アスペクト

肉記


047 魔のカウンター席

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 連載がまとまって、単行本ができあがると、打ち上げと称する食事会がある。ない場合もあるが、まあ、よくある。こういう習慣は、私がデビューした九〇年のころからあった。私の最初の単行本を出版していただいた編集部は、編集者が全員、華やかな店より赤提灯や文壇バーを好んだので、そういう場所での打ち上げが多かった。打ち上げといっても、担当編集者と編集長、三人くらいでぼそぼそ飲むわけである。

 その編集部の当時の面々は、みな、二十代から三十代と若かったが、おそらく、元祖編集長の渋好みを受け継いでいたのだろう。ちなみに、その編集者たちは今、私と同様、四十代、五十代になっているが、未だに渋好みである。そのころに植えつけられ、血肉となった価値観って、一生ついてまわるのではないか。

 最近、あんなふうな渋い店好きの編集者は、まず、いない。あのときの彼らと変わらない二十代、三十代の編集者たちの、趣味趣向がまったく変わった。他人に価値観を植えつけてしまえる、元祖編集長のような人が、そもそももう、いないのだろうと思う。

 打ち上げをしてもらう飲食店は、当然、お洒落でおいしい店ばかりになった。お洒落でおいしい店といえば都心だ。都心はすごい。私の住む、東京都下の、村のようなちいさな町のおいしい店もおいしいが、でも、なんというか、バラエティの幅が違う。都心にいくたび、実感する。

 先だって、単行本の打ち上げで招かれた場所も、都心のお洒落なイタリア料理店だった。あか牛がウリで、スパゲティ料理もあるが、肉で満腹になってもらいたいから、というお店側の希望で、スパゲティの含まれない肉中心のコースメニュウがある。

 このお店が、入るのがためらわれるくらい、どこもかしこも真っ白できれいなのである。こんなにもきれいな店は、気取っちゃっているばっかりであんまりおいしくないんじゃないか……という私のネガティブ予想をはるかに裏切って、前菜からしてものすごくおいしい。野菜も肉もそれ自体の味が濃く、量が多くないのがありがたい。

 そうしてメインのあか牛登場。あか牛は、サシの少ない赤身肉で、私はかつて阿蘇のあか牛を取材したことがある。でもこのレストランのあか牛は高知県の牛とのこと。なんとその牛肉が、骨付きの状態のまま、二ブロック、どーんと出てきた。一ブロック、太った人の肘から腕くらいの大きさ。真っ白な内装と、あまりにも不釣り合いな力強さである。

 薪で焼いたこの肉を、その場で切り分けてくれる。肉といっしょに焼いた、じゃが芋、葱、トマトなどがつけあわせとして出てくる。肉がおいしいのはもちろんのこと、このじゃが芋には感動した。

 私はあまり量を食べられないからか、そのお店が自分好みかそうでないか、前菜の段階でほぼ決まってしまう。メインにいくころにはたいていおなかがいっぱいで、メイン料理もぜんぶ食べられることはまれなのだ。でも、前菜が今ひとつ自分の口に合わないのに、メイン料理はすごくおいしくて、最初の評価とかわることって、あんまりないのではないかしらん。

 このお店は、前菜の、焼いた玉ねぎのマリネを食べたときに、「(真っ白でどぎまぎするけれど)ここは私の好きな店だ!」と心が決めしまい、そのあと、牛ばかりかパンでもチーズでも何を食べても気に入ってしまったのである。

 はじめて単行本を出版していただいた二十四歳のときは、イタリア料理なんて数えるくらいしか食べたことがなかった。その当時は、渋い赤提灯で、そんなにおいしいとは(当時は)思えなかったぬる燗をちびちびやっていたことを考えると、都心であか牛なんてのは、もう一大出世のようだけれど、そうではなくて、今ではどんなに若くても、デビューしたてでも、こうしたお洒落なお店で本の誕生を祝ってもらっているのだ。でも、赤提灯からはじまったてるおかげで、出世だ、と思えるのも、なかなかにいいことだと思う。

048 あたらしいおもてなし?

