アスペクト

肉記


009 面倒くさがり屋の鍋

 外食に、頓着する人としない人がいる。きっぱりいる。前者はとうぜん、おいしい店、評判の店にくわしい。オールマイティにくわしい人もいれば、イタリア・フランスといった西洋料理方面にくわしい人も、はたまたB級ものにくわしい人もいる。

 頓着しない人は、もちろん店など知らないし、連れていかれて「おいしい」と感激しても、店の名も場所も覚えない。「飲食店にくわしくなる」というオプションが、そもそも人生にないのである。女性よりも男性のほうが、この差がはっきりしていると思う。

 そして、この頓着しない人たちのなかには、かなりの面倒くさがり屋がいたりする。

 焼き肉や、鍋といった、みんなでつつく料理のとき、面倒くさがり屋はすぐにわかる。大勢でひとつのロースターや七輪や鍋に箸を突っ込むことが、もう面倒なのである。ふつうは、そのようにして自分のほしいもの(焼け具合のいいハラミとか、鍋のなかの豆腐とか)を箸ですくってわいわいと食べるわけだが、この種の人たちは、とくにほしいものもなく、箸をのばすタイミングもよくわからず、なんかもーいーや、みたいな状態になる。

 こういう人には、かならずだれか世話好きの人がひとりぶんの皿に取り分けてあげる。好みなど聞かず、勝手に取り皿に肉やら鍋の中身やらをよそって前に置いておくのである。そうすると、その人はちゃんと食べる。そうしないと、食べない。

 八人でテーブルを囲んだとする。鍋は二つ。四人ずつに分かれることになる。八人もいると、決まって面倒くさがり屋と世話好きとが混在しているが、運悪く、ひとつの鍋まわりに世話好きの四人が、ひとつの鍋には面倒くさがり屋四人が座る、という事態に陥ることもある。これはちょっとした悲劇である。

 世話好きたちの鍋は、椎茸など煮えにくいものから投入され、肉や魚介が投入され、あくがすくい取られ、ちょうどいい分量の野菜が投入される。汁はうつくしく澄んでいて、具材であふれることもない。一方、面倒くさがり屋たちの鍋。だれもなんともしてくれないので、だれかがしかたなく作り出す。隣のテーブルを参考にしようとするが、うまくいかず、途中で面倒になって、出ている具材をぜんぶいっぺんに投入する。あくもとらない。濁ったスープ、からまり、あふれる具。それでもまあ、できあがるわけだから、鍋というのはすばらしい。

 私自身は、自覚を持った面倒くさがり屋である。外食にまったく頓着しないということもないが、する人に比べればそんなにはしていない。そもそも店を知らず、連れていってもらうことが圧倒的に多い。そして面倒くさがり屋である。

 自覚があるから、焼き肉や鍋料理の店に大勢でいったとき、私はさっと顔ぶれを見まわし、席を選んで座る。世話好きの人の近くに座るのである。そこならば、肉は焼いてもらえ、ばっちり焼けごろのものを取り分けてもらえる。鍋のスープは澄んだままで、魚や鶏団子や白菜やマロニーちゃんが絡まっていない状態でとりわけてもらえる。

 が、ごくまれに、面倒くさがり屋だけの席になってしまう場合もある。私は自覚があるので、こういうときはがんばって世話役になろうとする。隣のテーブルをちらちら見ながら、同じように椎茸を入れ、魚介を入れ、とやってみる。が、やっぱり途中でどうでもよくなる。本当にどうでもよくなる。そして皿を持ち上げて傾け、そこに盛られたすべてのものを、ざーっと入れてしまう。結局、こうなる。でも、面倒テーブルではだれも気にしていないし、そもそも見ていない。だからだいじょうぶ。そうして私たちは、その鍋におたまをつっこみ、鶏団子もマロニーちゃんもネギも絡まり合って何がなんだかわからない状態のものをすくい出し、機嫌よく食べるのである。

 ささやかな名誉のために書き加えると、自炊の場合は、ちゃんと手順を踏んで肉も焼くし、鍋も作るのである。店で、テーブルで、大勢で、それを囲んだ状態で、何か焼いたり煮たりする、というのが、面倒なのだ。

