アスペクト

肉記


015 ひとりの苦と楽

 数年前までは到底考えられなかったが、しょっちゅうひとりで飲みにいくようになった。一度いってしまえば、そのほうが楽なときもある、と気づく。もちろん、友だちと飲むのは大好きだ。けれど年齢を重ねるにつれて、「今日飲まない?」と誘って、出てきてくれる人は少なくなる。みんな、ずーっと先まで予定が入っているのだ。四、五人で飲む日を合わせようとして、一カ月先になる、なんてざらにある。

 今日思いついて今日飲みにいくのに、ひとりは楽ちんだ。しかも、失敗をおそれずして、飲食店の新規開拓ができる。はじめて入った店で、おいしくないとがっかりするが、連れていっただれかをがっかりさせるよりは、ひとりでがっかりしたほうがいい。

 私の住む町には飲に重きを置いた飲食店がたいへんに多い。ひとりで入りやすい店が多いのも、ありがたい。

 私にとってひとりでも入りやすい店というのは、まず、一皿の量が少ないこと。それからお店がそんなに広くないこと。狭すぎもしないこと。常連客ばかりではないこと。

 そういう店にひとりで入って、カウンターに案内され、飲み、食べていると、ほかにもひとりでくるお客さんが多いことに気づく。どこの町でもそうなのか、それとも、この町の特色か、あるいは店の特色か、わりあいとして女性客のほうが若干多い。

 男性のひとり客は、たいがい、カウンターの内側にいるお店の人と会話する。これはなかなかに興味深いことだと思う。つまりひとりで飲みにくる男性は、みな、はじめての客ではないのである。つまり常連客。彼らは、そこで出される飲食の好き嫌いより、店主やスタッフの好き嫌いを優先しているようにすら見える。飲みながら食べにきている、というよりは、飲みながら話しにきている、といったほうが近い。男性の多くは、常連客として扱われるのがいやではない、というよりむしろ、扱われたい、のではないか。はじめていく店、新規オープンした店、突拍子ない感じの店を好む男性は、わりあい少ない。「はじめて」って、男性には面倒なんじゃないかと想像する。

 女性でも、お店の人と仲のよい常連客はいる。でも、そうではないひとり客は、男性に比べて多いと思う。お店の人とコミュニケーションをとることを避けるかのように、本やiPadや携帯電話と向き合い、彼女たちはひとりたんたんと食べて飲んでいる。私がたまにいく近所の(料理も出す)バーでは、十時過ぎになると、仕事帰りらしき女性がふらりとやってくることが多い。カウンターに案内されて、前菜とメインとなる料理、ビールを頼み、メイン料理が運ばれてくるころワインに切り替えて、さくさくさくっと食べて飲んで、す、と帰っていく。はじめての店も躊躇しないばかりか、どちらかといえば、積極的にいきたがるのも、女性だろう。

 私もどちらかというと常連客と見なされるのが苦手である。極度の人見知りな上、気さくな会話というものができない。あるとき知らない町で、待ち合わせまで三十分ほど余裕があったので、時間をつぶすために洒落た立ち飲み屋に入った。まだ早い時間だったので客は私ひとり。ひとり飲みのつねとして、本を出して読みはじめたのだが、カウンターの内側にいた若いおにいさんが、気を遣ってくれているのか、「お仕事帰りですか」からはじまって、ずっと話しかけてくる。急に寒くなったこと、(この日衆院解散のニュースがあったので)選挙の話、(表面的な)政治の話、などをにこやかに話してくれるのだが、ああ、それが私のいちばん苦手なジャンル。天気のこと、冗談でかわす政治関係の話。私は必死に相づちを打っていたけれど、だんだん申し訳なくなってきて、急いで一杯飲んで店を出た。

 ついこのあいだも、あたらしくできたバー系飲み屋に、ひとりで出かけてみた。飲みものは日本酒と、国産ワインを扱う店で、料理も和と洋がある。すばらしくおいしいわけでもないが、まずくもない、かといって「そこそこ」ではない、ちょうどいい料理で、ワインはとても豊富でおいしい。お店の人はちょうどいい距離感で接してくれて、ああ、楽ちんだなあ、と思いつつ本を読み読み、飲んだ。

