アスペクト

今日もごちそうさまでした

角田光代
お肉は好きですか? お魚は好きですか? ピーマンは? にんじんは? 美味しいものが好き、食べることが好き、何よりお料理が好きな角田さんの食にまつわるエッセイがスタートです。

021 かくれ王、素麺

 素麺を嫌いな人って、きっといないと思う。いないどころか、夏になるとだれもが一度は熱烈な気分で「ああ〜、そうめん〜〜〜」と、悶絶するように思うはずだ。

 あんなにパンチがなくって、よわよわしくって、主張もなさそうで、もの静かで、アクもクセもない素麺だが、夏場の存在感はすごい。

 だれしも子どものころから夏場には素麺を食べてきた。その思い出も似たり寄ったり。白い筋のなかにピンクとか黄色があってそれがほしかったエピソードは、百人いれば九十八人が語るのではないか。

 以前、餅のときにも書いたことだが、世のなかにはまずい素麺とおいしい素麺がある。そうしておいしい素麺ときたら、ちょっとびっくりするくらいおいしいのだ。揖保の糸、三輪素麺、なんてブランド品は、ふつうにおいしい。ハズレがない。

 が、世のなかにはもっとすごいことになっている素麺もある。

 『八日目の蝉』という小説の取材で小豆島にいったとき、島じゅうのあちこちに素麺の専門店があった。「島の光」という、小豆島名物の素麺があるのだ。季節が季節ならば、あちこちの軒先でカーテンのように干された素麺が見られるらしい。

 到着した日のお昼に素麺を食べたのだが、おいしくてびっくりした。何か不思議なこくがある。ふつうの素麺のパンチがゼロだとしたら、二十くらいのパンチ力がある。

 奈良にいったとき、「ここの素麺はおいしい」と同行した編集者が教えてくれ、さらにおみやげ用を買ってもくれたのだが、これもまた、「ひえー」というおいしさであった。

 このページの担当者、おいしいものに目がないTさんが送ってくれた富山の「大門素麺」もパンチがあってすばらしい。

 日本各地にすごい素麺がひそんでいるのである。

 しかし素麺は、薬味もほかのおかずもなく、素麺だけ食卓に出すと、なんともいえないものがなしさが漂う。白い麺だけ、というかなしさ。だから私たちはせっせと食卓をにぎやかにしようとする。

 まず薬味。葱や茗荷や生姜や大葉や薄焼き卵を刻んで出すと、ちょっと華やかになる。

 でもそれだけじゃまだもの足りない。何かおかずがほしい。ここでいつも、私は熟考する。なぜ熟考かというと、素麺ってあんなにアクもクセもないくせに、ぴたりとはまるナイスペアおかずがあんまりないのだ。素麺+コロッケとか、素麺+お刺身とか、なんか違う感がいなめない。素麺+とうもろこし、ってなんだか記憶にあるし、いい具合の組み合わせのようにも思うが、季節のものをただ並べただけという気もする。

 素麺はさっぱりしているから、天ぷらなんかいいのではないかとも思うが、蕎麦+天ぷらの最強ペアには到底かなわない。鰻なんかどうだろう、と思っても、鰻ならやっぱり酒かごはんがほしくなる。

 無理矢理合わせて合わないこともないのだが、うーん、何か違うんだよなあ。

 私は個人的には、茄子と挽肉のピリ辛炒めが、素麺には最高に合うと思っている。自分でもなぜそれに固執するのかわからないが、素麺といえば「茄子と挽肉のピリ辛炒めも作らねば」と強迫観念のように思い、実際用意する。それを作るのが面倒で、素麺を茹でないことまである。素麺に合うおかずを考え続けて二十年近くなるが、本当に思い当たらない。素麺アンケートをしたいくらいだ。

 ところで、素麺は冷たくひやしてつゆで食べるのがいちばんおいしいと私は思っている。にゅうめんって、それがちゃんとした料理であると知っても、なんとなく夏に処理しきれなかった残りものの「後かたづけ感」がつきまとう。ソーミンチャンプルーも沖縄及び沖縄料理店で食べればおいしいが、自分であんなにうまく作れる自信がなく、作ろうと思ったこともない。

