アスペクト

今日もごちそうさまでした

角田光代
お肉は好きですか? お魚は好きですか? ピーマンは? にんじんは? 美味しいものが好き、食べることが好き、何よりお料理が好きな角田さんの食にまつわるエッセイがスタートです。

023 たこ焼きの野望

 たこ焼きという食べものをはじめて鮮烈に意識したのは、中学一年生のときだと思う。

 それまでも、きっとどこかで食べたことはあったと思うのだが、しかしさほど意識したことはなかった。中学一年のとき、私は出会ってしまったのだ、真のたこ焼きに。

 通学路に、たこ焼き屋ができたのだ。いや、もともとあったのかもしれない。小学生の時分は気づかなかった。が、中学生になって、寄り道の魅惑も覚えたころ、ドーナツ屋でもない、甘味処でもファストフード店でもない、たこ焼き屋に私は強く心惹かれた。

 不思議な風情のたこ焼き屋だった。夜は飲み屋にかわる店だったのかもしれない。カウンター席のみの、細長い薄暗い店で、放課後、つまり午後の早い時間は、たこ焼きだけ売っている。ひとつ三十円くらいで、個数で注文する仕組みになっていた。私と友だちはカウンター席に腰掛けて、五個、とか、八個、とか注文して食べた。

 関西出身の人はたこ焼きなんて幼少時から食べ慣れたものだろうが、私にはまだまだめずらしい食べもので、さらにその店で食べるたこ焼きは世界が崩壊し、また再構築されるくらい、おいしかった。この世の食べものとは思えないほどだった。

 中学生の私は願った。一度でいい、一度でいいから、「五十個」と言って注文して、腹がはつはつになって動けなくなるほどたこ焼きを食べてみたい。

 小遣いを貯めれば「たこ焼き五十個」は可能だったはずだ。けれどそれは思春期の私の自尊心が許さなかった。十個食べるのだってためらわれたのだ。なぜなら友だちは五個、六個とおやつにふさわしく少量しか食べないのだ。私だけ、十個、二十個と注文するのはいかがなものかと、若い自意識が邪魔したのだね。

 この店、あっという間につぶれてしまったのだろう、通い詰めた記憶がない。買い食いの選択肢からたこ焼きは静かに姿を消した。

 私のたこ焼きジプシーはここからはじまったともいえる。

 私は昔も今も心からたこ焼きが好きなのだが、関東圏で生きている人にさほどたこ焼き選択権はない。だって店がない。一昔前はスーパーの一階にあるラーメンやソフトクリームを売る店の「なんか違う」たこ焼きくらいしかなくって、私は祭りを待ち焦がれたものだった。祭りにいけばかならずたこ焼きの屋台が出ている。祭りで私は真っ先にたこ焼きを食べる。

 それから、フランチャイズのたこ焼き屋が多くできはじめた。私も最初はよろこんで買っていたが、しかし、違う。何が違うって、このたこ焼きは揚げてある。

 作り方を見ていると、仕上げに大量の油を投入し、ふつふつと周囲を揚げるのである。これは最初はおいしいが、だんだん飽きてくる。飽きるに従って、腹立たしくなってくる。それは揚げたこ焼きだろうが! と、言いたくなってくる。

 もし中学生の私が「世界崩壊、再構築」を味わったたこ焼きが揚げてあったら、この揚げたこ焼きに満足しただろうが、私が推測するに(記憶がおぼろげで推測するしかない)、あのカウンターの店のたこ焼きは、関西の正統的なたこ焼きだった。それがそのまま初恋の男のように私の内に刻印を押しているのだから、揚げたこ焼きなんて邪道もいいところ。

 さて、こんなにもたこ焼きを愛している私であるが、大阪に縁がなく、本場でたこ焼きを食べる機会がなかったのだが、二年前から、年に一、二度定期的に仕事で大阪に通うことになった。

