はじめていく飲食店で注文する際、忘れてしまいがちなことに、量の問題がある。量が多いか多くないかがわからずに、つい目がとらえたものを頼んでしまい、出てきた皿を見てたじたじすることが私には多い。
私は小食である。とくに飲んでいるときは、あまりたくさん食べられない。数年前、雑誌の企画で、食べる量を減らして胃袋を今よりちいさくする、という仕事を半年やって、実際胃はちいさくなり、前よりさらに小食になった。
量の食べられない人にとって、その店の料理の量、はたまたコースの品数、というのは、尋常ならざる重要問題なのである。
大勢いるときは、問題ない。大勢のなかにかならず半端じゃない量をぺろりと平らげる人が混じっている。量のことを考えずにたくさん頼んでしまって、テーブルにびっしりと量が並んでも、ひとりで片付けなければならないわけではない。食べられる人がたくさん食べればいいのである。
大勢でも、コース料理だと困る。私はいつもあらかじめ、私のぶんは量を少なくしてくださいとお願いしている。そして、コース全容を書いた品書きがない場合、お店の人にコース内容を説明してもらう。量が食べられないので、どこに力を注ぎどこで力を抜くべきか、その内容を見聞きしながら考えるのである。
コース内容の書かれたお品書きがなく、かつ聞きそびれてコースがはじまってしまい、えんえん、えんえん料理が出てきて気が遠くなることもしばしばある。中華や、和食は要注意なのである。
ひとりで飲みにいけるようになってから、量、というのはあらためて最重要課題になった。よくいく店ならまだわかる。一皿の分量を少なくしてほしいと頼むこともできる。そうした融通の利く店が、私の住む町には多い。でも私は、自分の住んでいる町にかぎり、新規開拓が好きだ。
はじめての店に入るときは、慎重に、飲みものと、あとは二品ほどを頼む。その二品で量を判断し、残りに進もう、という算段である。ポテトサラダとか、豆腐料理とか、何かこう、居酒屋前菜的な二品。
しかしここで「ああ、失敗した」と思うことも、多い。ポテトサラダてんこ盛り、冷や奴一丁ぶん、みたいな量が出てくる店が、ときどきあって、私はその二品を前に絶望的な気持ちになる。この二品をたいらげないことには、次のメニュウなんて頼めない。でも、このてんこ盛りとまるまる一丁、ぜんぶ食べきれるはずがない。と、いうことは、私の今日の夕ごはんは、この冷たい二品で終わり……。
いつだったか、とある店で、餃子小(三個)、アスパラ、レバカツ、を頼んで、酎ハイを飲んで待っていた。まず出てきた餃子を見て、絶望の淵に落とされた。三個なら食べられると思ったものの、ひとつが、三つぶんくらいの大きさなのである。続いて出てきたアスパラは、ぶっといものが、穂先を数えてみると四本。一本が三つに切ってあって、見た目の量がさらにすごい。一枚で出てくると想像していたレバカツは、細く切った肉片が、小盛りの炒飯くらいの量。餃子は二個でギブアップ、アスパラは半分でギブアップ、しかしレバカツに至っては、食べても食べてもまるで減らない。泣きたくなってきた。残すしかないのだが、でも、まったく食べていないみたいな状態で、店を出たくはないではないか。でも、食べても食べても、まったく食べていないみたい……。
このときあまりにも絶望的な気分になったので、その後しばらく、あたらしい店では、量はどのくらいかまず訊いていた。
そしてつい先だって。お蕎麦屋さんで、板わさや味噌豆腐や卵焼きでちょこっと飲み、〆の蕎麦の注文時、「量少なくしてもらえますか」と訊くと、「うちの蕎麦、ものすごく量少ないからだいじようぶよ!」とお店の人はにこやかに言う。それなら……と頼んだせいろが、
どどーん、
であった。
多い、少ないの感覚は、人によっても違うのであるなあ。
一度でいいから、大食い気分を味わってみたい。大食いの人は大食いの人で、出費も多いしたいへんなのだろうけれど。 |