アスペクト

肉記


007 店選びのおたおた

 編集者というのは、ほとんど全員飲食店にくわしい。おいしい店をいかにたくさん知っているかというのも編集者の評価にかかわるのだと、みんな新入社員のときに教わるのだと聞いたことがある。当然ながら飲食に興味もない人もいる。そういう人でもだいじょうぶ。自分のまわりにいる人たちがくわしいから、訊けばすぐに教えてくもらえる。

 長いこと、そのような職種の方々と仕事をしているので、私のなかの飲食店部分は退化している。もちろん、自分の暮らす町では、あそこがおいしい、ここがおいしい、そこはイマイチという飲食店知識があるし、新しい店ができればいってみたいという好奇心もある。けれど都心はからっきしだめ。店を知らないし、覚えない。雑誌で見て「ここの料理はおいしそう」と思っても、それが都心だと、「なーんだ」で終わる。いってみたり、まずしない。

 飲食部分が退化すると、まったく勘が働かなくなる。

 友だちと、どこかでごはんを食べよう、ということになる。私が店をさがす役目になる。これが我が町ならば私は俄然張り切って、何食べたい? ちょっといい感じのビストロがあるよ、あり得ないくらいおいしい居酒屋があるよとわくわく言うのだが、都心方面だと、おたおたする。前に編集者に連れていってもらって、おいしかったという店は無数にあるのに、店名も、場所も、思い出せない。おいしかったナーという、ほわんとした記憶しかない。

 それなのになぜか、さがす役目になることが私はたいへんに多い。いつもおたおたするので、向田邦子の「う」の引き出しをまねて、おいしい店リストを独自に作っている。連れていってもらっておいしかった店のネームカードをファイルしたり、ホームページにブックマークをつけたりしている。しかしこれが役にたつかというと、そんなこともない。参加メンバーの都合で、高田馬場でごはんということになる。しかしリストにあるのは銀座だの青山だので、馬場がない。そういうことが多いのだ。

 しかも店選びのポイントは、おいしいとか、接客が悪くない、のほかにも、たくさんある。酒の種類。ワインが飲めない人がいれば、日本酒が苦手な人もいて、でも、なんでもござれみたいな店はちょっと……とか。予算。あの人はあんまり高いといやがりそうだけど、あの人は庶民的な店は嫌いなんだよなあ、とか。雰囲気もある。うるさいと話せないが、静かそうな店を選んでも、隣の客がその日は大盛り上がりなんてこともある。

 あれこれ考えていると、だんだん、暗い気持ちになってくる。

 先だって、女性四人で飲もうということになった。だれかの事情で、場所は新宿がいいという。新宿も私が無知な都心に属する。だれか店を決めてくれるのではないかと思っていたけれど、直前になっても連絡がこない。そしてついに「どこかお店知ってる?」と訊かれた。

 リストを調べ、記憶を掘り起こし、駅からのアクセスや予算や雰囲気やあれやこれや考えに考えて、「ずいぶん前にいったきりだけど、あそこはおいしかった」という中華料理店を思い出し、友人に伝えた。友人はその店を予約してくれた。

 そうしてその日、地図を持って新宿を歩き、「こんな場所だったっけな」と入った店は、私の記憶と異なったのである。つまりはじめての店を紹介してしまったわけである。

 どうしようまずかったら。お店の人こわかったら。どきどきしてみんながくるのを待つ。

 みんな集まり、乾杯し、メニュウを見てあれこれ頼む。友だちのひとりが「ここ、なんだか外国みたいでいいね、旅行しているみたい」と言い、まず一安心。そして次々と運ばれてくる料理にみな「おいしい」を連発してくれて、実際どれも本当においしくて、ようやく私は腰を据えて飲める気分になった。

 あとあと聞いてみると、私が記憶違いで選んだ店は、編集者たちにはおいしいと評判の店だったらしい。すごい偶然だけれど、またまた、ホッ。

008 量の問題

 はじめていく飲食店で注文する際、忘れてしまいがちなことに、量の問題がある。量が多いか多くないかがわからずに、つい目がとらえたものを頼んでしまい、出てきた皿を見てたじたじすることが私には多い。

