評判とか流行に疎い私の耳にも、さまざまな情報が飛びこんでくる。昨年、そういった私ですら知っている「評判の」場所にいくような仕事が重なった。レストランだったりバーだったり、宿泊施設だったり乗りものだったり、さまざまだが、人気が高く、予約がとりづらいということが共通している。顧客は、三十代の半ばからシニア世代と、わりあい高め。そうした場所で働いているのは、もうみんな、私より若い人たちだ。三十代が中心ではないか。
そうした場所に共通しているのは、サービスがきめ細やか、ということだ。かつてどこでも見られたマニュアル対応がまるでなく、働いている人、みんなそれぞれが自分の言葉で、ていねいに、お客さんと一対一で、人対人として話す、という印象。ありがとうございましたとか、いらっしゃいませと言うときに、語尾をのばすような人はひとりもいない。そのような社内教育が徹底されているのだろう。
マニュアル対応なんかよりぜんぜん気持ちがいいなあ、と思っていたのだけれど、あんまりにもそうした対応が続き、私はなんだか落ち着かないような気持ちになった。
多くの評判の場所で、従業員の人たちは、配慮のためだろう、ちいさめの声で、ゆっくりと話し、音をたてないようしずしずと動く。料理やサービスの説明は、それはもう、こと細かにしてくれる。
これが東京における接客サービスの標準になっていくのではないか、と私はふと思い、なんかそれもものすごく奇妙なことに感じられたのである。ひとりで店に入って「何名さまですか」と自動的に訊かれるのも不自然だけれど、こぞってだれもがちいさな声でゆっくりとていねいに話し、しずしずと動くのもなんだか変だ。
やっぱり評判のあるレストランでのこと。私たちのテーブルを担当してくれた女性スタッフも、料理説明をちいさな声でものすごくていねいにしてくれた。どこそこ産の野菜、その野菜の旬、特徴、どこそこでとれる魚、旬、別名、特徴、料理法、どこそこ産の塩、特徴……食べるのが申し訳なくなるくらいのとくべつな素材のようである。
あらかじめ、私はたくさんの量を食べられないので、すべての料理を少なめの量で、とお願いしておいた。けれども結局食べきれず、最後のメイン料理を残してしまった。
皿を下げにきた担当女性、私の皿を見とがめるや、「お口に合わなかったでしょうか」と言う。
「いえ、あの、量が食べられなくて、満腹になってしまいました。申し訳ありません」と答えると、
「せっかくの○○なので最後までおいしく召し上がっていただければよかったんですけれど」と、むっとした口調で彼女は言った。
○○の部分は、料理法だったかとくべつな素材だったか旬だったか、忘れた。あまりにも驚いたからである。飲食店で、あらかじめ少量でと断っておいたのに、残すなんてけしからんという意味のことを、客ではなく店側に(むっとしながら)言われたのははじめてだったので、混乱したのである。料理を残すと店主が怒鳴りつける店というのはたしかにあるけれど、そのレストランはそんなことで評判なわけではなかった。
先日、評判で予約がとれないというわけでもない、でもお洒落なイタリア料理店に友人数名といった。はじめにスパークリングワインを注文すると、出てくるのに二十分ほどかかった。この時点で不吉な予感がたちこめる。前菜が出てくるのに、さらに二十分。
皿が置かれ、ようやく食べられると思いきや、前菜に使われているソース、魚、全野菜、飾りのような菜っ葉一枚まで、従業員のかたは説明してくれる。ちいさな、ていねいな声でえんえんと続くその説明を、空になったスパークリングワインのグラスをうつろに眺めて私たちは聞いた。説明を終えて帰る彼にワインを注文し、水分なしで前菜をもそもそと食べる。
十分後、ワインを二本持って彼は登場、違いを説明しはじめる。うーむ、これから私たちが選んだものを開栓し、スパークリングのグラスを下げ、ワイングラスを持ってきて、そしてワインがようやく飲めるのか……三十分はかかるなあ。
前菜、パスタ、メイン料理、デザート、コーヒー。ここまで出るのに四時間半かかった。ワインは、また二本持ってこられて違いの説明がはじまるのがこわくて、ボトルが空になってもだれも次を頼もうと言い出さなかった。
こと細かくてていねいで、しずかで、マニュアルではない人対人のこの対応、耳打ちゲームみたいにどんどん変形しながらある意味マニュアル化していくのではなかろうかと、その日はさすがに不安になった。 |