アスペクト

今日もごちそうさまでした

角田光代
お肉は好きですか? お魚は好きですか? ピーマンは? にんじんは? 美味しいものが好き、食べることが好き、何よりお料理が好きな角田さんの食にまつわるエッセイがスタートです。

017 さといもミステリー

 里芋は、長らく私の人生に登場しなかった。果たして食べていたのかいなかったのか、覚えていないというより、知らない。異様に好き嫌いの多かった私だが、里芋を嫌いに分類していたのかいなかったのかすら、覚えていない。いや、知らない。

 はじめて「あ、里芋だ」と認識したのは三十代の後半。飲み屋で出たきぬかつぎを食べ、そのもっちりした触感と味にちょっと感動したのだ。でもそのとき、「きぬかつぎ」というのがその食べものの名前だと思い、「形状は里芋に似ているが、違うものなんだな」と思ったくらいだから、いったいどこまで私に無視されるのか、里芋。

 はじめて里芋料理をしたのも、ほんの数年前。テレビの料理番組で、和風カレーの作り方をやっていて、おいしそうだから真似して作った。この和風カレーの具材が、豚バラ、玉葱、大根、ゴボウ、人参、里芋、だった。スーパーマーケットで、買いものかごを手に、「里芋、里芋」とつぶやきつつ、ビニール袋に入った里芋をしげしげと眺め、私はそれを棚に戻して冷凍食品のコーナーにいった。こんな土がいっぱいついた、皮のかたそうなものと格闘したくない、と思ったのである。

 冷凍食品のコーナーには里芋もちゃんとある。冷凍里芋は、あの土だらけのごつごつした皮がちゃんと剥かれ、しかもかたちまできれいなまん丸にまとめられている。至極便利。

 和風カレーの里芋は思いの外おいしくて、突如として私の人生にかかわってきたこの里芋を、以来頻繁に使うようになった。けんちん汁や煮物や。

 あるとき、おそるおそる皮付き里芋を買って調理した。そして著しく後悔した。何を後悔したかって、冷凍里芋なんて姑息なものを使っていたことを、である。

 考えてみれば当たり前の話だが、皮付き里芋と冷凍里芋は、もうぜんぜん違う。風味も食感もねっとり感も。その違いは、偽カニかまとたらばの脚くらい、なのだ。

 皮付き里芋はいろいろと面倒くさい。洗って土をこそげ落とし、へんなひげがぼうぼう生えた皮を剥き、塩でもんで、煮て湯こぼしして、そこまでしてやってようやく調理。これが秋刀魚だったらもう焼けてますよ。

  でも。でもそれでも。皮付き里芋の風味と食感とねっとり感を、私は選ぶ。

  里芋って、和食にしか合わないと思っていたのだが、意外に洋食にも合う。鶏や豚とともにシチュウにすると、あの面倒な下処理の必要もない。里芋のねばりがシチュウのとろみになるので、バターも小麦粉も少なくてすむ。

 もっともかんたんなのは、里芋をブイヨン・牛乳・生クリームで煮て、とろとろになったものにチーズをかけて焼くグラタン。具が里芋だけなのに、じゅうぶんおいしい。

 先だっていった居酒屋で、「里芋の唐揚げ」という料理があり、注文した。美しい六角形の揚げ里芋が運ばれてきて、ただ素揚げしてあるんだろうと思って口に入れ、「ぐわあ」とちいさく叫び声が出た。いっしょにいた友人も、一口食べて「うはあ」と声をあげる。異様なおいしさだったのである。表面はぱりっとしているのに、なかがふわとろーんとして、しかも、出汁の味がしっかりきいている。

「何これ何これ何これ」「何これ何これ」「ねー、何これ何」「ほんと、何これ何なの」

 と、阿呆のように友人と顔を見合わせて言い合い、帰り際、見送りに出てくれたお店の人に作り方を訊いてみた。出汁でじっくり煮てから揚げるのだという。それだけ聞けばかんたんそうだが、実際作るとなるとさぞや面倒だろうことが予想される。よし作ろうと、そのときは思ったが、結局まだ作っていない。

 皮付き里芋を購入するようになってしばらくのあいだ、里芋の形状について考えていた。こんなにごつごつしていなかったり、へんなひげみたいのをこんなにぼうぼう生やしていなかったり、下処理が不必要であれば、里芋ってもっと重宝されたのではないかなあ。なんたって、芋のなかではもっとも低カロリー。しかも栄養価が高い。コロッケだって里芋のほうがまるめるときにまとまりやすい。どうしてもっとなめらかな、剥きやすい形状で生まれてこなかったのか……。

 しかし里芋を使用する頻度が高くなると、皮を剥くのにも慣れ、ごつごつひげぼうぼうもさほど気にならなくなる。さらに面倒くさがりの私は、塩もみ・茹でこぼしなども省略。それでも案外だいじょうぶなものである。

