アスペクト

今日もごちそうさまでした

角田光代
お肉は好きですか? お魚は好きですか? ピーマンは? にんじんは? 美味しいものが好き、食べることが好き、何よりお料理が好きな角田さんの食にまつわるエッセイがスタートです。

009 さつまいもに謝罪

 三十歳以降食べられるようになったものが、私には異様に多いのだが、その逆もある。若き日は大好きで大好きでよく食べたのに、ぱたりと食べなくなってしまったもの。

 それはさつまいも。

 子どものころから二十代の半ばまで、私はさつまいもを愛していた。お弁当に、さつまいもの煮物がちょこっと入っていると、「くふ」と笑みがこぼれるくらいうれしかった。

 父方の親戚の家で、大勢人が集まるときには必ず天麩羅が出たのだが、この家のおばさんは、さつまいもの天麩羅を作るのが異様にうまかった。この家で天麩羅が出ると、私は海老にも茄子にも見向きもせず、さつまいもばかり立て続けに食べた。「まー、あんたよほどさつまいもが好きなのネー」と、親戚じゅうに言われるほどであった。

 この天麩羅があまりにもおいしいので、母にもせがんでよく作ってもらったが、ほかのものはともあれ、さつまいもの天麩羅だけは、このおばさんにかなわなかった。

 スイートポテトも好きだった。学校帰りにケーキ屋に寄ってスイートポテトを買っては、夕食前のおやつとして食べていた。デパートではじめて松蔵ポテトを見たときは、「わきゃーっ」と興奮して買った。しかしながら、スイートポテトは高い。芋にしては、おやつにしては、高校生にしては、高いのである。もっと思うままスイートポテトを食らいたい、と思った私は、またしても母にせがんで、スイートポテトレシピを学習してもらった。

 そして、アレである。私がもっとも胸を弾ませたのは。アレ。そう、冬の日の「いーしやーきいもー、やきいもっ」である。

 天麩羅も煮物も、スイートポテトも、そこそこうまいものが家で作ることができる(母親に作らせることができる)。しかし石焼き芋だけは、家では再現不可。そのくらい、焼き芋屋の石焼き芋はおいしい。

 中学、高校生のころ、なんとなく夜だらだら起きていると、どこからか「いーしやーきいもー」が聞こえてくる。私は自室を出、階段を走り下り、「おかあさん、石焼き芋がきたっ」と興奮して伝える。どうする? 買う? と言い合っているうちに、「いーしやーきいも、やきいもっ」は近づいてくる。「ああ、急がないと通り過ぎちゃう!」母はいきなり焼き芋心に火をつけて、財布を持っておもてに駆けだしていく。そんなことがよくあった。

 夜の石焼き芋。禁断の味である。中学二年のころから猛然と太りはじめた私は、高校生のころ体重がピークで、なんとかせねばならん、と日々思ってはいた。夜九時以降食べない、間食はもってのほか、という常識もすでにわきまえている。「こんな時間に食べちゃだめだ、食べちゃだめ」と思いつつ、新聞紙にくるまれた石焼き芋を割る。ほっくりと湯気が上がり、黄金色としかいいようのない金色があらわれる。「でも食べずにはおれん!」とかぶりつく。ああ、この禁断の快楽。

 二十三歳で小説家としてデビューしたとき、私はひとり暮らしをしていた。昼間、ひとり暮らしのアパートで小説を書いたり、小説書きに飽きてゲームをしたりしていると、あの魅惑の声が聞こえてくる。「いーしやーきいも、やきいもっ」というその声は、どういうわけかかつて実家で聞いたものと驚くほど似ている。あのアナウンスは全国共通なんだろうか? しばしの逡巡ののち、財布を持って部屋を飛び出していく。週に幾度かそんなふうにして焼き芋を買っていたら、いつも昼間に飛び出してくる私の身を案じたのか、焼き芋屋のおじさんが「おねえちゃん、仕事紹介してあげようか」と言った。「この近くの蕎麦屋なんだけど、お運びさんをほしがってるんだよ」ということであった。

 そこまで好きだったさつまいもであるが、気がつけば、ぜんぜん好きではなくなっている。もちろん嫌いではないが、自分で買うほど食べたいと思わないのだ、さつまいもも、焼き芋も。

 つい先だって、いつもいく八百屋さんの店頭で、ふとさつまいもに目がいった。恥じらうような赤紫。奥ゆかしいようなキュートなかたち。じーっと見ているうち、あることに気づいて愕然とした。

「自分で料理をするようになってから十数年、私はみずからの意志でさつまいもを買ったことも、調理したこともない」

 そう気づいたのである。すごいことだ。あんなに好きだったのに、一度も手にしたことがないなんて。まるで忘れ去られた昔の恋人。

 忘れ去っていたそのことにかすかな罪悪感を感じ、私は手をのばしてさつまいもを持った。軽いような重いような中途半端さが、なんとはなしにものがなしい。買わねばならないような気持ちになったが、しかし調理法が思い当たらない。煮物って南瓜みたいに茹でればいいのか。天麩羅はかんたんそうだが、食べたくないしなあ。石焼き芋は無理だし、あとどんな調理法があるのか……。買ったことがないから、さつまいもの扱いに関しててんでわからない。

 あ、揚げるってのはどうだろう。ふとひらめいて、その一本を買った。

 さつまいもを、フライドポテトのように長く細く切って、フライパンに多めの油を注ぎ、素揚げしてみた。からりときれいなきつね色になるまでには、案外時間がかかる。揚がったそれらの油を切って、塩をかけて食べてみた。うん、まあ、おいしい。