 はじめて大阪にいったときは「たこ焼き、たこ焼き」と目をらんらんと輝かせていた。仕事相手が夕食時に連れていってくれたのはちゃんとした和食屋さんで、たこ焼きなどもちろんメニュウにないのだが、しかし私は「たこ焼き、たこ焼き」と思い続け、和食屋からバーへ移動する際に路上でたこ焼きを買い、バーに持ちこんで食べた。ああ、初恋の味! 中学生の私の世界を破壊、再構築させた味! 思わず落涙しそうだった(しなかったけど)。

 以来、大阪いきのときは「ぜったい何がなんでもたこ焼きを食べて帰る」と決めていて、「なんだったら夕食はたこ焼き五十個でかめへん」と似非大阪弁で思っているが、いかんせん、関西からやってくる仕事相手を私がもんじゃ焼きでもてなさないように、私を迎えてくれる仕事相手もたこ焼き五十個の夕食などはセッティングしてくれない。いつも、食事とバーとの境にたこ焼きをなんとかすべりこませているのである。それにしても、たこ焼きの持ちこみを許してくれるバーがある大阪って、なんて太っ腹なんだろう。

 ところで大阪在住もしくは出身の人は、一家に一台たこ焼き器を持っていると言う。あまりのたこ焼き愛のために私も買ったのだ、たこ焼き器。知り合いにたこ焼き名人が二人いるので、双方に作りかたを聞き、実践もさせてもらい、「習得した」と思ったので自宅で作ったのだが、やっぱだめ。ぜんっぜんだめ。つきっきりで教えてもらったときはうまくいったのになあ。慣れの問題なのだろうが、慣れるまで失敗をするのがいやで、結局、数回使っただけでたこ焼き器は埃をかぶるはめに。自分で作るより、関西出身の人が主催するたこ焼き大会に招かれたほうがよほどいいという結論になった。

 ちなみに、大阪のたこ焼きにいちばん近いものを自宅で食そうと思ったら、冷凍たこ焼きを買うのがいちばんいいと私は思う。私は冷凍食品の類を買わないが、たこ焼きだけはおいしいと思う。売りものでこれに近いものは、なかなかない。

 中学一年のとき、一度でいいからたこ焼きを五十個注文して、それで腹をはつはつにしたいと願った私であるが、おそろしいことに、今もってなお、同じことを願っている。だってね、たこ焼き五十個ってやっぱりなかなか食べられるものではないし、なぜか、十個程度でおなかいっぱいになってしまうのだ。「たこ焼きだけで腹はつはつ」というのは、ずいぶんと難題である。でも、いつかそうしてみたい。バケツでプリン作りたい、というのと変わらぬシンプルな野望である。

024 納豆バロメーター

 日本で暮らしている外国人を見ると必ず「和食で食べられないものは何」と質問する人がいて、そういう人は彼ら外国人が「納豆」と答えるのを、すでに期待している。納豆ウエー、くさくてねばっていてウエー、と外国人が顔をしかめると、うれしそうに笑ったりする。なんでだろう?

 あんなの、食べつけない人はウエーに決まっているではないか。外国人どころか、関西の人だって食べられない人が多いのだ。まったく訊くまでもないと思うのだが、しかしときおり、「納豆大好き」と言う順応性の高い外国人もいる。そうすると件の質問者たちは「えー、納豆食べられんのー」とまたまたうれしそうにびっくりする。あんなの、しかしよく好きになるよな。

 と、さんざん「あんなの」呼ばわりする私であるが、納豆が食べられないかというと、いやもう、好きも嫌いも考えたことがないくらい、しょっちゅう食べる。ものごころついたときから納豆は朝の食卓にあり、くさいとかねばるとかにおうとか、考えたこともなかった。におわなっとう、という商品名の納豆が出たときはじめて、「納豆って一般的にはくさいとされているのか」と、びっくりした。白いごはんをおかずで食べるのがあまり好きでなかった私には(つまりふりかけ系がないと食べられない)、納豆はごはんの消費にたいへん助かる一品であった。

