さほどおいしくはないがまずくもない料理を出す居酒屋で、でも値段が安価で内装がこじゃれているからソコソコ混んでいて、おしながきが筆の手書き風、っていうような店には必ずメニュウにうんちく付きの「ざる豆腐」や「よせ豆腐」があって、なんとなくそれを頼むと何種類もの塩が出てきたり、する。
塩がかように脚光を浴びるようになったのは、いつごろからだろうか。やっぱり平成に入ってからだろうか。一昔まえ、つまりそれは昭和のことになるのだが、塩といえばあじしおだった。
それが昨今、沖縄の、瀬戸の、伯方の、北海道の、静岡の、と、日本各地のみならず、フランスの、モンゴルの、ベトナムの、チベットの、シベリアの、と、世界各国の塩が登場。海水塩、湖塩、岩塩と種類も豊富。塩の種類が増えるに従って、塩で食す、という新たな味覚革命も起きた。
すなわち、カルビ・ハラミを塩(昔はたれでした)。天ぷらを塩(昔は天つゆでした)。豆腐を塩(昔は醤油でした)。焼きそばを塩(昔はソースでした)。ちゃんこを塩(昔は味噌か醤油でした)。塩ってうまい。塩で食べるほうがうまい。と、この十数年でみんな塩に開眼。あじしおしかなかったら、こんなに塩は浸透しなかったろう。
数年前、私は調味料に詳しくなろうと思い立ったことがあった。醤油にしたって味噌にしたって、味醂にしたって塩にしたって、あまりにも種類がありすぎる。すべてというのは無理だが、幾種類かは試してみて、それで自分の味覚に合うもの、よく作る料理に合うものをさがしてそれをマイ調味料として定着させよう、と思ったのである。
いくつかは定着した。味醂とか酢は「これを買う」というのが決まった。
が、いくつかは種類がありすぎて定着が甚だむずかしい。味噌とか、塩とか。
そう、塩とか。
塩界は異常である。たくさんある、ということは知っていたが、たくさんありすぎる。沖縄の塩といったって、宮古から石垣から久米島からあるわあるわ。しかも塩って料理に使ってもなお強く残る違いはないし、一袋買ってもそんなにすぐには使い切れない。何種類も買ってソムリエよろしく味見でもしないことには、それぞれの個性の違いがはっきりとはわからない。
チーズと同じく、もう塩、あきらめた。もーうあきらめた。なんだっていいや。もう選ばないし覚えない。と、ほとんどすねはじめていたのだが、去年私は出会ったのである。これぞと思える塩に。
去年、仕事の取材で熊本は天草にあるソルトファームを訪れた。そもそもなぜその取材日程にソルトファームが入っていたのか謎だったのだが、とにもかくにも訪れ、塩作りなどを見学させてもらい、夏場の塩作りの過酷さに恐れ入っていたのだが、さてここで作っている塩を食べる段になって、驚いた。塩の味が複雑なのである。
最初に口に含んだときと、噛んだとき、舌の上で溶けるとき、飲みこんだあと、ぜんぶ違う。しょっぱいだけではない。
ここの塩は、最初に釜炊きで煮詰めてから天日干しするものと、最初から天日干しで作るものと二種類あり、結晶の大きさが違うのだが、この二種類も食べ比べると味が違うことがわかる。ちょっと感動である。
このソルトファームでは、「ナイス塩ット」というベタベタにチャーミングなネーミングの携帯塩も売っていて、おみやげにもらったのだが、この塩がじつはその後の取材旅行で大活躍。
その日の夜、私たちは焼き肉屋にいったのだが、町に一軒だけあるこの焼き肉屋のロースが、肉好き女(私)を感涙させるほどのすばらしさであった。カルビもハラミも凡庸なのに、ロースだけずば抜けてすごい。しかし、なんとも惜しいことに、このロースをつけるためのタレが、どう味わっても市販の焼き肉のタレなのである。あの、薄甘い、べたついたタレ。「どうしてここで市販のタレを使うかなあ!」と、その場にいた一同、頭を抱えたのだが、そこではたと思い出したのが「ナイス塩ット」。私たちは目配せをしあい、いただいた携帯塩をふりかけて夢のようなロースを食べ、静かに悶絶したのであった。
その後もこの塩は大活躍。九州といえば、場所にもよるがうっすら甘いたまり醤油が一般的らしい。翌日いった居酒屋でも、刺身のための醤油が甘いし、焼きおにぎりがうっすら甘い。慣れればこれ以外に考えられないのだろうが、それが人生二度目の九州訪問だった私には、やっぱり甘い醤油は食べつけず、こっそり携帯塩を出しては焼き魚にふり、刺身にふり、焼きおにぎりにふり、「うーん、うまい」と言うことができた。
塩選びにほとほと迷っていた私は、もう決めたのである。この天草の塩を我が家の常備塩に使う。もっとおいしい塩も、料理ごとに合う塩もたくさんあるのだろうけれど、もう浮気しない。最初の感動を尊重し、今後この塩でいきます。と、そう決めたら、気持ちがすーっと楽になった。たくさんあるのもしんどいのである。
もちろん「ナイス塩ット」も鞄に常備しています。私と食事にいった際、「これはおいしい塩で食べたい」と思ったらば、「塩貸して」と、どうぞ言ってくださいましね。すぐ出すから。 |