 私は小食である。とくに飲んでいるときは、あまりたくさん食べられない。数年前、雑誌の企画で、食べる量を減らして胃袋を今よりちいさくする、という仕事を半年やって、実際胃はちいさくなり、前よりさらに小食になった。

 量の食べられない人にとって、その店の料理の量、はたまたコースの品数、というのは、尋常ならざる重要問題なのである。

 大勢いるときは、問題ない。大勢のなかにかならず半端じゃない量をぺろりと平らげる人が混じっている。量のことを考えずにたくさん頼んでしまって、テーブルにびっしりと量が並んでも、ひとりで片付けなければならないわけではない。食べられる人がたくさん食べればいいのである。

 大勢でも、コース料理だと困る。私はいつもあらかじめ、私のぶんは量を少なくしてくださいとお願いしている。そして、コース全容を書いた品書きがない場合、お店の人にコース内容を説明してもらう。量が食べられないので、どこに力を注ぎどこで力を抜くべきか、その内容を見聞きしながら考えるのである。

 コース内容の書かれたお品書きがなく、かつ聞きそびれてコースがはじまってしまい、えんえん、えんえん料理が出てきて気が遠くなることもしばしばある。中華や、和食は要注意なのである。

 ひとりで飲みにいけるようになってから、量、というのはあらためて最重要課題になった。よくいく店ならまだわかる。一皿の分量を少なくしてほしいと頼むこともできる。そうした融通の利く店が、私の住む町には多い。でも私は、自分の住んでいる町にかぎり、新規開拓が好きだ。

 はじめての店に入るときは、慎重に、飲みものと、あとは二品ほどを頼む。その二品で量を判断し、残りに進もう、という算段である。ポテトサラダとか、豆腐料理とか、何かこう、居酒屋前菜的な二品。

 しかしここで「ああ、失敗した」と思うことも、多い。ポテトサラダてんこ盛り、冷や奴一丁ぶん、みたいな量が出てくる店が、ときどきあって、私はその二品を前に絶望的な気持ちになる。この二品をたいらげないことには、次のメニュウなんて頼めない。でも、このてんこ盛りとまるまる一丁、ぜんぶ食べきれるはずがない。と、いうことは、私の今日の夕ごはんは、この冷たい二品で終わり……。

 いつだったか、とある店で、餃子小(三個)、アスパラ、レバカツ、を頼んで、酎ハイを飲んで待っていた。まず出てきた餃子を見て、絶望の淵に落とされた。三個なら食べられると思ったものの、ひとつが、三つぶんくらいの大きさなのである。続いて出てきたアスパラは、ぶっといものが、穂先を数えてみると四本。一本が三つに切ってあって、見た目の量がさらにすごい。一枚で出てくると想像していたレバカツは、細く切った肉片が、小盛りの炒飯くらいの量。餃子は二個でギブアップ、アスパラは半分でギブアップ、しかしレバカツに至っては、食べても食べてもまるで減らない。泣きたくなってきた。残すしかないのだが、でも、まったく食べていないみたいな状態で、店を出たくはないではないか。でも、食べても食べても、まったく食べていないみたい……。

 このときあまりにも絶望的な気分になったので、その後しばらく、あたらしい店では、量はどのくらいかまず訊いていた。

 そしてつい先だって。お蕎麦屋さんで、板わさや味噌豆腐や卵焼きでちょこっと飲み、〆の蕎麦の注文時、「量少なくしてもらえますか」と訊くと、「うちの蕎麦、ものすごく量少ないからだいじようぶよ!」とお店の人はにこやかに言う。それなら……と頼んだせいろが、

 どどーん、

であった。

 多い、少ないの感覚は、人によっても違うのであるなあ。

 一度でいいから、大食い気分を味わってみたい。大食いの人は大食いの人で、出費も多いしたいへんなのだろうけれど。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。