 先だって、冷えた素麺でなく、「これはっ」という素麺の食べかたがあった。

 大阪にいったとき、ハモ鍋を食べたのだが、このハモ鍋、うっすら塩味のついただし汁と岩海苔で食べるのだ。具材はハモと豆腐のみ。うまい、うまいとむさぼり食ったのだが、最後の〆に素麺が出てきた。ハモのだしがうまく出た鍋に入れ、だし汁と岩海苔で食べる。この素麺が、まあおいしかったこと。ハモ鍋ではつはつに膨らんだ腹にもするする入るし、圧迫感がない。これはなかなかすぐれた素麺の食しかただ……と思ったのだが、そもそもハモを自宅で調理しないから、あんまり自宅応用はできないか。でも、そのほかの鍋のあとでも、意外にいけるのではないか。それともペアさがしでけっこう苦労させられるように、素麺のやつ、鍋も「これは合わない」「これはいまいち」と、選んだりするのかしら。

 素麺、なんにも主張がなさそうで、けっこう王さまキャラなのかもしれない。

022 桃と文明

 梨も好き、苺も好きだが、でもやっぱり、「いちばん好きな果物は何」と訊かれれば、

「桃」

 と私は答える。

 でもこの桃には条件がある。皮がするーっとむける桃じゃないといや。

 皮がするーっとむける桃、略して皮スルが、果物のなかでいちばん好き。

 子どものころ、デザートの桃はまるごと出された。皮をするーっとむいて、手づかみでわぐわぐと食べるのだ。汁が滴り手がべとつくが、でも、桃はそうして食べるものだと思っていた。ごくまれに皮がむけないときは、母が包丁でむいてくれたが、なんだか損した気分だった。

 果物屋や八百屋の店頭に並ぶと、「やったー、桃の季節」と思う。ひとり暮らしをはじめて以降、食卓に果物が登場する回数はめっきり減ったが、桃は買う。そして買うときに慎重にならねばならないことを、ひとり暮らし三年目くらいに学習した。

 品物を見ないで買ったり、値段をケチったりすると、皮スルに当たらないのだ。長年それを偏愛してきたからか、桃の表面に触れればそれが皮スルかどうか、私はわかる。が、桃のような商品を触るわけにはいかないので、じーっと見る。とにかくじーっと見る。

 それから、四個や五個入りで六八〇円、などという徳用値段の桃はまず皮スルではない。そもそもパックに四個、五個と入っている時点で皮スルではないと極論を言ってもいいと思う。

 皮スルではない桃だと、包丁でごりごり皮をむかねばならない。あのときのかなしさ、さみしさ、むなしさよ。もちろん皮スルでなくたって桃は桃。おいしいことにかわりはないが、でも、かたいとやっぱり「これは私の好きな桃とは違う」と、思ってしまう。

 自分がそうして育ってきたものだから、すべての人が手づかみで桃を食べていると信じていた。そうするのがいちばんただしい食べかただと思っていたのだ。レストランのデザートでメロンはよく出るが桃が出てこないのは、食べる姿があまり美しくないからだろうと思っていた。友人宅でも食後にぶどうやさくらんぼは出ても、桃はあんまり登場しない。これまた、手がべたべたして汁が滴ってたいへんだからだろうと思っていた。

 桃は切って食べる、と私に教えてくれたのは、はじめて交際した男の子だった。

 私は十九か二十歳だったと思う。彼の下宿に遊びにいったさい、この子が桃を用意してくれた。これがきれいに切って、皿に盛ってあった。私たちはそれをフォークで食べた。

 このとき私は黙って桃を食べていたが、衝撃を受けていた。

 桃って、桃って、桃ってこんなふうに上品に食べるものなのか! そして私はそれを、男の子に教わっているのか!

 家に帰って、私はこの衝撃を母親に話した。

 おかあさん、知ってる? 桃って一口サイズに切って食べるんだよ。

 母も衝撃を受けたようである。えっ、そんなの、だれに教わったの。

 男友だちだよ、と私は言った。恋人とは恥ずかしくて言えず、男友だちの家に数人で遊びにいったら桃が出てきて、それがきれいにむいてあったんだよ、と、微妙に嘘を交えて話した。

 そんなことを男の子から教わるなんて! と、母も二重にショックを受けていた。

 それから十年たっても十五年たっても、母は、「桃は切って食べるって私たちは男の子から教わったのよねエ」と言っていたくらいだから、よほどのショックだったのだろう。

 では私はそれ以降、桃を切って食べるようになったかというと、そうではないんだな。慣れとはおそろしいもので、ひとりのときは、やっぱり丸ごとかぶりつくのである。切って食べるより、そのほうがずっとおいしいように思う。まるごと一個、独り占めできるし。

 でもお客さんがきたときには切って出すようになった。ずーっと前から私はこうしていましたよ、というふりをして、デザートフォークを添えてね。そうして「あーもの足りない、あーもの足りない」と思いながら、お客さんと笑顔で切った桃を食べる。

 恋人ってほんと、文化文明をもたらす黒船だよなあと、桃を食べるたび思うのであります。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。