人と待ち合わせたカフェに早く着いてしまい、ひとり本を読んで待っていた。すぐ後ろの席に女の子が二人いて、話している。声が大きいので、自然と聞こえてくるが、本に没頭して何を話しているのかまではわからなかった。ところが。
「だってあの人って、ひとりで立ち食い蕎麦屋に入れますってのをアピールしてる女じゃん」
と、ひとりが言い、そこだけ私の耳はキャッチし、顔を上げた。
あーあー、そういうとこ、あるよねー。そういうのがねー。と二人の話は続くが、その後はもう興味がなくなって、私は再び本に目を落とした。
店を出ていく彼女たちをちらりと見ると、三十歳前後、といったところに見えた。彼女たちは自分たちのことを若いと思っていないかもしれないけれど、断然若い。そして私は自分が若くないことを実感し、若くなくてよかったと続けて思った。
私が彼女たちを「若い」と実感するのは、女性が「立ち食い蕎麦屋にひとりでいく」なんて、あり得ないという前提を疑わず、そのあり得ないことをわざわざするのは、何ごとかを世に訴えているからだ、と考えているところ。
その考え方は、たいへんによくわかる。私にも若いときがあったからだ。しかも、私が若き日、オヤジギャルという言葉が流行って、わざわざオヤジのような趣味を持ちオヤジのような振る舞いをする女子が実際に増えた。そのような自分を演出している女は多かったと思うけれど、この流行にほっとした女もいただろう。「やむなく」派だ。
そう見せたい、そうありたい、からではなく、やむなくそうするしかない、という場合があると、若き日の私も知らなかった。自分がやむなくそうせざるを得なくなってはじめて、「あっ」と気づくのである。
私は三十歳を過ぎてから立ち食い蕎麦屋を頻繁に利用するようになった。なぜかというと、時間に余裕がない、でも、カロリーメイトやコンビニおにぎりは食べたくない、というときが増えたからだ。食堂やレストランなら三十分以上かかる食事が、十分程度で済ませられる。三十代半ばは本当によく利用していた。同じチェーン店でも、どこの駅はおいしくて、どこの駅はまずいとわかるまでになった。はじめた訪れた町で、やむなく立ち食い蕎麦で食事をしなければならない場合、チェーン店の、Aという店があればうれしいし、Bという店しかないとがっかりする。チェーン店比較もできるのだ。
たぶん、女性が「立ち食い蕎麦屋にひとりでいく」のはおかしい、という前提が、私のなかにもかつてはあったのだと思う。でも、やむなくそうするしかない。やむなくしているうちに、前提が前提ではなかったことを知る。
立ち食い蕎麦屋で蕎麦をすする自分を、知り合いに見られたいかというと、見られたくない。時間的精神的余裕がないことを見られたくない。
年齢を重ねると、こういうことがどんどん増えてくる。人からどう見られるか、という部分が摩耗していって、自分の都合や意志や嗜好が肥大してくる。
ひとりで飲み屋に入る女は、人をわざわざ誘うのも面倒で、でも家では飲みたくなくて、だからやむなくそうしているのである。
薬局で腰に手をあててドリンク剤を飲む女は、飲まないと体が持たなくて、やむなくそうしているのである。
逆もまた然り。二十代の女の子ならもしかして、それは見せかけかもしれないが、三十代後半以上は、まず間違いなく、やむなくやっているはずだ。
瓶の蓋が開かない、と言っている女は、か弱い自分を見せているのではなくて、握力がないか、低下しているのである。
道に迷ってかならず遅刻する女は、「方向音痴にこんなわかりづらい店指定すんな」と逆に怒っているはずである。
酔っぱらって「キリンってどうやって眠るか知ってる?」とか「クジラって魚類? ほ乳類?」などと何百回も言う女は、天然を演出しているのではなくて、酔いスイッチが入ってそのことが頭から離れなくなっているのである。
ひとりで立ち食い蕎麦アピールの話、なつかしく、かつ、感動するほど新鮮だった。そして同時に、そんないっさいを考えずに立ち食い蕎麦店に入っていける自分に、大いに安堵した。 |