秋になると魚屋の店頭に不思議なものが並ぶ。私はずいぶん長いこと、これっていったいなんだろう、とその不思議なものをじーっと眺めていた。
生いくら、と書いてある。たしかに私の知っている、あのつややかで美しいいくらとは違う。すじこと似ているが、すじこほど身がしまっていない。魚の腹から今さっき取りだしたばかり、というような状態のいくら。
はて、これはいったい何に使うのだろう……。生のいくらを似たり焼いたり、何かほかの素材と組み合わせて炒めたり、するのだろうか。
長らくそんな疑問を抱き、魚屋の店頭で生いくらをじーっと見つめていた。
生いくらから、いくらの醤油づけを作るのだと知ったのは、ほんの三年前。私のよく知っている、あのつややかで美しいいくらを、自分で作ることができる!
いくらといえば私の大好物である。でも、売っているものは、ちょこっとした容器に入ったちょびっとのいくらで、しかも高い。しょっちゅう買う日常食とはとても思えない。でも、生いくらから自家製いくらを作れば、値段も安いし好きなだけ食べられる。うほー、と思った私はさっそく作り方を人に聞き、生いくらを買って、いくらの醤油づけ作りに挑戦した。
まずボウルにぬるま湯を用意して、そのなかで生いくらをほぐす。透明の袋に包まれている生いくらをほぐしていると、幼少期、蛙の卵で遊んだころを思い出す。触感がじつによく似ているのである。かなり乱暴にほぐしても、いくらの粒はつぶれない。
生いくらをほぐしたら、醤油たれを作る。だし汁、みりん、酒、醤油を火にかける。それが冷めたらほぐしたいくらをつけるだけ。一晩たてば、魚の腹から取りだしたばかりの生いくらが、あの、つややかに美しいいくらになっているのである。
自分で作れば味の濃さも調節できるし、醤油だれにわさびをといて、わさび風味のいくらもできる。何より、できあがる量の多さがうれしい。
ふだん、肉、肉とばかり言っている私であるが、じつはいくらやたらこといった魚卵は、ものごころついたころからの好物なのである。
幼いころ、私は好き嫌いが多かったばかりでなく、食べかたがまるで酒飲みのおっさんであった。おかずとごはんをいっしょに食べない。酒も飲まないのに、まず好きなおかずだけ散らかすように食べ、そのあとごはんでしめるのである。しかし白いごはんだけでは食べられない。そこでふりかけやたらこといった「ごはんの友」の登場となる。
私の母は、おそらく成長期と戦中戦後が重なっていたせいで、食べものにたいへんな執着があった。戦中戦後の食糧難を経験した大人には、食べものを粗末にするな、ぜったい残すなと言う人が多いが、母はそうではなく、「好きなものしか食べないでよろしい」という考えかたになったようだ。だから私が何を残そうが、酒飲みのおっさんのような食べかたをしようが、まったく文句も言わなかったし説教もしなかった。そればかりか、おかずだけ最初に食べて、最後に白いごはんを食べる私のために、ごはんの友を常備してくれていた。
しかしさすがに、いくらは常備されていなかった。せいぜいが筋子である。いくらは、鮨屋のにぎりに入っているとくべつなものだった。私はにぎりを食べる際、いつもいくらをいじましくとっておいて、最後に食べた。あのぷちぷち。さりげないねっとり感と、高貴なしょっぱさ。
大人になって、ひとり暮らしをはじめても、いくらは私にとってとくべつなものであり続けた。新米を人にもらったりすると「よっしゃ」といくらを買ってきていくら丼にするが、やっぱりしょっちゅう買うようなものではない。ずいぶんと安いいくらもあるが、安いいくらはなんだかにせものの味がする。ねっとり感と粒と中身の密着性が、なんだかにせものっぽいのである。
外食の際も、「いくら丼」という文字を見ると、胸の奥が奇妙に興奮し、注文せずにはいられない。私は心底いくらを愛しているのだろう。
そのいくらを、自分で作れるなんてなんとすばらしいことか。長きにわたって魚屋に並ぶ生いくらをじーっと見てきたことが悔やまれる。もっと早くに買って、作ればよかった。
秋、私は何度も何度もいくらの醤油づけを作る。冷蔵庫に、輝くルビー色のいくらが入っているこのしあわせ。食べ過ぎると、ちょっと胸焼けするけどね。
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