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 評判とか流行に疎い私の耳にも、さまざまな情報が飛びこんでくる。昨年、そういった私ですら知っている「評判の」場所にいくような仕事が重なった。レストランだったりバーだったり、宿泊施設だったり乗りものだったり、さまざまだが、人気が高く、予約がとりづらいということが共通している。顧客は、三十代の半ばからシニア世代と、わりあい高め。そうした場所で働いているのは、もうみんな、私より若い人たちだ。三十代が中心ではないか。

 そうした場所に共通しているのは、サービスがきめ細やか、ということだ。かつてどこでも見られたマニュアル対応がまるでなく、働いている人、みんなそれぞれが自分の言葉で、ていねいに、お客さんと一対一で、人対人として話す、という印象。ありがとうございましたとか、いらっしゃいませと言うときに、語尾をのばすような人はひとりもいない。そのような社内教育が徹底されているのだろう。

 マニュアル対応なんかよりぜんぜん気持ちがいいなあ、と思っていたのだけれど、あんまりにもそうした対応が続き、私はなんだか落ち着かないような気持ちになった。

 多くの評判の場所で、従業員の人たちは、配慮のためだろう、ちいさめの声で、ゆっくりと話し、音をたてないようしずしずと動く。料理やサービスの説明は、それはもう、こと細かにしてくれる。

 これが東京における接客サービスの標準になっていくのではないか、と私はふと思い、なんかそれもものすごく奇妙なことに感じられたのである。ひとりで店に入って「何名さまですか」と自動的に訊かれるのも不自然だけれど、こぞってだれもがちいさな声でゆっくりとていねいに話し、しずしずと動くのもなんだか変だ。

 やっぱり評判のあるレストランでのこと。私たちのテーブルを担当してくれた女性スタッフも、料理説明をちいさな声でものすごくていねいにしてくれた。どこそこ産の野菜、その野菜の旬、特徴、どこそこでとれる魚、旬、別名、特徴、料理法、どこそこ産の塩、特徴……食べるのが申し訳なくなるくらいのとくべつな素材のようである。

 あらかじめ、私はたくさんの量を食べられないので、すべての料理を少なめの量で、とお願いしておいた。けれども結局食べきれず、最後のメイン料理を残してしまった。

 皿を下げにきた担当女性、私の皿を見とがめるや、「お口に合わなかったでしょうか」と言う。

「いえ、あの、量が食べられなくて、満腹になってしまいました。申し訳ありません」と答えると、

「せっかくの○○なので最後までおいしく召し上がっていただければよかったんですけれど」と、むっとした口調で彼女は言った。

 ○○の部分は、料理法だったかとくべつな素材だったか旬だったか、忘れた。あまりにも驚いたからである。飲食店で、あらかじめ少量でと断っておいたのに、残すなんてけしからんという意味のことを、客ではなく店側に(むっとしながら)言われたのははじめてだったので、混乱したのである。料理を残すと店主が怒鳴りつける店というのはたしかにあるけれど、そのレストランはそんなことで評判なわけではなかった。

 先日、評判で予約がとれないというわけでもない、でもお洒落なイタリア料理店に友人数名といった。はじめにスパークリングワインを注文すると、出てくるのに二十分ほどかかった。この時点で不吉な予感がたちこめる。前菜が出てくるのに、さらに二十分。

 皿が置かれ、ようやく食べられると思いきや、前菜に使われているソース、魚、全野菜、飾りのような菜っ葉一枚まで、従業員のかたは説明してくれる。ちいさな、ていねいな声でえんえんと続くその説明を、空になったスパークリングワインのグラスをうつろに眺めて私たちは聞いた。説明を終えて帰る彼にワインを注文し、水分なしで前菜をもそもそと食べる。

 十分後、ワインを二本持って彼は登場、違いを説明しはじめる。うーむ、これから私たちが選んだものを開栓し、スパークリングのグラスを下げ、ワイングラスを持ってきて、そしてワインがようやく飲めるのか……三十分はかかるなあ。

 前菜、パスタ、メイン料理、デザート、コーヒー。ここまで出るのに四時間半かかった。ワインは、また二本持ってこられて違いの説明がはじまるのがこわくて、ボトルが空になってもだれも次を頼もうと言い出さなかった。

 こと細かくてていねいで、しずかで、マニュアルではない人対人のこの対応、耳打ちゲームみたいにどんどん変形しながらある意味マニュアル化していくのではなかろうかと、その日はさすがに不安になった。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。