。この耐えられなさは、いったいなんだろうと自分でも不思議に思うほどである。

 「足下を見る」ような対応は、バブル期にはたくさんあった。「店主が異様に威張っている」のも多かった。

 私が作家デビューしたときは終盤だったがかろうじてバブル期で、なおかつ、仕事柄、編集者に呼ばれて敷居の高い店にいくことが多かった。当時、すべての編集者が私より年長で、彼らは自分たちの使い慣れた店にいくから、私にとって年齢不相応の店が多かったのだ。勤め人経験のない私は、社会常識に欠けたところがある。編集者に呼び出されれば、そこがどんな店であるか考えもせずに、ふだんどおりの古着やジーンズで出向いた。そんな若者にもきちんと対応してくれる店もあるが、「何この子ども」「まちがっちゃった?」という対応も、ずいぶん受けた。

 ずいぶん受けたのだから慣れても良さそうなものを、慣れない。こういう対応は未だにされるのだが、ねんねんいやになる。最近では、そういう対応をした人ほど、その後、私がものを書く仕事をしていると知るや、急激に態度を変えてにこやかになったりする。

 かように感じが悪いのがいちばんいやだけれど、機械的な対応も苦手である。それから、機械的な愛想のよさも、よければよいほど、私は居心地悪くなってくる。

 はじめての飲食店に入る際、この店の人たちはふつうに接客してくれるだろうかと、そんなことでどきどきする。

 予約の電話をしていれば、ある程度見分けがつく。電話に出た人の応答は、そのままお店のすべての人の接客、そしてお店の雰囲気だと考えてまず間違いない。

 チェーン店でなく個人経営の飲食店が多いちいさな町では、お客さんは味や値段や接客なんかをそれぞれの基準で評価していて、これはかなり正確だと思う。つまり、おいしくて、味や雰囲気に値段も見合っていて、お店の人の感じがいいと、その店はかならず混む。そのお店ががらがらならば、どれかひとつ、あるいはふたつみっつ、へんだと考えて間違いないように思う。

 接客なんてお店の人気に作用しないような気もするし、また、混めば接客もお座なりになりそうだが、そうではないのが不思議。おいしいお店は接客がすばらしく、すばらしい接客のお店はきちんとおいしい。

 私の住む町がまさにその典型で、いいお店はいついっても混んでいて、見た目ふつうの居酒屋さんでも予約必至。新しくお店ができると、よければ数週間のうちに人気店になってしまうし、そうでなければ閑古鳥が鳴き、いつの間にか店舗が変わっている。

 と、なると当然、私の好きな店は予約必至の店ばかりなのである。気持ちのいい電話対応をしてもらって予約して、体温のある接客でおいしいものを食べる。

 私がねんねん残念な接客に耐久がなくなってくのは、加齢のせいではなくて、自分の住む町のこういう店々に甘やかされているからかもしれない。

006 旅は食

 国内の旅で、何がたのしみかって、やっぱり食べものである。もう少し若いときは、もっとべつのもの(城とか史跡とか美術館とか記念館とか)がたのしみだった。食にあまり興味がなかったのだ。

 旅でいちばんたのしみなのは、食だ! と気づいたのは、伊勢神宮の内宮前にあるおかげ横丁を歩いていたときだ。飲食店のほかに、干物をその場で焼いて試食させる魚屋があったり、練り物やコロッケを売る店があったり、煎餅やドーナツを売る店があったり、ビールや酒を祭りのように売る酒屋まであって、もう、なんというか買い食い天国のような場所を歩くうち、たがが外れ理性が吹っ飛び、生きるよろこびはここにある、とまで思ったものだった。

 その後少し落ち着いてから、旅のたのしみは食、な自分をはじめて自覚し、唖然とした。十年前だったら、百二十五社ある伊勢神宮をまわってみようとか、そういうことに興味を持っていたはずだ。「食」がいちばんなんてなんだか情けない。そう思ったのである。

 けれどその後もあちこち旅して、どうしたって食がたのしみなのだから、開きなおることにした。ご当地のおいしいものが食べたい、それでいいじゃないか。旅食い意地がはっているのは、立派なおばさんの証じゃないか。

 国内の旅は、たいていが仕事で、三、四人でいくことが多い。この三、四人のなかに、かならずご当地食にくわしい人がいる。旅食い意地がはっているのにそういうことに疎い私は、もうまかせっぱなし。こっちにいきますよーと言われればついていき、これおいしいですよーと言われれば食べる。

 国内旅では、朝昼夜、お八つ、夜食とすべて味わおうと意気込む私だが、いちばん時間をかけられるのは、やはり夕食だ。宿の品数多い夕食もたのしいけれど、でも、その地の居酒屋にいくのが私は大好きだ。仕事の旅だと、居酒屋夕食が多い。

 遠野を二泊三日で訪れたとき、食情報にくわしいスタッフが、魚料理の居酒屋をさがして連れていってくれた。サッシの引き戸を開けて入り、靴を脱いであがる。ふつうのおうちみたい。奥にカウンターがあり、家ならリビングやダイニングといった場所にテーブルがある。二階もあるらしい。ひとつ空いているテーブルについた。テーブルはみなグループ連れで埋まっている。

 メニュウを見て、まず刺身を注文し、その日の仕事終了をねぎらって乾杯、出てきた刺身を食べて私たちは顔を見合わせた。刺身って、魚をただ切っただけであって、もちろん、冷凍物とそうでないものは違うし、ちょっと長く放置しちゃった? というようなものもあるけれど、でも、たいがいどこで食べても差はないし、ちゃんとおいしい。

 ところがこの店の刺身、おいしいを十倍にしたくらい、おいしいのだ。すごいっ、おいしいっ、なんだろ、なんでだろ、と言い合いながら私たちは無我夢中で食べ、食べつつもっとほかの料理を注文した。驚くことに、出てくるもの、出てくるもの、みんなすばらしくおいしい。〆の炒飯までもれなくおいしい。私たちはその場で、翌日の予約までした。

 いつもの二泊三日の旅ならば、二日目は一日目と違うものが食べたくて、違う店にいく。しかしこのとき、「ぜったいにここ。明日も同じものを食べる」と全員が強く決意するほど、私たちは感動したのである。そしてお会計をしてまた感動。あり得ない安さ。計算間違ってないですかと訊いてしまったくらいだ。

 そうして翌日も、仕事を終えた私たちは一目散にこの店を目指したのである。急ぎすぎて、仲間のひとりを車に乗せ忘れる、という漫画のような事態まで引き起こして(無事、乗せた)。

 この旅は二年ほど前。未だに私たちは会えば、あの店はおいしかったねと言い合う。あの店にいくためだけに旅したいと夢想する。

 そしてこの二年で知ったこと。刺身は、ただ切って出すだけではないらしい。刺身のおいしさは、その店の総合点を象徴していると考えていい。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。