アスペクト

今日もごちそうさまでした

角田光代
お肉は好きですか? お魚は好きですか? ピーマンは? にんじんは? 美味しいものが好き、食べることが好き、何よりお料理が好きな角田さんの食にまつわるエッセイがスタートです。

015 山菜デビュー

 私の山菜デビューは遅い。なんたって去年だもの。去年といえば、四十一歳。四十一歳にして山菜に目覚めた。

 それまで、山菜は私にとって野草であった。食べる人もいるんだろうが、基本、道っぱたに生えているだろうもの。それくらい身近だったというのではない。山菜が生えているのを近くで見るほど、ゆたかな自然のなかで育っていない。どこか遠くの道っぱたに生えていて、それを食べる人もいるのだろう、タデ食う虫もなんとやら、と思っていた。いつものことながら、まったく不遜なこの意見、申し訳ありません。

 今まで見向きもしなかった山菜に、なぜ急に目覚めたか。それは日々の買いものを、スーパーから個人商店に切り替えたことがいちばん大きな理由である。

 昨年、いちばん近くにあるスーパーマーケットで、エコ運動がはじまり、毎回毎回レジ係の人が、「袋はご利用ですか」と訊くようになった。こっちが手ぶらで、見るからに必要とわかっても、訊く。この人たち(というか、店の責任者)が言いたいのは、「自分で袋を持ってこい」ということだ。なのに、違うことを発語する。

 意味の異なる言葉を口にされる、ということと、毎回毎回「袋ください」と答える、この二つの軽い不快にどうしようもない無力感を覚え、このスーパーマーケットには金輪際いかん、と決めた。

 いかなくても不便はない、というか、格段に便利。意味の通じる言葉のなかで暮らすことができる。八百屋、肉屋、漬け物屋と個人商店をまわっていると、「袋ひとつにまとめようか」「そこに入れてもらってもいい?」と、袋関係だけでも、言葉に言葉通りの意味があることに安堵する。専門店のほうがだんぜん新鮮でおいしいということもわかった。餅は餅屋、はいつの時代も通用するのだ。

 私のよくいく八百屋さんでは、働く人たち全員、いついっても明るくて活気がある。野菜を選ぶ客のひとりひとりに「今日はブロッコリーがおいしいよ」「今日はキャベツが百五十円!買わないと損だよ〜」などと、話しかけてくれる。「これ、どうやって食べたらいちばんおいしいの」などと、質問している主婦もいる。「それは油と相性がいいから、豚と味噌味で炒めるとか、海老と塩で炒めるとか」と、かなり具体的な答えが返ってくるのもありがたい。

 最初に勧められた山菜は、うど。山菜はぜんぶがぜんぶ、面倒な下処理が必要だと思っていたのだが、お店の人の「皮剥いて塩でもんで茹でて冷水にとればそれでいいの〜」という説明を聞くとやけにかんたんそうで、買ってみた。薄味の出汁で煮て、その香りのよさと食感、ほんのりした苦みに、山菜の価値を生まれてはじめて理解したのである。

 それからはもう春のあいだ、山菜尽くし。たらの芽もふきのとうも、蕗もうども食べた食べた。

 そういえばおばあちゃんのきゃらぶきって真っ黒でしっょぱくておいしかったナーと思いながら、真っ黒いきゃらぶきを作ったり、ふきのとうを煮るときに塩を入れ忘れたせいで、やけに茶色いふきみそを作ってみたり、いきなりの山菜満喫生活。

 でも油党の私がもっとも好きなのは、やっぱり山菜の天麩羅である。山菜の天麩羅を食べたら、茄子とか、紫蘇とか、ごぼう人参ペアとか、もうなんか、「いやー、お子さま!」という感じになる。私、もう天麩羅っていったら山菜しか揚げないもん。だから春しか天麩羅しないもん。と、デビューが遅いと何ごとにつけ、人はつけあがりますね。

 私が昨年、もっとも感動したのは、コシアブラという山菜。これも件の八百屋さんで教えてもらった。「下処理なし、ごま油で炒めて、お醤油と、すでに飲んでるお酒をちょびっとまわしかけて炒めて、七味ふってもうできあがり」とのこと。この八百屋さんのおねえさん、私が飲酒しながら料理することをちゃんとご存じなのだ。

 おねえさんの言うとおり作ったら、これがまあ、おいしいこと。苦みがあって、でも三つ葉みたいなさわやかさもあり、不思議なまろやかさとこくがある。山菜にこくがあるなんて! 何より調理がかんたん。

 しばらく外食が続き、今日はうちごはんという日、私は八百屋さんに赴き、おねえさんをつかまえ、「こないだの、こないだのコシアブラってなんですかっ」と勢いこんで訊いた。

「この時期にしか出ない山菜で、コシアブラの実は熊の大好物だから、熊と競争して採るの」との答え。

「今日はありますか? こないだの、すっごくおいしかった」

「あれねえ、もう時期が終わっちゃったの、ごめんねえ」

 どうやらコシアブラの出まわる時期は、ほんの一瞬のようである。来年を待とう、と強く決意した。

 デビュー一年目の今年、春が待ち遠しかった。二月も終わりころから山菜は店頭に並ぶが、値段が高いうちは私はまだ買わない。ケチっているのではなくて、まだ旬ではないという証拠だもの。値段が下がったとき、待ってましたとばかりに買い、今年も、うどの白煮やらふきと厚揚げの煮物やらせっせと作り、目をらんらんと輝かせて天麩羅を揚げまくった。そして今、コシアブラが入ったか巡回パトロール中。

