料理を覚えたての二十六歳のころは、とにかくいろんな調理に燃えていて、自力でできることはなんでもやってみたかった。餃子の皮が作れるとわかれば作り、ピザ台が作れるとわかれば作った。たけのこも、皮つきを買って煮ることができるとわかって、さっそくでかい皮つきたけのこを買った。あれ、どんなにでかくても、皮を剥くとちいさくなってしまうのだと知ったのもこのときである。
たけのこはあくが強いから、唐辛子と米糠といっしょに煮るとよいと料理本で読み、わざわざ米糠まで買い求めて、煮た。
水煮のパックではなく、自分で煮たたけのこは、たしかに風味もよく、かすかに残る苦みもおいしい。歯触りもだいぶ違う。「なんでも手間ァー暇ァーかけたほうがよいってことだな」と、当時の私はひとり納得していた。
けれど自分で煮たたけのこには弱点がある。すぐ悪くなってしまうのだ。
やっぱりたけのこを唐辛子と糠で煮て、その後たけのこごはんを作り、保温したまま忘れて一日後、釜のなかではもう糸ひいてたもんね。
料理を覚えてから早くも十年以上がたち、未だに私は料理好きだが、あのころのような初々しいチャレンジ精神はすでにない。それを実感するのが、八百屋さんの店頭でたけのこを見かける初春。
私のよくいく八百屋さんには、八百屋さんの自家製水煮たけのこ(パックされておらず水に浮かんでいる)と、立派な皮つきたけのこの両方を売っている。皮つきたけのこ、そういや、ずいぶん糠で煮たなあ、おいしいよなあ、と思いつつ、私は水煮を買う。「たけのこください」と言って「当然こっちだよね」と冗談半分で皮つきを勧められながら、「いや、水煮のほう」と答えてしまう。
だって、たけのこを煮るのに、ふだん見向きもしない米糠を買うのって、面倒以上に何か抵抗がある。糠なんて買ったって、あとは豚の角煮くらいしか使用法が思いつかないしなあ。それに、米糠、煮たあとの鍋を洗うのが本当に面倒なのだ。
チャレンジ精神のなくなった私は、だから現在はもっぱら水煮使用。
たけのこごはんは、すべてのまぜごはんのなかでいっとう好きだ。たけのこと油揚げだけでもいいし、鶏肉をいれてもおいしい。たけのこと油揚げと鶏肉をべつべつに煮る、とか、具材はあとでくわえる、とか、いろいろ作り方はあるようだが、どんな作り方をしても失敗が少ないのがいい。ずぼらな私はたけのこも油揚げも鶏肉もいっしょくたに煮て、米といっしょに炊く。そんなおおざっぱな作り方だっておいしい。
かつおぶしをまぶすかか煮もうまい、若竹煮もうまい、天麩羅もうまい。洋風に使っても、中華に使ってもうまい。焼いただけだって、ほこーっとして、でもしゃきーっとして、うまい!
こんなところにたけのこが入っていて、しかも合う! と驚いたのは、タイカレーである。私がはじめてタイカレーを食べたのは1987年。なぜ覚えているかというと、衝撃的だったからだ。そのうまさと、たけのこや大根がカレーに入っていてしかもうまい、という、ダブル衝撃。私は今でもタイカレーを作るとき、必ずたけのこを入れる。はじめて食べたあの衝撃への、義理のような気持ちである。
去年、知人がたけのこ掘りにいったと言って、皮つきたけのこを送ってくれた。ひさしぶりに見る皮つきのたけのこ。それにしても皮つきのたけのこって妙に立派に見える。折り重なるようなたけのこの皮が、格式高い着物のように見えるからだろうか。
その包みには、椿の葉がいっしょに入っていた。椿の葉をいっしょに煮れば、唐辛子や米糠を使わずともあくがとれると、知人からのアドバイスが手紙に書いてあった。
いっしょに煮てみて驚いた。本当にあくがとれる。しかも鍋の内側に米糠がはりついてクソウ、ということもない。手軽。あとかたづけかんたん。そして自分で煮たたけのこは、水煮より、やっぱりだんぜんおいしいのである。
これは脱ずぼらだな。今度から椿の葉でいこう、椿の葉で。もう水煮は買わないぞ。春のあいだは毎回煮るぞ。
そう決意したものの、問題がひとつあった。家や仕事場の近所に、椿の木がないのである。椿、椿、椿、と思いながら歩いていて、あるとき見つけ、狂喜したのだが、しかしそこはどなたかの家の庭。人んちの椿を、たとえ葉っぱ二、三枚とはいえ、勝手に摘んで帰っていいものだろうか。盗人行為ではないのか。たけのこを食すためだけに盗人っていうのもなあ。
うじうじと悩み、結局他家の庭に手をのばすことがどうしてもできず、今年、私は水煮を買っています。
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