アスペクト

肉記


013 深夜の幸福

 多くの人がそうだと思うけれど、旅に出ると私の胃袋は貧乏性になる。「とりあえず、食べとけ」と思うのである。ふだん朝ごはんは食べないのに、ホテルの朝食も、朝を食べ過ぎておなかが空いていないのに昼ごはんも、三時のおやつも、食べないと気がすまない。そればかりか、通りかかった店の何々が有名らしいと耳にすれば、食べる。その店に食べる場所がなければ買い食い。

 そこまでは、まあ、いい。私がもっとも愛し、その愛ゆえにやっかいで困っているのは、夜食である。

 ふだんでも、私はたくさん飲んだあとラーメンが食べたくなる。なぜかわからない。なんだか私の場合、本能とかコアにかかわった欲求、という気すらする。理性があるときは「やめとけやめとけ、そんなにおなか空いてないし」と抑止することができる。でも理性のたがが外れていると、さほどおなかが空いていなくても、いく。記憶がないのに食べていたりする。もちろんひとりでも食べる。二時でも三時でも食べる。

 旅先なら、なおのこと、である。先だって、旅先で「食べとけ」となって焼きそばを食べた話を書いた。あれは、近くにラーメン屋がなかったから。開いているラーメン屋があれば確実に私はいっていただろう。

 大きな町ならたいてい深夜営業のラーメン屋がある。しかも、そういう店はちゃんとおいしくて、深夜でも賑わっている。ひとりで入ってもちっともさみしくない。

 今年、仕事で京都に一泊した。遅くまで飲んだあと、ひとりタクシーに乗った。そういえば、二、三年前、こんな時間にラーメンが食べたくなって、ホテルの近くに食べにいったなあと思い出すも、場所がまったく思い出せない。と、そんな話をタクシーの運転手さんにしたところ、「ああ、それはきっと」と、なんとその店の前まで連れていってくれた。記憶はおぼろげながら、たしかに、その店である。運転手さんはごていねいに、「ホテルはあの角を曲がればすぐだから」と言って、ラーメン屋の前に私を下ろし、去っていった。

 そんなの、もう、食べるよりほかにないではないか。私はこのときは理解が吹っ飛ぶほど酔ってはおらず、「今食べたら、太るんだよなあ」という認識はあった。でも、わざわざ連れてきてもらったのだ。そしてここのラーメンがおいしいことを、私は知っているのだ。しかたない……。店に入ると、午前二時近いのにやっぱり混んでいる。お店の人も元気で、厨房の大鍋から煙がもうもうと出て、一瞬にしてしあわせな気持ちになる。

 数日前、福岡に出張があった。仕事を終えて大勢で飲み、気がつけば三時過ぎ。福岡の人は本当によく飲む。解散し、ホテルに戻り、はたと、「ラーメンを食べていない」と気づいた。一泊二泊の出張では、食べたいものと、食事回数がうまくかみ合わないのである。豚骨ラーメンも胡麻鯖も餃子ももつ鍋も鮨も食べたいが、予定されている会食やホテルの朝食をのぞくと、自由になる食事なんて一、二度である。「一回ホテルに戻ってきた、そして今は三時過ぎである、でも、ここはめったにこない福岡で、私は豚骨ラーメンを心から愛している」ホテルの部屋で、私はひとりつぶやき、意を決してまた外に出た。

 ちなみに、そのせりふは、毎回私が夜食を食べにいくときに念じる言い訳である。「福岡」が京都になったり山形になったり旭川になったりし、「豚骨ラーメン」が醤油や味噌や、何味かわからないがきっとおいしいだろうラーメンに変わるだけである。

 福岡で、午前三時過ぎの町を徘徊した。私のホテルは繁華街にあったので、町はこうこうと明るく、飲み屋さんの呼び込みは盛んで、さすが福岡、歩く人も多い。けれどその時間は多くのラーメン店が閉まっていて、開いているのは東京にもあるチェーン店のみ。あんまり遠くにいけば、方向音痴の上、酔っている私が迷わないはずがない。繁華街の路地をぐるぐる歩きまわり、結局、チェーン店に入った。ここもまた、人で賑わっている。ああ、しあわせだなあと厨房の湯気を見て思い、ラーメンをすするしあわせそうな人たちを見て思い、汁を飲み麺をすする。

