アスペクト

今日もごちそうさまでした

角田光代
お肉は好きですか? お魚は好きですか? ピーマンは? にんじんは? 美味しいものが好き、食べることが好き、何よりお料理が好きな角田さんの食にまつわるエッセイがスタートです。

019 本命塩

 さほどおいしくはないがまずくもない料理を出す居酒屋で、でも値段が安価で内装がこじゃれているからソコソコ混んでいて、おしながきが筆の手書き風、っていうような店には必ずメニュウにうんちく付きの「ざる豆腐」や「よせ豆腐」があって、なんとなくそれを頼むと何種類もの塩が出てきたり、する。

 塩がかように脚光を浴びるようになったのは、いつごろからだろうか。やっぱり平成に入ってからだろうか。一昔まえ、つまりそれは昭和のことになるのだが、塩といえばあじしおだった。

 それが昨今、沖縄の、瀬戸の、伯方の、北海道の、静岡の、と、日本各地のみならず、フランスの、モンゴルの、ベトナムの、チベットの、シベリアの、と、世界各国の塩が登場。海水塩、湖塩、岩塩と種類も豊富。塩の種類が増えるに従って、塩で食す、という新たな味覚革命も起きた。

 すなわち、カルビ・ハラミを塩(昔はたれでした)。天ぷらを塩(昔は天つゆでした)。豆腐を塩(昔は醤油でした)。焼きそばを塩(昔はソースでした)。ちゃんこを塩(昔は味噌か醤油でした)。塩ってうまい。塩で食べるほうがうまい。と、この十数年でみんな塩に開眼。あじしおしかなかったら、こんなに塩は浸透しなかったろう。

 数年前、私は調味料に詳しくなろうと思い立ったことがあった。醤油にしたって味噌にしたって、味醂にしたって塩にしたって、あまりにも種類がありすぎる。すべてというのは無理だが、幾種類かは試してみて、それで自分の味覚に合うもの、よく作る料理に合うものをさがしてそれをマイ調味料として定着させよう、と思ったのである。

 いくつかは定着した。味醂とか酢は「これを買う」というのが決まった。

 が、いくつかは種類がありすぎて定着が甚だむずかしい。味噌とか、塩とか。

 そう、塩とか。

 塩界は異常である。たくさんある、ということは知っていたが、たくさんありすぎる。沖縄の塩といったって、宮古から石垣から久米島からあるわあるわ。しかも塩って料理に使ってもなお強く残る違いはないし、一袋買ってもそんなにすぐには使い切れない。何種類も買ってソムリエよろしく味見でもしないことには、それぞれの個性の違いがはっきりとはわからない。

 チーズと同じく、もう塩、あきらめた。もーうあきらめた。なんだっていいや。もう選ばないし覚えない。と、ほとんどすねはじめていたのだが、去年私は出会ったのである。これぞと思える塩に。

 去年、仕事の取材で熊本は天草にあるソルトファームを訪れた。そもそもなぜその取材日程にソルトファームが入っていたのか謎だったのだが、とにもかくにも訪れ、塩作りなどを見学させてもらい、夏場の塩作りの過酷さに恐れ入っていたのだが、さてここで作っている塩を食べる段になって、驚いた。塩の味が複雑なのである。

 最初に口に含んだときと、噛んだとき、舌の上で溶けるとき、飲みこんだあと、ぜんぶ違う。しょっぱいだけではない。

 ここの塩は、最初に釜炊きで煮詰めてから天日干しするものと、最初から天日干しで作るものと二種類あり、結晶の大きさが違うのだが、この二種類も食べ比べると味が違うことがわかる。ちょっと感動である。

 このソルトファームでは、「ナイス塩ット」というベタベタにチャーミングなネーミングの携帯塩も売っていて、おみやげにもらったのだが、この塩がじつはその後の取材旅行で大活躍。

 その日の夜、私たちは焼き肉屋にいったのだが、町に一軒だけあるこの焼き肉屋のロースが、肉好き女(私)を感涙させるほどのすばらしさであった。カルビもハラミも凡庸なのに、ロースだけずば抜けてすごい。しかし、なんとも惜しいことに、このロースをつけるためのタレが、どう味わっても市販の焼き肉のタレなのである。あの、薄甘い、べたついたタレ。「どうしてここで市販のタレを使うかなあ!」と、その場にいた一同、頭を抱えたのだが、そこではたと思い出したのが「ナイス塩ット」。私たちは目配せをしあい、いただいた携帯塩をふりかけて夢のようなロースを食べ、静かに悶絶したのであった。

 その後もこの塩は大活躍。九州といえば、場所にもよるがうっすら甘いたまり醤油が一般的らしい。翌日いった居酒屋でも、刺身のための醤油が甘いし、焼きおにぎりがうっすら甘い。慣れればこれ以外に考えられないのだろうが、それが人生二度目の九州訪問だった私には、やっぱり甘い醤油は食べつけず、こっそり携帯塩を出しては焼き魚にふり、刺身にふり、焼きおにぎりにふり、「うーん、うまい」と言うことができた。

 塩選びにほとほと迷っていた私は、もう決めたのである。この天草の塩を我が家の常備塩に使う。もっとおいしい塩も、料理ごとに合う塩もたくさんあるのだろうけれど、もう浮気しない。最初の感動を尊重し、今後この塩でいきます。と、そう決めたら、気持ちがすーっと楽になった。たくさんあるのもしんどいのである。

