アスペクト

肉記


017 お正月に飲みにいく

 昔むかし、お正月三が日のあいだは、個人商店はもちろん、スーパーマーケットも閉まっていた記憶がある。でも今は、元旦から開いている店もあるし、二日、三日から営業する店も多い。

 お正月の三日、飲みにいこうということになった。私の住む町は個人経営の飲食店が多く、そういう店は六日、七日あたりまで休むだろうと思われる。でも、チェーン店の居酒屋なら開いているだろうと、外に出た。

 たまにいく焼鳥屋さんに向かうと、開いてはいるが、満席。じゃあ、べつの店、と歩き出す。通りすがりに、いつも空いているお好み焼き屋さんが開いていたので眺めると、ここも満席。なんということ。お正月も休まない、いきつけの飲み屋さんにいくも、また満席。

 ふつうの日でこういうことは、まず、ない。開いている店が限られているから、お客さんが集中するのか? それとも、帰省せず旅行にいかなかったこの町の人のほとんどが、今日は外で飲みたい気分なのであるか?

 開いていて、空いている飲み屋をさがし、お正月の町をうろつく。ほかに思い当たるチェーンの居酒屋は、予想外にもことごとく閉まっている。

 うーむ、困ったなと角を曲がると、開いていることをまったく期待していなかった個人経営の居酒屋が、看板に明かりをともしているではないか。私たちは山中で民家の明かりを見つけたような心持ちで、店に入った。店に、先客はひとりもいない。たぶん、この店が開いているとだれも思わないのだろうな。

 飲みはじめると、男性客がひとりやってきて、カウンターに座る。お店の人と知り合いのようで、あれこれと話しながら飲みはじめている。次に、女性客がひとり入ってきて、カウンター席に座り、飲みはじめる。

 一時間ほどたって、この女性客の声がさっきより大きいことに気づいた。隣り合った見ず知らずの男性客に、あれこれと、星座や血液型の話をふっているのだが、その内容が、どんどんまずい方向に向かっていく。あなたは何座? えっ、私○○座の人に弱いの。惚れちゃうの。惚れて、すぐ捨てられるの。ああ、なんかまた惚れちゃうかも。惚れたらどうしてくれんのよ。――ほとんど絡み酒のように思えるのだが、男性客はスマートに交わし、なんとか話しかけられまいと、女性客が黙るたびにお店の人に話しかけている。お店の人も、彼の心情がわかるらしく、熱心に二人で話しはじめる。すると女性客が二人の話に割って入って、また、惚れるだの、捨てるだの、そんなことを言いはじめる。聞いていてたのしいわけではないのだが、声が大きいので聞こえてしまう。

 ついに男性客は、今日はこのへんで、と帰ってしまった。残った女性客は、今度はお店の人に絡みはじめる。が、お店の人は慣れているのだろう、さっきの男性よりさらに冷たくかわし続け、面倒になると厨房に引っこんでしまう。女性客もさすがにつまらなくなったのか、ふいに立ち上がり、もう帰る、ええ、ええ、帰りますよ、と怒鳴りつつ、おぼつかない足取りでトイレに向かった。トイレに入って、そして、なかなか出てこない。これはさらにやばい展開かもしれない……と不安になる。

 いちばんやばい展開は、もちろんトイレから出てこない、というものである。なかで寝ていて、出てこない。お店の人も困るが、ほかの客もトイレが使えなくなるから、困る。

 しかしながら、ずいぶんたったあとで、トイレから「紙がないっ!」というろれつのまわらない叫び声。「紙がないよーっ」叫び続けている。

 お店の人が厨房から出てきて、ドア越しに、流しの上に棚があるから、そこを開けて、と説明しているが、返ってくるのは「棚あ〜? どこよう〜、ないよそんなの〜〜」という声。何度も何度も言葉を換えてお店の人が説明し、しかしそのたび「なあにい〜、わかんなあい〜〜〜」という声が聞こえてくる。お店の人はもうブチ切れ寸前だろう、「本当はわかってるんでしょう、わかんないふりしないでくださいよ、本当にわかんないならドア開けますよ、いいですか」と不機嫌な声で言っている。しかし酔っ払いは強い。少しもひるまず「何その言いかた! 紙がないのはお店の不手際でしょうよう〜〜」とドア越しに絡んでいる。

 あちゃあ。これ、どうなるんだろうなあ。決着つきそうもないなあ。トイレいきたくなる前に帰ったほうがいいかなあ……。だんだん気持ちが暗くなってくる。

 永久に終わりそうもなかった攻防戦はしかし終わりを告げた。ドア越しのやりとりが急に小声になったので、どのような決着になったのかわからないが、女性客はトイレから出てきて勘定を払い、小声で悪態をつきながらふらつく足取りで出ていった。彼女が去って、お店の人がアルバイトらしき若者に「ちっ、正月そうそう、なんだよ……」とささやき、苦笑するのが聞こえた。

