おいしいもの好きの私の友だちは、はじめての店に入って、出てきた料理がまずいと、我慢して食べるということができず、残して出てきてしまうらしい。
しかしながら最近、まずいものって、そうそうはない。おおざっぱに言ってしまえば、「おいしいもの」と「そこそこのもの」、このふたつに分けられるのではないか。うわー、これまずい、というものにはめったにあたらない。
そこそこのもの、というのは、おいしくないわけではないが、おいしいわけでもない、といったものだ。インスタント食品の味がする、とか、甘すぎるとかしょっぱすぎるとか。友だちが「まずい」というのは、もしやこの「そこそこ」のことなのかもしれない。
どっちかの店を選べといわれれば、そりゃあ私だっておいしいものを食べたいけれど、でも、そこそこでも、さほどかなしんだり怒ったりしない。とうぜん、料理を残して店を出るということもない。「ふーん」と思いながら食べる。たいらげもする。
飲食店を選ぶ際に私がもっとも重要視し、慎重になるのは、味よりむしろ接客である。そこそこのものでも、まずいものでも、平気だけれど、お店の人の感じが悪い、これだけは耐えられない。昔からそうだったのではなく、加齢とともに、どんどん、どんどん耐えられなくなった。この耐えられなさは、いったいなんだろうと自分でも不思議に思うほどである。
「足下を見る」ような対応は、バブル期にはたくさんあった。「店主が異様に威張っている」のも多かった。
私が作家デビューしたときは終盤だったがかろうじてバブル期で、なおかつ、仕事柄、編集者に呼ばれて敷居の高い店にいくことが多かった。当時、すべての編集者が私より年長で、彼らは自分たちの使い慣れた店にいくから、私にとって年齢不相応の店が多かったのだ。勤め人経験のない私は、社会常識に欠けたところがある。編集者に呼び出されれば、そこがどんな店であるか考えもせずに、ふだんどおりの古着やジーンズで出向いた。そんな若者にもきちんと対応してくれる店もあるが、「何この子ども」「まちがっちゃった?」という対応も、ずいぶん受けた。
ずいぶん受けたのだから慣れても良さそうなものを、慣れない。こういう対応は未だにされるのだが、ねんねんいやになる。最近では、そういう対応をした人ほど、その後、私がものを書く仕事をしていると知るや、急激に態度を変えてにこやかになったりする。
かように感じが悪いのがいちばんいやだけれど、機械的な対応も苦手である。それから、機械的な愛想のよさも、よければよいほど、私は居心地悪くなってくる。
はじめての飲食店に入る際、この店の人たちはふつうに接客してくれるだろうかと、そんなことでどきどきする。
予約の電話をしていれば、ある程度見分けがつく。電話に出た人の応答は、そのままお店のすべての人の接客、そしてお店の雰囲気だと考えてまず間違いない。
チェーン店でなく個人経営の飲食店が多いちいさな町では、お客さんは味や値段や接客なんかをそれぞれの基準で評価していて、これはかなり正確だと思う。つまり、おいしくて、味や雰囲気に値段も見合っていて、お店の人の感じがいいと、その店はかならず混む。そのお店ががらがらならば、どれかひとつ、あるいはふたつみっつ、へんだと考えて間違いないように思う。
接客なんてお店の人気に作用しないような気もするし、また、混めば接客もお座なりになりそうだが、そうではないのが不思議。おいしいお店は接客がすばらしく、すばらしい接客のお店はきちんとおいしい。
私の住む町がまさにその典型で、いいお店はいついっても混んでいて、見た目ふつうの居酒屋さんでも予約必至。新しくお店ができると、よければ数週間のうちに人気店になってしまうし、そうでなければ閑古鳥が鳴き、いつの間にか店舗が変わっている。
と、なると当然、私の好きな店は予約必至の店ばかりなのである。気持ちのいい電話対応をしてもらって予約して、体温のある接客でおいしいものを食べる。
私がねんねん残念な接客に耐久がなくなってくのは、加齢のせいではなくて、自分の住む町のこういう店々に甘やかされているからかもしれない。 |