 この深夜の幸福感は、量、純度ともにそのまま、翌日の自己嫌悪に成り代わる。それでも旅先でラーメンを求めてしまうのだから、もしかしたら幸福感のほうがほんの少し、勝っているのか。あるいは私の貧乏根性が、幸福感も罪悪感もはるかに凌駕しているのか。

014 店のランクと辛さについて

 私はタイ料理を愛しているが、めったに食べる機会がない。タイをはじめとするエスニック料理を、苦手とまでは言わないが、そうそう得意でもない男性が多いせいである。男性の多くは、エスニック料理が苦手である。食べられることは食べられても、エスニックより、和食や中華を選びがちである。

 仕事もプライベートでも、飲もうというときたいてい男女混合で、みんなが好きなものを選ぶというよりも、だれかが苦手なものを避けて店をさがすから、タイ料理をはじめてモロッコ料理もインド料理も候補に挙がらず、無難な、和食、イタリアフランススペイン料理、中華、などになる。

 タイ料理は、タイ料理を食べるのだ、という強い意思と明確な目的がないと、なかなか、食べにいかれない。

 タイ料理と一言でいっても、タイ本国にもランクがある。屋台、フードコート、冷房なしレストラン、冷房ありレストラン、超高級店、等々。

 それとおんなじに、東京のタイ料理店にも似たようなランクがある。

 屋台ランクの店は、雰囲気も味も流れる時間も店のありようも、タイの屋台街にかぎりなく似ている。もう二十年近く前、大久保に屋台村があると聞いて早速出かけ、うれしくなったのを覚えている。屋内だが、フードコートのように幾店も飲食店があり、テーブルに着くやいなや、各店の店員がばっと取り囲んでいっせいに自分の店の料理を勧め出す。おお、アジア! とまずそこから感動した。辛さもきちんと辛い。

 もう少しランクを上げると、屋台ではないが、庶民的な店になる。内装やインテリアは凝っているというよりも、必然的にタイっぽくなり、国王の写真もちゃんと飾ってある。お店の人たちはタイ語で話をし、愛想がいい。料理もしっかり辛い。

 ここからが分かれ目、と私は踏んでいる。なんの分かれ目かというと、味の、である。

 デパートや駅ビルに入っているような、チェーン店的なタイ料理屋もある。店内はおしゃれにしてあるけれど、味はそこそこ。日本人向けにあんまり辛くしていないのだと思う。まずいことはないけれど、すっごくおいしい、ということもない。そうしてこういうお店で働いているタイの人の、半分くらいは機嫌が悪い。日本の人あんまり好きじゃない、となんとなく顔に書いてあったりする。そういう人に冷たい態度をとられると、私はいつもかなしくなる。この国にきていったいどんないやな思いを、どんなにたくさんしたのだろうと想像してしまうのだ。

 それより上になると、高級店といったおもむきになる。インテリアはしっかりと計算されてタイっぽくなっていて、店内はシック、お店の人もタイの民族衣装を着ていたりする。テーブルには真っ白のテーブルクロス、複雑に折りたたまれたナプキン。ドリンクのメニュウにはタイビールとメコン以外にも、各国ワインやカクテルものっている。そうしてその上品さに比例して、辛さも上品なことが多い。

 もちろんタイ料理の醍醐味は辛さだけではない。甘みも酸っぱさもだいじ。でも辛いもの好きの私は、辛いはずの料理が辛くなく、甘かったりただしょっぱかったりすると、がっかりしてしまうのだ。

 先だって、そのようなおしゃれなタイ料理屋に連れていってもらった。オープンキッチンだし、お店の人はぴしりと正装しているし、ナプキンは複雑に折りたたまれていて、店内はシック、「ああ、ここは辛くない」と私はこっそり結論を出した。辛くないお店だったら、辛くないタイ料理をおいしく食べよう、と決めこんだ。

 ところが! いっしょにいた人が頼んだヤムウンセンが、しっかりと辛かったのである。よっしゃ、と気分は一気に高揚し、唐辛子の辛いマークがついているものをたくさん頼んだ。ちゃんと辛くて、味が深くて、本当においしかった。偏見を持っていて申し訳なかったと、詫びたい気持ちであれやこれやを食べまくった。

 このお店は、タイの人たちがとてもにこやかでていねいで、案内係の日本の人だけがものすごく不機嫌であった。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。