お好み焼き屋さんには二種類ある。自分で焼く店と、お店の人が焼いてくれる店だ。
自分で焼く店は関西風のお好み焼き、お店の人が焼いてくれるのは広島風のお好み焼き、が多いような気がする。
高校生のころから、自分で焼くスタイルの店にいっていたから、とくになんとも思わないが、よく考えればずいぶん変わった形態だなと思う。もし異国の人がなんにも知らずに入って、生の野菜と溶いた小麦粉の入ったボウルを渡されたら、どぎまぎするだろう。
自分で焼くスタイルの店は、「お好み焼きを食べよう」という明確な意思がないといかない。そして「お好み焼きを焼こう」という気持ちのある人(ときには自分も含め)としか、いかない。お好み焼きを焼く気がない、もしくは焼いたことがない人たちだけでは、けっしていかないのである。
ところで、清志郎の会というものがある。十年くらい前から、十人程度で集まって飲むのである。私のようなたんなるファンもいるが、清志郎さんと仕事をしていた人たちも多い。いつもべつの店で集まっていたのだが、このときは、清志郎さんがかつて家族でよくいっていたお好み焼き屋さんにいこう、と会のメンバーが言い出して、予約してくれたのである。つまり、「お好み焼きを食べよう」でも「お好み焼きを焼こう」でもなく、好きなバンドマンの利用した店、というミーハー心でそこにいったのである。
乾杯して会がはじまると、ポテトサラダや煮込み風のおつまみが出てきて、それから、鉄板で焼く用の料理が出てくる。豚キムチだったり、ウインナ炒めだったり、野菜炒めだったり。この段になって、私ははたと、「だれが焼き係を得意とするのか」と疑問を持った。この会の人たちの多くは、レコード会社やテレビ局や音楽業界のえらい人たちである。とうぜん年齢層も高い。年齢層の高いえらい人は焼き係をやらない、という偏見ではなくて、このえらい人たちと何度か飲んでわかったことだが、食べものに頓着しないという共通点がある。メニュウを見たり料理を選んだり、まして取り分けたりするのが、面倒らしい。らしい、というか、しない。夢中で話していて、目の前に皿が置かれれば、食べる。そんな具合。
私より若い人たちも参加しているのだが、どうも積極的に焼き係をやるタイプには見えない。この場所を提案し予約してくれたHさんは関西の出身で、関西の人は例外なくお好み焼きを焼くのが得意だが、隣のテーブルである。
やむなくこちらのテーブルでは私が焼き係をかってでた。予想通り、だれも、鉄板なんか見ない。焼けました、と言っても話していて箸をのばさない。勝手に皿に入れれば食べてくれるので、どんどん入れる。
このお店の鉄板、なんと端っこにたこ焼き器までついている。たこ焼き、まさかこないよな、と思っていたら、鉄板焼きが数種類続いたあと、きたのである。具材と、ポットに入った生地がべつべつに運ばれてくる。みんな話し続けている。エーッ、たこ焼きは難易度が高い……でもここで私が作らなければ、この難易度の高いものをみんな放置して話し続けるだろう……。
意を決し、たこ焼き器に油を塗り、具材を入れ、生地を流しこむ。なぜか生地が多量に余る。
たこ焼きは、思いの外うまくできた。くるりとまわせばきちんときれいなたこ焼きになった。内心ほっとしつつ、話し続けるみんなの皿に入れていく。隣のテーブルでたこ焼きを焼くHさんを見て、はっとした。私がいっぺんに投入した具材は、何回かに分けて入れるものだったのだ。だから生地が大量に余ったのである。私は黙ったまま、具なしのたこ焼きを作ってみた。具なしでも、きちんとたこ焼きのかたちになる。そっと話し続けるみんなの皿に入れると、具なしであることにまるで頓着せず、いや、気づきもしていないのかもしれないが、みんなぱくぱく食べている。
そしてたこ焼きののちに運ばれてきたのがもんじゃ。
もんじゃ! 私は心のなかで小躍りした。お好み焼きも含め、焼き係には自信がないが、私はもんじゃだけは得意なのだ。この奇妙な食べものを知ったのは二十代になってからだが、その二十代、私はもんじゃを焼く特訓をしまくったのだ。野菜できれいに土手を作り、そのなかに生地を流しこむ。土手をしっかり作っておかないと、生地が流れ出て惨状になる。
焼き係の得意なHさんだが、もんじゃはさすがに難易度が高いのでは、と隣のテーブルを見ると、やはりなんだかわからないことをしている。野菜ごと生地を鉄板に流して、てんやわんやになっている。お店の人が見かねて作りにきてくれた。私はここぞとばかり、「見てください!」と、話し続けるみんなの注意を引いた。「見てください、私のこの、芸術的にきれいなもんじゃを」と、土手のなかで生地のふつふつ焼けるもんじゃを指す。話を中断したみんなは、あ、ほんとだ、ほんとだきれいだね、と一応言ってくれ、また話に戻る。それでもいいのだ、見てくれただけで、私は充分焼き心が満たされた。
もんじゃのあとにはお好み焼きが出てきた。もんじゃで力を使い尽くした私は、鉄板の焦げだけこそげ落として、だれか焼いてください、と焼き係を放り出した。だれが焼いてくれたのか忘れたが、みごとにうつくしいお好み焼きができた。しかも、私のように注意を引いて自慢したりしない。なんだ、隠れお好み焼き名人がいたのか。
会を終えて帰り道、なんだかすっごくたのしかった、と私はハイになっていた。清志郎の会はいつだってたのしいのだが、その「たのしかった感」がいつもと異なるのだ。ああ、これは焼きハイだろう。焼くのはなかなかに気を遣うが、こんなにもハイになるのか、とはじめて知った。 |