 私んちの納豆には葱と卵の黄身だけが入っていて、それを好きも嫌いも考えることなく、ひとり暮らしをするまで朝ごはんが和のときは食べ、日本じゅうの人がこうして納豆を食べているのだと無意識に信じていた。日本全国、老若男女あまねく、葱と卵の黄身入り納豆を朝食べている、と。

 納豆のことを思うにつけ、高校を卒業するまでの自分が、いかに狭い世界に住んでいたかを思い知る。

 大学生になると、全国各地の出身者に出会うことになる。納豆を食べない人がいると十八歳で私ははじめて知った。そういう人たちは、朝食に出されても残してきたのではなく、そもそも朝食に納豆は登場しない家庭で育っている。和食でも納豆の登場しない家庭というものが、あるのである。

 十八からこっち、納豆というのは私の世界の広がりバロメーターにもなった。世界が広がるということは、生まれ育った家を出て、未知があふれる大海へと身ひとつで乗りだし、父や母が教えこんだ常識がイコール世界の規範ではないと知り、彼らがさらに教えこんだ道徳のバリアを蹴破り、新たな常識や道徳をみずから作り上げていくことだと、私は思っている。

 葱も卵も入れない人がいる。納豆のねばりを重要視する人が入る。葱入れず、卵は白身ごと入れる人がいる。定食屋・居酒屋には、まぐろ納豆とかいか納豆という、おかずに納豆をプラスしたメニュウがある。そして、納豆の嫌いな人がいる。

 さらに。友だちが納豆スパゲティの作りかたを教えてくれる。納豆炒飯の作りかたを教えてくれる。納豆オムレツの作りかたを教えてくれる。味噌汁に入れてもおいしいと教えてくれる人がいる。某チェーンのカレー店で納豆カレーを頼む人を見かける。蕎麦屋に納豆蕎麦たるメニュウがあるのを知る。油揚げに納豆ときざんだ梅干しをまぜたものを詰めて焼く、そんなおかずがあると知る。納豆に、いかと柴漬けとたくあんとねぎと卵をのせる超豪華五色納豆なるものがあるのを知る。そして、どんな料理にしても納豆の嫌いな人が、ちゃんといる。

 私はおそるおそる自分内納豆常識を破る。葱を刻むのが面倒で、入れない。卵の白身を捨てるのがもったいなくて、黄身を入れない。でも、納豆はちゃんと納豆である。それに、考えたことなかったけど、おいしい。納豆にキムチを入れてみる。おいしい。しらすを入れてみる。おいしい。たれではなく塩で作ってみる。おいしい。夜、納豆を食べてみる。夜に食べたほうが筋肉作りにはいいのだと言う人がいる。納豆が筋肉を作るなんて! ごはんにのせず、二日酔いの朝、納豆だけ食べてみる。なんか二日酔いが楽になった気がする。そして、依然として、納豆の嫌いな人は、いるのである。

 ああ、なんて世界は広いのだろう。そして、納豆ってなんて自由なんだろう。

 今までは気づかなかった、自分の納豆趣味も大人になってからわかった。私は小粒納豆がいっとう好きで、挽き割り納豆も大粒納豆もじつはあんまり好きではないのだった。

 さらに、いろいろな納豆料理を教わるたびに作ってみたけれど、納豆スパゲティだけは、どうしてもおいしいと思えない。納豆炒飯はわりあいにうまく作れていると思う。炒飯の場合は、フライパンに油を熱し、最初に納豆を入れてかたちを崩さず、両面ちょっぴり焦がすと香ばしくなっておいしいのである。納豆炒飯を作ったあとは台所じゅうになぜか腋臭のにおいが漂うのが玉に瑕だが。

 私、学生のころ、好き嫌いが激しくて、野菜をほとんど食べなかったのだが、友人たちはそんな私になんとか野菜を食べさせようとしていた。でもね、私はいくら納豆がおいしくて健康にもよくて二日酔いにまできくからといって、嫌いな人に勧めようと思わない。だって納豆って、世界的に見てやっぱりへんな食べものだと思うのだ。
 そう、納豆が「へんな食べもの」らしいと知ったのも、世のなかという大海に出てからのこと、なのである。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。