 デビューは遅めだが、でも、デビューできてよかった。何ごとも遅いということはない、なんてだれかの言葉を噛みしめる春である

年に一度のアスパラ祭り

 五月になるとそわそわする。もうすぐか、まだまだか、とそわそわする。

 アスパラガスの、取り寄せ時期である。

 北海道から取り寄せるわけだが、アスパラが登場して消えるまで、驚くほど速いのだ。八百屋さんの店頭にはアスパラガスは一年じゅうあるけれど、本当の旬ってこんなに短いんだなあと、いつも感慨深く思う。が、感慨に耽っている暇はない、本当にさっと申し込まないと、取り扱い終了になってしまうのである。

 アスパラガスの取り寄せが可能な時期は、だいたい四月の半ば過ぎから六月あたままで。この一カ月とちょっとのあいだに、何度取り寄せができるかが私にとって勝負どころなのである。生鮮食品だから、いっぺんにたくさん買うわけにはいかない。最小単位の五百グラムを買っては食べ、なくなればまた買う。三回くらい取り寄せられれば「ああ、いい春であった」と満足する。

 北海道産アスパラガスの威力を思い知ったのは、十年ほど前。北海道出身の友人が、母親から送られてきたというアスパラガスをお裾分けしてくれたのだ。食べてみて、まったくなんの誇張もなく、奇声を発しそうになるほど驚いた。んもう、ぜんっぜん違う。私の知っているアスパラガスとはぜんっぜん違う。やわらかさが違う。ぽくぽく感が違う。においが違う、風味が違う、歯ごたえが違う、甘みと余韻が違う。なんですかこれ。

 今まで私はアスパラガスそのものというより、料理されたものが好きだった。ベーコンといっしょにバターで炒めたものとか。ホワイトソースのたっぷりかかったグラタンとか。粉チーズと温泉卵ののったサラダとか。豚肉をぐるぐる巻きにして、グリルしたものとか。串揚げ屋で食べる、一本まるごとのアスパラもおいしいですね。

 でも、北海道のアスパラは、おいしすぎて料理したくならない。バターやホワイトソースなどと味をからめてしまうのが、もったいないほどなのだ。

 北海道産アスパラのもっともおいしい食べ方は、ただ茹でる。これだけ。ただ茹でる!あとは塩でもマヨでも好きなものをつければよろしいし、なんにもつけなくたっておいしい。

 注意すべきは茹で時間。北海道産アスパラはたいへんにやわらかいので、通常食べているアスパラより、かなり短めの茹で時間で引き揚げないと、せっかくのぽくぽく感が台無しになってしまう。一度、いつもの感覚で茹でて、ふにゃふにゃアスパラにしてしまったことがある。食べられないこともないが、激しく後悔した。以来、取り寄せアスパラを茹でるとき私は神経をとがらせ、ガス台にへばりついている。結論として、一分強くらいの茹で時間がちょうどいい。ザ・がさつ女代表の私は、パスタを茹でるときも肉を煮るときも時間など計った試しがないのだが、アスパラは目をぎらぎらさせて計る。

 昨今私が凝っているのは、ただ茹でると同様、ただ焼く、という調理法。よくいく居酒屋で出てきた「アスパラ焼き」を真似したのである。居酒屋では、アスパラに刷毛で油をぬり、炭火でじっくり焼いていたけれど、私は魚焼き用グリルにただ並べて、焼く。油は塗らない。カロリーを慮って、等の理由ではなく、単に刷毛がないから省略しているだけ。

 けっこうすぐに焦げ目がついてしまうので、注意して見て、うっすら焦げたらくるくるまわす。ひととおり焼けたら取りだして、熱いうちに塩で食べる。ただ茹でとおんなじように、ビバアスパラと叫びたくなる。

 取り寄せたものではない、つまりふつうに八百屋さんで買い求めるアスパラは、ときとしてギャンブル性がある。筋張っていたり、硬かったりするわけだが、悔しいことに、これが実際に食べてみるまでわからない。私はとくに筋張ったアスパラを、もう地獄の沙汰ほど憎んでいて、たまたま買ったアスパラが筋すじだったりすると、「キー」と地団駄踏みたくなる。

 でも北海道からやってくるアスパラにはそれがない。みんなちゃーんと安定しておいしい。ローリスクハイリターン。

 ところで、アスパラガスをたくさん食べると、おしっこがアスパラくさくなるのを知っていますか? ならない人もいるらしいが、私はなります。

 アスパラに含まれるアスパラギン酸には新陳代謝を促す効果があるらしく、それに利尿作用も含まれるため、アスパラ臭がするらしい。このアスパラギン酸には疲労回復の効用もあるそうで、私はアスパラを食べたのちにおしっこがちゃんとアスパラくさくなると、「よし」と思う。「よし、きいてるきいてる」と思うのである。

 六月も中ほどになると、アスパラの取り寄せ時期も終わり、私の大量摂取も終わる。八百屋さんで売っている、四、五本が束になったアスパラを調理する日々に戻る。グラタンや炒め物やサラダや。おしっこがアスパラくさくなることもなくなる。そうしてまたじっと、来年のアスパラ祭りを待つのである。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。