 そろそろ鍋の季節。私は今年も、鍋の席では世話好きの隣に座ることに心を砕くのであろう。

010 予約というジレンマ

 我が町で、おいしくて感じがよくて値段のまっとうな飲食店は、すぐ予約必至の人気店になってしまう、と以前書いた。

 できたばかりのころ、友人に連れていってもらって、大好きになった店がある。魚料理がおもな居酒屋で、旬の魚を、刺身、煮魚、焼き魚で出している。刺身も煮付けもおいしいのだが、焼き魚に私は衝撃を覚えた。そのくらいおいしかった。魚のおいしさはもちろんのこと、塩加減や焼き加減がすんばらしい。

 〆のごはんものも、押し寿司風のものや炒飯があり、何を食べても感動するほどおいしい。

 店のたたずまいも居酒屋らしくてとてもよく、お店のおにいさんたちも活気があって、値段もちゃんと居酒屋値段。

 ああ、ここはいいお店だなあ、と思ったその数か月後には、たいへんな賑わいようになっていた。飲むこと、食べることが好きな人はみんな、やっぱりいいお店だなあと思うのだ。

 それでも、予約が必要なほどではなくて、早い時間にいけば席はあった。今日はあそこで魚食べよう、というときは、夕方六時くらいにそそくさと店に向かった。

 そうして二年ほどたつと、予約なしでは入店するのがむずかしくなった。六時にいってもだめ、開店と同時にいっても予約で席が埋まっている。

 ほかにも飲食店はたくさんある。でも、この店の魚が食べたい!だけど、ひとり、二人で予約するほどのこともない。

 だから、私の住むこの町で飲み会があるというとき、私はこの店を提案するようになった。大人数なら確実に前もって予約をしなければならない。そんなふうな利用の仕方になった。カウンターにテーブル席が二つあるきりのちいさな店だが、二階に屋根裏のようなロフト部分があり、こっちはけっこう大勢が入れる。大勢だと、いろんな種類が食べられてまことにありがたい。

 ひとり、二人ではたどり着けない、あるいはたどり着いても一種類しか食べられない〆ごはんを、大勢ならあれこれ食べられる。鯖寿司、鰺寿司、蟹炒飯にたこのガーリック炒飯。冬に、白子雑炊を頼んだら、これがクリーミーで濃厚、出汁もきいていて、床に突っ伏したいほどのおいしさだった。私たちは同じものをおかわりしたほどだ。今思い出しても、夢のようなおいしさだったなあ。

 四人以上なら予約するが、二人だと、まず予約しない。そもそも、親しい人と二人で飲もうというのを、何週間も前から決めたりすることはめったにない。いつごろひま? あ、明日? といったように、突然決まる。そしてこの店、今日電話して明日の予約も、とるのがむずかしくなってしまったのである。

 私と同様、家の人もこの店の大ファンである。なんとなく、今日飲みにいこう、というとき、まず私たちは「ダメ元で」と言い合って、この居酒屋に向かう。「まだ六時だから空いていたりするかも」「雨だから今日は空いているかも」「火曜日だからお客さん、あんまりいないかも」、もう、多方面から希望的観測を言い合う。同時に、入れなかった場合にいく店の候補も考える。満席が多いことはわかっていても、やっぱり満席だとショックを受ける。そのショックの緩衝材として、次の候補を決めるのである。

 こうして何度も何度もチャレンジし続けて、毎回、だめである。すごいなあ、と単純に感心する。六時にいっても、八時にいっても、九時過ぎにいっても、こんなにちゃんと混んでいる店は、そうそうあるものではない。でもやっぱり、予約はできない。居酒屋さんに飲みにいく、って私のなかでの感覚はやはり、「ふらり」なのだ。その日の気分で、ふらりといってみる。前もって決めるようなおおごとじゃない。でも、おおごとにしないと入れない……。

 先だって、家の人にちいさな祝いごとがあり、よっしゃ何かおいしいもの食べにいこう、という話になった。鮨かな、すき焼きとか、などと豪華なものを挙げつつ、「こんなときこそあの店だ!」とひらめいた。祝いごとがあれば予約するのである。

 かくして二週間後の予約をとって、ようやく、ようやくその店にいけたのである。二年ぶりか、いや、もっとか……。店は六時半の時点でもう満員。一組お客さんが帰れば、すぐまた一組やってくる。みごと。

 そして、はじめてきたときとなんにも変わらず、魚はおいしくて、店のたたずまいもよく、おにいさんたちは活気があり、いい店だなあとあらためて思ったのである。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。