 三十数年間、なぜ私は里芋を認識しなかったのだろう、という謎だけが残る。

018 ゴーヤの部

 私は昭和四十二年生まれである。

 わざわざ生まれ年を明記するのは、その時代を思い浮かべていただきたいからである。高度成長期と括られるこの時代、世のなかはゆたかになりつつあったが、でも、あくまでも途上であった。私がものごころつくころには、すでに家には洗濯機もテレビも電話もあったが、でも、今ふつうにあるものの多くはなかった。ビデオも電動歯ブラシもデジタル時計もパソコンもなかった。スパゲッティはあったけれどペンネはなかったし、マンゴーや香菜なんてものもなかった。それからゴーヤもなかった。

 パソコンや携帯電話の登場と、見慣れない食材の登場は、まったく関係がないのだろうが、私のなかでほぼ同時期という印象がある。バブル経済期のど真ん中あたりで登場し、その終焉近くに私のような庶民の一般生活にゆっくり入りこんできた、そんな印象である。

 私がゴーヤをはじめて食べたのは九〇年代半ばだった。たぶん市場にはもっと早く登場していたと思うのだが、食べず嫌い・偏食の私は手を出さなかったし目も向けなかったのだと思う。

 知人に連れていってもらった沖縄料理店で、ゴーヤチャンプルを食べたのが最初。ただでさえ野菜嫌いだった私はこのはじめて見る奇妙な野菜を「うまいっ」と思うはずがなく、へえ、という程度だったのだが、この店のチャンプルはたいへんにおいしかった。

 それから自分でもゴーヤを買って調理するようになったが、やっぱり、おいしいから買うというよりは「チャンプルにはゴーヤが入っているもの」という固定観念のゆえに買っていた。そして買うたび、「私が子どものころにはこんな野菜はなかったネー」と、自分の年輪をしみじみ実感するのである。「世のなかゆたかになったネー」と。

 沖縄料理店がごくふつうにあちこちにできて、ごくふつうに訪れて食事をするようになって、そうして気づいたことがある。おいしいゴーヤチャンプルとそうでないものがある。

 考えてみればこれは当然のことである。おいしいラーメン屋とそうでない店がある。おいしいイタリア料理店とそうでないところがある。すべての料理にアタリとハズレと微妙がある。微妙というのはソコソコで、このソコソコが世のなかにはいちばん多い。そしてゴーヤチャンプルも、ソコソコがいちばん多い。

 水っぽいとか、ゴーヤがくたくたとか、逆に硬すぎとか、味が薄いとか濃いとか、でも食べられないこともないから食べて、なんか口惜しい気持ちになる。そう、ソコソコのものは人を口惜しい気持ちにさせる。口が惜しい。まさに。

 ゴーヤは塩をふって数分おいて水気を絞ると苦みが抜けると、はじめて買ったときからなぜか私は知っていたが、これも苦みを抜きすぎるとゴーヤでもキュウリでもいいべさ、ってことになるし、つよーく絞りすぎると食感が消えてしまう。なかなかむずかしい。『おいしい野菜の見分け方』(バジリコ出版)を見ていたら、ゴーヤは、白く透明な膜がかかったようなものがおいしいらしい。これ以上熟してしまうと、苦みが強くなるとのこと。たしかにありますね、白っぽいゴーヤ。

 最近では私の味覚もだいぶ大人になり、ゴーヤをおいしいと思うようにはなったが、しかしこういう、幼少時に食べていないものはなかなか「あー食べたい」という気にならない。そもそも脳内味覚に「ゴーヤの部」がまだできあがっていないのである。八百屋の店頭でゴーヤを見、「あ、そっか、夏か、ゴーヤだな」と意識して買う。

 天ぷらとかお浸しとか、肉詰めとかいろいろ調理法はあるが、でも、やっぱり「ゴーヤの部」ができあがっていない私が思いつくのはいつもチャンプル。最初に食べておいしいと思ったものが、すりこまれているらしい。

ゴーヤチャンプルを作る際、私はいつも最後に鰹節をざあっとふりかける。最初に食べておいしいと思った店がそうしていたのである。これだけでずいぶんとおいしくなると私は思う。

 ゴーヤを子どものころから食べつけていると、きっと、夏が近づくにつれて「あーゴーヤ食べたい」と思うのだろうな。今の子どもたちは東京都内に住んでいたってゴーヤもパパイヤも青カビチーズもホルモンもポルチーニも食べられる。そういうものを食べて育つと、大人になっていろんなものに郷愁を感じなくてはならないのだろうか。昭和四十年代生まれの私にはちょっと想像つかない。

 あ、でも、書いていて思い出した、友人の子ども(四歳)の好物は、魚の干物、漬け物、野菜の煮物、であった。四十年代の子どもの好物、スパゲッティやグラタンや海老フライは手をつけないほど、苦手らしい。食材界のグローバル化が進むと、人はドメスティックに回帰するのだろうか。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。