梨も好き、苺も好きだが、でもやっぱり、「いちばん好きな果物は何」と訊かれれば、
「桃」
と私は答える。
でもこの桃には条件がある。皮がするーっとむける桃じゃないといや。
皮がするーっとむける桃、略して皮スルが、果物のなかでいちばん好き。
子どものころ、デザートの桃はまるごと出された。皮をするーっとむいて、手づかみでわぐわぐと食べるのだ。汁が滴り手がべとつくが、でも、桃はそうして食べるものだと思っていた。ごくまれに皮がむけないときは、母が包丁でむいてくれたが、なんだか損した気分だった。
果物屋や八百屋の店頭に並ぶと、「やったー、桃の季節」と思う。ひとり暮らしをはじめて以降、食卓に果物が登場する回数はめっきり減ったが、桃は買う。そして買うときに慎重にならねばならないことを、ひとり暮らし三年目くらいに学習した。
品物を見ないで買ったり、値段をケチったりすると、皮スルに当たらないのだ。長年それを偏愛してきたからか、桃の表面に触れればそれが皮スルかどうか、私はわかる。が、桃のような商品を触るわけにはいかないので、じーっと見る。とにかくじーっと見る。
それから、四個や五個入りで六八〇円、などという徳用値段の桃はまず皮スルではない。そもそもパックに四個、五個と入っている時点で皮スルではないと極論を言ってもいいと思う。
皮スルではない桃だと、包丁でごりごり皮をむかねばならない。あのときのかなしさ、さみしさ、むなしさよ。もちろん皮スルでなくたって桃は桃。おいしいことにかわりはないが、でも、かたいとやっぱり「これは私の好きな桃とは違う」と、思ってしまう。
自分がそうして育ってきたものだから、すべての人が手づかみで桃を食べていると信じていた。そうするのがいちばんただしい食べかただと思っていたのだ。レストランのデザートでメロンはよく出るが桃が出てこないのは、食べる姿があまり美しくないからだろうと思っていた。友人宅でも食後にぶどうやさくらんぼは出ても、桃はあんまり登場しない。これまた、手がべたべたして汁が滴ってたいへんだからだろうと思っていた。
桃は切って食べる、と私に教えてくれたのは、はじめて交際した男の子だった。
私は十九か二十歳だったと思う。彼の下宿に遊びにいったさい、この子が桃を用意してくれた。これがきれいに切って、皿に盛ってあった。私たちはそれをフォークで食べた。
このとき私は黙って桃を食べていたが、衝撃を受けていた。
桃って、桃って、桃ってこんなふうに上品に食べるものなのか! そして私はそれを、男の子に教わっているのか!
家に帰って、私はこの衝撃を母親に話した。
おかあさん、知ってる? 桃って一口サイズに切って食べるんだよ。
母も衝撃を受けたようである。えっ、そんなの、だれに教わったの。
男友だちだよ、と私は言った。恋人とは恥ずかしくて言えず、男友だちの家に数人で遊びにいったら桃が出てきて、それがきれいにむいてあったんだよ、と、微妙に嘘を交えて話した。
そんなことを男の子から教わるなんて! と、母も二重にショックを受けていた。
それから十年たっても十五年たっても、母は、「桃は切って食べるって私たちは男の子から教わったのよねエ」と言っていたくらいだから、よほどのショックだったのだろう。
では私はそれ以降、桃を切って食べるようになったかというと、そうではないんだな。慣れとはおそろしいもので、ひとりのときは、やっぱり丸ごとかぶりつくのである。切って食べるより、そのほうがずっとおいしいように思う。まるごと一個、独り占めできるし。
でもお客さんがきたときには切って出すようになった。ずーっと前から私はこうしていましたよ、というふりをして、デザートフォークを添えてね。そうして「あーもの足りない、あーもの足りない」と思いながら、お客さんと笑顔で切った桃を食べる。
恋人ってほんと、文化文明をもたらす黒船だよなあと、桃を食べるたび思うのであります。
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