そのようにリクエストしなくとも、肉の店に連れていってもらうことが多いと、前に書いた。
肉の店、といっても、さまざまだ。焼き肉屋、フランス料理屋、イタリア料理屋、韓国料理屋、無国籍等々。メニュウに肉が多く、おいしい店。
自分の町以外の外食は、私はほとんど人まかせで、なおかつ、下調べもしない。「今度の約束は、この店を何時から予約したよ」とメールをもらい、メールにはその店のホームページのURLが添付されているが、開いて見たりしない。その日、出かける前に地図を印刷して出かける。メニュウも見ないし、何がおすすめなのかも知らないで、出向く。どうでもいいのではなくて、もう、ゆだねきっているのだ。その人が「おいしい店」と言うのならばおいしいに違いないと、信じ切っているのである。
そして、おいしい、おいしいねえ、と食べて、その店を出るころには酔っぱらっていて、なおかつ、そのままどこかべつのところに飲みなおしにいったりするから、ハテそのおいしい店がどこだったのか、わからない。印刷した地図も保管しないし、案内メールはものすごい量のメールに埋もれている。
そうすると、デジャヴが起きることに気づいた。
地図を頼りに歩いていくと、なんだか見覚えのある店がある。ん? ここは……と思いつつ、店内に入って、「あっ、やっぱり知ってる!」と確信する。今日この店を予約してくれたのは、Aさんだけれども、AさんとはまったくつながりのないBさんが、以前、おいしい肉の店があると連れてきてくれたところだ、と気づく。一カ月前のこともあり、二年前のこともあり、二週間前のこともある。もちろん正確には、これはデジャヴではない。ただ、「一度きて、忘れて、再訪した」だけのことである。
でも、店の名前も場所も完璧に忘れていると、「あっ」というその気分は、本当にデジャヴそのもの。まったく不思議な心持ちだ。
よく考えれば、肉料理のおいしい評判の店というのは、そうそう多くはないのかもしれない。イタリア料理ではここ、韓国料理ではここ、といった具合に、代表選手ならぬ代表店がぽつりぽつりとあり、食にくわしい人たちは、みんな知っているのかもしれない。
そうして、すっかり忘れているその店で食事をしていると、おもしろいようにいろんなことが思い浮かぶ。前Aさんときたときは、これを食べた、そしてこんな話で盛り上がった。どんどん出てくる。食と記憶というのは、じつに密接に絡まり合っているらしい。
じつは昨日も、連れていったもらった焼き肉屋さんが、七年くらい前に単行本の打ち上げで、連れてきてもらったところだった。席について思い出した。そのときの顔ぶれも、打ち上げの感じも。七年前のそのとき、打ち上げメンバーのなかにひとり美人がいて、彼女がトイレにいくと近くのテーブルのサラリーマンたちがさっと顔を上げて彼女を見ていた、そんなことまで、あぶり絵のようによみがえる。「○○さんは美人だから、サラリーマンたちがみんな見てるよ」と教えてあげると、彼女は「ほんっとうにこの店、サラリーマン、多いっスよね」と、頓珍漢な答えをしていたことも。
飲んだり、食べたり、と無関係なら、こんなにもあざやかに思い出さないものなんだろうか?不思議である。
じつは一週間前に、連れていってもらった恵比寿の店も、二年前、べつの人に連れてきてもらったところだった。
私は出てきた料理に余りにも感動すると、写真で残そうと携帯カメラにおさめるのだが、このときも、前菜に出てきた馬肉のカルパッチョがうまりにもうつくしくて、写真を撮った。翌日、携帯電話の中身を整理していたら、なんと! まったく同じ写真が、二年前の日付で出てきたのである。ああそういえば、あのときも、なんとうつくしいのかと写真を撮ったなあ……。まったく同じアングル、まったく同じサイズにおさめた馬肉写真を、私はしみじみ見比べたのである。 |