 もちろん「ナイス塩ット」も鞄に常備しています。私と食事にいった際、「これはおいしい塩で食べたい」と思ったらば、「塩貸して」と、どうぞ言ってくださいましね。すぐ出すから。

020 もろこし衝動

 改良が進んで野菜の味が変わったと、よく聞く。私は野菜嫌いの子どもだったので、たしかにその「嫌い」だった部分が薄まっているなあ、と思う。たとえば人参はもっと土くさかったしクセがあった。キュウリはもっと青い味がしたし、トマトはもっと酸っぱかった。全体的に甘く、クセがなくなり、そのぶん薄味になった。私はそのクセと味の独自な濃さが嫌いだったわけだから、野菜の味の変化を嘆くことも、昔の味を懐かしむことも、あんまりない。

 けれどひとつだけ、「これはちょっと、変えすぎだろう!」とさすがの私も大声で言いたいものがある。

 それはね、とうもろこし。

 滅多に食べるものではない。子どものころは夏場のおやつとしてよく登場したが、大人になって、さらにひとり暮らしなんてはじめると、購入自体、そうそうしない。歯で実を削り取って食べる、という食べかたを、多くの成人女性は敬遠するのではなかろうか。歯に挟まるし、実を囓ったあとの芯には、何かかなしい風情がある。そもそも、何かの料理にどうしても必要というわけではないし、どうしても必要な場合は冷凍コーンのほうが使い勝手がいい。

 が、それでも、唐突に食べたくなることがある。冷凍の、最初から実だけばらばらになった便利なコーンではなくて、まるごとのとうもろこしにかぶりつきたい。夏になったことを体ぜんぶで実感すると、よく私はそんなもろこし衝動にかられる。

 四、五年前だったか、やっぱりそんな衝動に駆られて、スーパーマーケットでとうもろこしを買って食べたのだが、一口食べて「おい!」と思わず言いたくなった。「おい、変えすぎだろう、味!」と。

 何この甘さ。人工物というか加工品というか、ともかく何か人の手の入った甘さ。まるでお菓子。愕然とした。

 ねえキミ、キミは昔はこんなじゃなかったよね。こんなにべたべたしい甘さはなかったよね。いったいどうしてこんなことになってしまったの。と、つややかに並ぶ黄色い粒々に語りかけたい気持ち。そのくらい、甘かったのである。

 一昔前より人は甘いもの好きになった。林檎も人参もあまくなったし、梅干しだって市販品はほとんどが甘い。テレビを見ていると、タレントやアナウンサーは肉を食べても甘い、米を食べても甘い、海老を食べても甘いと表現し、それはイコールおいしいという意味である。戦時中は甘いもの不足で、お汁粉やおはぎなんて夢のおやつだったことを考えれば、もしかして甘いという味覚は、日本人が思いこまされているゆたかさでもあるのかもしれず、なんでもかんでも甘くなったのはそれだけゆたかさを追求したからなのか? とまで私は考える。

 でもね、とうもろこしは甘すぎます。こんなに甘くしてどうする、と、私は怒りすら覚えます。

 あんまりにも堂々と甘いので、ふと不安を覚えた。もしかして昔からとうもろこしはこんなに甘かったのかもしれない。私が忘れているだけかもしれない。

 それを実証するために、翌日、自然食品の店でへんに細工されていなさそうなとうもろこしを買って、食べた。やっぱりあんなには甘くなくてほっとした。以来、とうもろこし衝動に突き動かされたときは自然食品の店にいくようにしている。なおかつ宣伝文句に「甘さ」が強調されているときは買わないようにしている。ときどき、「昔のトマトの味がする」とか「そうそう、人参ってこんな味だったのよ!」などと、嬉々として言う人がいるが、そういう人の気持ちがようやくわかった次第である。

 とうもろこし、昔は茹でていたんだけれど、蒸したほうがだんぜんうまいと気づいてからは、蒸す。手間はそんなに変わらない。蒸して塩をふればいいだけだから、まったくかんたん。

 でも、やっぱり、とうもろこしって子どもの食べもの、という感が拭えない。思うに、あのあざやかな黄色が子どもっぽいんだろうな。あと、食べかた。豪快にグワシとかぶりつく姿は、子どもだからこそ似合う。

 夏の縁日には焼きもろこしの屋台が決まって登場し、その香ばしいにおいで道ゆく人を魅了しているけれど、私はあれを食べたことがない。たこ焼きもお好み焼きも綿菓子もかき氷も焼き鳥も食べるが、焼きもろこしは「うーん、いいにおい」と思うだけで、食指が動かない。見るからにザ・面倒、だからだ。醤油で手も口もべたべたになり、しかもかすが歯に挟まり、歩きながら食べるには厄介、見ている側にしたら滑稽、芯も捨てなきゃならない、と、クリア事項が多すぎる。でも子どもは食べる。クリア事項も面倒も、子どもの辞書にはない。うおー、いいにおい、と思ったら親に買ってもらって手をベタベタにして食べるのである。そして翌朝、排泄物にあざやかな黄色が混じっていたことを親や友人に嬉々として報告するのである。正しい子ども、正しい夏。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。