 一時間ほどしたあと、どこかで食事をしてきた男女五人組がやってきて、私のすぐうしろに座り、ワインを飲みつつ、どこそこの店がおいしいといった話をしていたが、すでに下地ができあがっているからか、すぐに男女間の話になった。聞くまいとしても、大声なので聞こえてしまう。三十代とおぼしき彼らは既婚未婚者双方がいるらしく、夫婦ものはどんなことで喧嘩をするかとか、相手のどんなところがかんに障るのかとか、じつに興味深い話を展開している。なるほど、と思わず膝を打つような発言が、男の人から飛び出したりもして、振り向いて「なるほど!」と、言ってしまいそうであった。

 そんなことも、ひとり飲みのたのしいところかもしれない。

016 ずーっと大人のメニュウ選び

 最近、気づいたことがある。ずーっと大人になると、メニュウを選ぶのがとことん面倒になるようだ。

 「ずーっと大人」というのは、年齢的には五十代六十代、会社にいっていれば「長」とか「役」とかのつく役職で、フリーランスならば名が通った人。

 若いころ、私はその年代の人が苦手だった。みんな大人すぎて、何を話していいかわからなかったのだ。けれど自分が四十代になってみると、彼らとそう年が離れているわけでもない。そうして、年齢とその人の精神――とくに酒の席での精神――は、さほど関係がないとわかってきた。何歳だろうが小学生みたいな冗談ばかり言っている人もいれば、どんな立派な役職だろうが高校生みたいにロックの話ばかりしている人もいる。

 そういう方々との飲食が苦手でなくなり、むしろ増え、そして気づいたこと。みんな、メニュウ決めを避ける。メニュウを開いて「これとこれと……」などとやらず、だれかに「適当に頼んで」と言う。あるいは、最初からコース料理を頼んでおく。コースのない店では、お店の人に「おすすめを何品か適当に出して」などと言う。これはちょっとおもしろい現象だと思う。

 私はメニュウを眺めるのが好きだ。大勢の飲み会のとき、まず最初に店に着いてしまい、ひまなときはメニュウを熟読する。今日はコース料理とわかっていても、隅々まで読んで、へえー、これおいしそう、とか、意外な組み合わせだな、とか、見ているだけでわくわくするのである。コース料理ではないときは、テーブルにメニュウを広げて何人かでのぞきこむことになるが、このとき文字が見えないと焦る。見せて見せて私にもちゃんと見せて! と、大人げなく叫びたくなる。

 メニュウを選ぶのもたのしい。コースが決まっていると、ちょっとがっかりすることもある。(もしアラカルトだったらメインの魚はナシでスープを入れたのにな……)などと思うこともたまにある。

 先だって、ある忘年会に参加したときのこと。メンバーは、「ずーっと大人」の人たちと、私と同世代が数人、私より若い人数人、計十数名。最初の乾杯用の酒を注文し、そのあとみんな、おしゃべりに興じている。だれもいっこうに注文をしようとしない。「ずーっと大人」たちはもちろん、みなさん面倒でメニュウなど見たくないのである。私と同世代の人たちは、そのことに気づかず、大先輩を差し置いて勝手に頼めないと思っているようである。年下の人たちは、話に夢中になって注文していないことにも気づいていない様子。

 ああ、ここは私ががんばらんといかん、とメニュウを手に、ページをめくるのだが、こういう場面では気が重い。一皿がどのくらいで、この人数なら何皿頼めばいいのか、この、名の知らないものはどんな料理なのか、好き嫌いがある人がいるのかいないのか、そんなことを考えるのがもう面倒。けれど、放置していれば何も出てこない。とりあえず勝手に注文してしまい、「足りなければそれぞれ追加してください」と声をかける。料理がどんどん運ばれてくる。「ずーっと大人」の人たちは、運ばれてきたものはきちんと食べている。これ、おいしいと感想もちゃんと言っている。食べることに興味がないのではなくて、本当に何かを選ぶことが、ただ面倒なんだろうなあと思う。

 べつの忘年会でお鮨屋さんに招かれて、はたと気づいた。あの「ずーっと大人」たちのおまかせ感は、お鮨屋さんに似ているのである。好みを言って握ってもらうのではなく、お店の人におまかせして食べる鮨。旬のもの、おすすめのものが出てくるに決まっている。こちらは次に何にするかなど気にすることなく、純粋に、味わうことと会話に専念することができる。

 なるほど、居酒屋でもイタリア料理店でも、それが「ずーっと大人」の酒コミュニケーションのたのしみなのであるな。妙に納得したのである。

前の記事 次の記事

著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。