蟹を、蟹だけを、思う存分食べよう、と思うと、まず思い浮かぶのはフランチャイズの某蟹専門店である。看板が蟹。
蟹の名店はほかにもあれど、でも、気軽に、ふらりと、ヨッシャ蟹、という具合にいくのなら、その店はとてもいい。蟹好きの友人と、新宿で所用を終えたあと、「ヨッシャ蟹」気分になり、その蟹専門店にいった。
六、七年ぶりくらいだ。そう考えると、私は「ヨッシャ蟹」度が低い。「ヨッシャ」のあとには鉄板焼き、天麩羅、ふぐ、などが続き、なかなか「蟹」と出てこない。
蟹は嫌いではない、むしろ好き。でも、ちょっと面倒、という思いがある。身をほじるのがまず面倒。ほじりが甘いのではないか、と不安になるのもまた面倒。「蟹を食べると沈黙」とだれかがかならず言うのもかすかに面倒。それで、避けてしまうのである。最近は、蟹を食べたいというときは、北海道から取り寄せて、家で鍋やしゃぶしゃぶにしていた。家なら、どんなふうに食べたって、散らかしたって、なんとなく気が楽。
この某専門店、記憶の通りに、店内が広い。この店にはじめてきたとき(二十年くらい前)は、店のなかを川が流れていたり、琴の生演奏があったりして、なんと豪華絢爛な店よのう、と思ったけれど、年々、ファミリーレストランのようだと思うようになった。これはもちろん、店の内装が変わったのではなくて、私が加齢し、店のありようにも蟹のコースにも慣れたのだ。
慣れてみると、この店は細部が非常にお茶目だ。「ホジホジ」と焼き印の押された蟹専用スプーンだとか、蟹型の鍋とか、蟹の箸置きとか、木彫りの、鮭をくわえた熊の置物とか、キッチュというかキュートというか、この妙味に、若いときは気づかなかった。
蟹しゃぶコースを頼んで、蟹酢と蟹刺身で友人はビール、私はサワーを飲みはじめる。おいしいね、蟹ってやっぱりおいしいね、と言い合いながら、食べる。身をほじるのが、昔より面倒ではない。若いときのほうがせっかちだったのかもしれない。
ふと気づくと、周囲から聞こえてくる言語が外国語ばかり。中国語、韓国語、英語。えっと思って店内を見まわす。そこそこ混んでいる店の、男女四人グループが(たぶん)中国語、ちいさな子どものいる三人家族が英語、四人家族が韓国語、小学生くらいの息子と母親の二人連れは英語。すごい。気づけば、日本語の客より多いではないか。しかも、従業員に外国語専門スタッフがいて、彼女がおもに英語で懇切ていねいにメニュウ内容や、食べ方について、説明している。
六、七年前まで、幾度かきていたが、こんなふうに外国語が氾濫していたのははじめてだ。もしかしてここ近年、東京旅行のガイドブックに載ったのかもしれない。蟹を出す店は全世界にあれど、こんなふうに、やれ蒸したもの、生のもの、焼いたもの、果てはグラタン、焼売、フライに天麩羅、鍋でしゃぶる、煮る、七輪で焼く、鮨にする、釜飯にする、ここまで蟹を食らおうとするのは、日本においてしか、見たことがない。上海の、上海蟹専門店がずらり並んだ不夜城のようなところに、かつていったことがあるけれど、そこだって、メインが上海蟹、そのほかはふつうの中華料理が出た。
こんなに蟹、蟹、蟹づくしなんて、たしかにめずらしい。私も、ごくふつうに蟹の好きな外国人旅行者だったら、ガイドブック片手にいってみるだろう。
友だちと蟹しゃぶを食べ、なんだかいくらでも食べられるねと笑っていたら、途中でがくんと満腹になった。蟹の脚がまだ数本残っているというのに! 雑炊だってまだなのに!
「いきなりきたね」「いきなりだったね……」と言いつつ、でももったいないから、蟹脚をしゃぶる。
私はちらちらと、斜め向かいにいる母子二人連れを見ていた。まだ若いおかあさんと小学生くらいの男の子。この二人、店員さんと英語でしゃべっていたところを見ると、香港からやってきたのかなと推測する。男の子は、ぬいぐるみ二体をだいじそうにわきに置いている。おかあさんは料理が運ばれてくるたび、息子にポーズをとらせて写真を撮っている。男の子が、またそれにいい表情で応えている。二人きりの旅なのか、おとうさんはホテルで寝ているのか、わからないけれど、とにかく、旅感がにじみ出ていて、こちらまで旅の幸福にあやかれるような母子なのだ。
この二人の元に運ばれてくる料理が、しかし半端ではない。蟹酢、蟹刺身、蟹焼き、蟹焼売、それが終わると蟹鍋。もう終わりだろうと思っていると、なんと寿司桶まで出てきた。私たちは蟹しゃぶ途中でギブアップなのに……。
蟹の出汁のきいた雑炊をなんとか腹におさめ、デザートは断って席を立った。
テナントの入ったビルを出ると、いつもの新宿の夜である。けれどなんだかちいさな旅をしてきたような不思議な感覚が、蟹の味とともに体じゅうに残っていた。 |