 たしかに、まだ三が日に、がんばってお店を開けてそうそう、こんな面倒が舞いこんできたらいやだわなあ、と私も心底同情した。お店は客を選べないという、店側の苦労を思う。

 店のドアが開き、カップルが入ってくる。ごくふつうに案内された席に着き、寒い寒いと言いながらメニュウを眺め、飲みものと食べものを注文している。ああ、ふつうのお客さんでよかった、と安堵した私たちは、お会計お願いしますとようやく言えたのであった。

 いろんな意味合いでもって、ふだんとはまったく異なる、お正月の居酒屋風景であった。

018 隠れないで

 隠れ家ふうレストラン、とよく言うけれど、だいたいポジティブな意味で使われていることが多い。「えっ、こんなところにお店が」というような意外な場所にあり、それでもなかは賑わっていて、おいしくて、コストパフォーマンスもよろしい。「隠れ家ふう」には、そんなような意味が含まれているように思う。

 が、私は苦手だ。「こんなところに」という場所は、つまり「不便」と同義。そして隠れ家、というのは「見つけづらい」ということ。それは方向音痴族には、かなりのハンデとなる。

 飲食店にくわしかったり、非方向音痴の人は、そういったことがまるで理解できないので、隠れ家ふうレストランをかなり好んでいる。だれか人を招いて食事をする際に、はりきってそういった店を予約してくれたりする。

 その人が教えてくれた店のホームページを開き、地図をプリントアウトする。その地図を片手に、歩いても、歩いても、歩いても、見つけられず、駅から七分と書いてあるのに三十分近く歩きまわり、結局店に電話をし、目印のあるところまで迎えにきてもらうことになったりする。

 このような経験が、私には十回くらいある。今では、招かれた店のホームページに「隠れ家ふう」という文字を見つけると落胆するようになった。

 いちばんいいのは、どこかからタクシーに乗って、ナビゲーションシステムに住所を入力してもらうことだ。最近では私はこの方法で隠れ家ふうにたどり着くようにしている。けれど、あまりに隠れ家ふうすぎて、その番地でタクシーをおりても見つけられない、ということもある。その通りからのびるほそーい路地を曲がってその先、とかね。タクシーを降りてから、十分ほど歩きまわった経験もある。

 先だって、知人が予約してくれた店も隠れ家ふうだった。JRの駅からすぐで、どこかからタクシーに乗るのも中途半端なので、迷う時間も計算に入れて、早めに家を出た。駅から五分くらいなのに、歩けども歩けどもその店はない。

 毎度のように歩きながら、「隠れ家ふうレストラン」の意義について考えた。これほどまでに堂々と「隠れ家ふう」を名乗るということは、それはセールスポイントなのだろう。でも、いったい何がいいのだろう? ふらりと入れるような店ではないから、客層がかぎられて、客が安心できるのだろうか。「こんなところに店があることを、私だけが知っている」というような特権意識を客が持てるのだろうか。「隠れ家」という響きそのものにときめく、子ども心の持ち主が多いのだろうか。

 わからない。私にはまったくわからない。ものすごくおいしい料理と酒を出す隠れ家ふうレストランを、迷って迷って見つけることは私には苦痛でしかない。隠れ家ふうレストランでおいしいものを食べるよりは、わかりやすい店でさしておいしくないものを食べたほうが、まだいい。

 私は短気なので、店が見つからないというだけで腹がたってくる。もう、一生隠れていろ、と思ったりもする。

 このような、向ける対象のない理不尽な怒りは、おなかがいっぱいになればきれいさっぱり消えることが多いが、隠れ家ふうにはいつまでも消えない。

 ところで、隠れているわけではないが、わかりづらい場所にある店、というのもある。こういう店はそのわかりづらさをマイナスとしてとらえている。ホームページなどにはたいてい「入り口がわかりづらいのでご注意ください」だとか、「迷いましたらすぐご連絡をください」だとか、書いてある。三つの駅すべてから徒歩二十分かかる店があるのだが、その店のホームページの地図および道説明は恐れ入るほど細かく書かれている。「どこそこからタクシーならワンメーターで着きます」とまである。店に着くと「迷いませんでしたか」と声がかかったりする。

 こういう店ならば私はまったく嫌いではない。地図がくわしいからまず迷うこともない。このような店は「隠れ家ふうレストラン」ではなく、ただ「不便な場所にある店」なのである。

 この両者は、店の感じも、店の人の対応も、お客さんの雰囲気も異なる。何がいちばん違うって、隠れ家ふうは「どうだ」と胸をはっているのである。やっぱり私には理解できない「どうだ」である。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。