 うん、まあ、おいしい。あんなに愛していたのに、この感想はいかがなものか。さつまいも、ごめん。

010 神聖餅

 餅が好きだ。どのくらい好きかというと、好きすぎて食べないくらい好きだ。

 私が餅を買うのは一年のうちただ一日、大晦日である。少し多めに買って冷凍しておく。その餅が切れても、次の大晦日までぜったいに買わない。そんなに餅が好きなら餅を常備すればいいとお思いでしょう。でも、違うのだ。

 まず冷凍庫につねに餅があったら、私は確実に、餅を食べ過ぎる。朝食、雑煮。昼食、力うどん。おやつ、磯辺焼き。夕食、餅が食べたいために鍋にして、鍋後、餅投入。夜食、磯辺焼き。こんな具合に、餅が止まらなくなること必至。

 餅の食べ過ぎで際限なく太っていくこともこわいが、それよりも、餅の神聖さをおかすことに私は罪悪を感じる。そう、餅は私にとって神聖なのだ。豆腐やみかんのように、毎日食べて許されるようなものではない。新年、「あー、お正月だなー」と思いながら食べてこそ、餅。そんな気が、どうしてもしてしまう。

 餅に、うまいまずいがあるのは知っていますか。

 スーパーで袋入りで売っている餅は、その値段が安ければ安いほど、まずい。ワインは高価なものほどおいしいと聞いたことがあるが、餅もそんなようなところがある(ワインほどの値段の開きはないが)。まずい餅に当たったときの、あの失望。

 実家を出てから、正月はたいてい自分のアパートで過ごしてきたのだが、二十代の貧乏なとき、餅代をけちったことがあった。大晦日、アパートに集まった友人たちにお雑煮をふるまい、自身でも食べ、「ふぎゃっ」と思った。それまで、まずい餅がこの世に存在するなどと思ったことがなかったのだ。

 まずい餅を食べていることもかなしく、また、まずい餅を平気で友人にふるまったことが恥ずかしく、大晦日にまずい餅を食べさせられている友人たちも気の毒で、あのときは部屋の隅でじっとりと膝を抱えたい気分だった。

 以来、どんなに貧しても、安い餅は買わないことにした。安い牛肉も安いキャベツも安い味噌も私は平気だが、安い餅はだめ。ただただ、かなしい気持ちになる。

 では、うまい餅はどこで売っているか。二十代のころから、大晦日になると、私はうまい餅を求めて町をさすらった。スーパーで売っている、安くない餅でもいいのだが、もっと「つきたて」感のある餅を入手したくなったのだ。

餅を売っているところといえば、米屋か和菓子屋である。こういうところで売られているのはのし餅。そしてやっぱり、スーパーの安くない餅より、うまい。大晦日の早い時間にいかないと売り切れているのが玉に瑕。

 今の住まいに引っ越したのは三年前だが、すばらしいことに、近所に「おもちやさん」という名の餅屋がある。売っているのは餅菓子と餅。餅は餅屋、というが、やっぱり餅屋の餅はそりゃあおいしいのである。餅屋がそばにあるだけでも、今住んでいる町に引っ越してきてよかった、と思う。大晦日しか、買いにいかないんだけれども。

 こんなに好きな餅だが、私の食べかたは決まり切っている。雑煮か磯辺焼き。大晦日に買って冷凍しておいた餅は、たいがいそのどちらかで食べきる。餅ピザを作ることもないし、餅グラタンを作ることもない。みずから餅レシピを考案することもない。

 正月が過ぎ、成人の日が過ぎるころ、ああ揚げ餅が食べたい、と思う。私の実家では鏡餅が割れてくると、それをさらに乾燥させ、揚げ餅にしていた。餅、は私の好物であり、揚げる、は私のもっとも好きな調理法。揚げ餅は私にとって、愛×愛の食べものなのである。自分ちで揚げた餅は、当然ながら、市販の揚げ餅なんかより格段にうまい。あつあつを食べられるのもいい。

 毎年、ああ揚げ餅食べたい、と思いつつ、みずから作ったことはない。なんだかたいへんな作業のような気がするし、餅を揚げるのは、爆発しそうでなんだかこわい。だからいつも、思うだけ。ああ揚げ餅食べたい。だれか作ってくれないかなー。と思うだけ。

 昨年、仕事で訪れた中国で、画期的な餅料理に出合った。

 中国人を含む数人で北京の中華レストランにいった折り、不思議な料理が運ばれてきた。ナンを細く千切って薄っぺらくしたようなものが、籠に山盛りになっている。「これ、なんですか」と通訳の方に聞いてみると、「揚げた餅」という答えである。その地方の伝統料理らしい。

 へらへらに薄っぺらく、ひよーんと長いそれを食べると、香ばしく、かすかに甘く、口に入れると一瞬さくりとし、あっというまに溶ける。食感も含め、すばらしいおいしさ。「わー、おいしい」と私は平静をよそおって言ったが、実際は、「ぎゃーっ、何これ何これ何これ!! うまうまうまーーーいっ」とフロアじゅうを転げまわりたい思いだった。中華式のまわるテーブルでの食事だったので、気がつくと、揚げ餅入りの籠ははるか彼方にある。私はほかの人に気づかれぬよう、そっとテーブルをまわしては籠を近づけ、手をのばしてそろりそろりと餅をむさぼり食った。が、気をゆるめるとまたその籠はテーブルの反対側にいっている。またしても慎重にテーブルをまわし揚げ餅を近づけ……とやっているうちに、へとへとに疲れた。そして自分の意地汚さを思い知らされ、ちょっとへこんだ。

 けれど今になってみると、あんな薄く細い餅こそ自分で作れるはずがないのだから、もっと食べておくんだった、と反省しきりである。やっぱり私は意地汚い。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。