なぜこんなものをみんなありがたがって高い金出して食べるのか、と、はじめて松茸を食べたとき、思った。二十代の終わりである。三十歳直前に、一時期私は深刻な経済難に陥ったことがあって、三、四カ月、原稿を書くかたわらアルバイトに通っていたのだが、そこの社長が連れていってくれたしゃぶしゃぶ店でのことである。
社長は、いつもともにごはんにいくたびそうだったのだが、さっとメニュウを見て人の意向も聞かず、いちばん高いものを二人ぶん注文してしまう。このときも「松茸しゃぶしゃぶコース」を私のぶんまで注文してくれた。通常のしゃぶしゃぶコースに松茸がついていて、肉より先に松茸をしゃぶしゃぶするコース内容であった。よく知らない人だし、おごってもらうのだし、「きのこ類全般を食べられないからふつうのしゃぶしゃぶにしてください」と、言えなかった。言えなくて、松茸をしゃぶしゃぶして食べ、「なぜこんなものを……」と、思ったのである。
もともときのこが(このときは)好きではなかった。それに、松茸は鉛筆の削りかすのにおいがする。私は社長と向かい合わせに座り、「早く肉に、肉になってくれ」と思いながら、無理に松茸を食べ続けた。
食革命が起き私が好き嫌いをなくすのは、その約一年後。
好き嫌いが減り、さらに年齢を重ね、するってえと、不思議なことに高級珍味欲が出てくる。食べたことがなくて高級なものを、食べてみたくなるのである。食べたことがなくて安価なものは、さほど食べたくはならないのに、これは不思議なことである。前者は、唐墨とか燕の巣とか。後者は、雀とかイナゴとか。
そんなわけで、松茸。一年前には「ウエエ」とちいさく思いながら松茸をしゃぶしゃぶしていた私だが、じつはみんながおいしいおいしいと言い合っているのに、交じりたかったのである。秋になると「松茸の季節だね」「松茸食べなきゃね」と、いっしょになって言いたかったのである。
食革命のとき私が悟ったのは、好きではない食べものは、食べ続けていれば好きになる。ならずとも食べられるようにはなる、ということだ。水泳や料理や英単語丸暗記といっしょで、地道にくりかえすことがだいじなのだ。
反復用に、安い松茸を買ってきて、松茸ごはんを作りまくった。外食した際も、以前は人に譲っていた土瓶蒸しだの網焼きを、食べてみることにした。
松茸が売場から消えるまでには、つまり一秋で、私は松茸に開眼した。反復したおかげで、そのおいしさがよーくわかった。
今、ようやく私はみんなと一緒になって「秋といえば松茸」「もう食べた?松茸」「ああ、松茸食べたい」と、言い合えるようになった。
しかしながら、松茸って本当に必要だろうか、という気がしないでもない。
ウニはなくちゃ困る。シンコもなくちゃ困る。それらが鮨屋から消えると、ああ夏も終わりよのう、としみじみ思う。桃もなくちゃ困るし、河豚もなくちゃ困る。青魚をさほど食べない私だって、秋刀魚はなくちゃ困ると思っている。山菜だって、なくちゃやっぱり困っちゃう。ほやや爆雷といった珍味ですらも、実際に好んで食べないながら、あってほしいと思うときがある。
でも、松茸。松茸は本当に必要か?
本当は、なくてもいいのではないか。 みんな、秋になると松茸、松茸と騒ぐが、いっぺんも食べないまま冬になっても、だれも気づかないのではないか。
そう思わせる理由は、松茸の値段にある。松茸の値段はへん。九百八十円のものもあるし、五万円のものもある。国外産は安くて国内産は高いということはわかる。国内産のほうが香りがゆたかというのもわかる。でも、じゃあ、「やっぱりおいしい松茸食べたい」と、人は五万円を出すだろうか。否。みんなふだんのごはんのためには、せいぜい奮発して五千円クラスのはずである(すみません、私がそうなんです)。大切なお客さんがくるとか、イベントするとか、臨時収入があったとか、そういう場合でも、せいぜい一万円台ではないか。
でも、松茸を買うとき、つい値段を見る。目当ての値段だけ見ればよいものを、陳列されたなかでいっちばん高いものを見る。「ほう、五万」とか思ったりする。千円と五万と、どのくらい違うのかノ、と想像したりする。そして自分の想像力が、五万円の松茸に及ばないことを思い知らされる。手にした三千円とか五千円とかの松茸を、食材としては充分高いのに、何かケチっているような気持ちになりながら見つめ、とぼとぼとレジに向かう。
こういうときに私は思うのだ。松茸、必要か? と。国外の松茸が安く輸入されるのは、その国の人々にとってそんなものはちっともありがたくないからだ。きっとみんな、「こんな鉛筆の削りかすのにおいがするもの、いらんわ」と思っているのだ。私たちだって感覚をちょっと変えれば、「こんな鉛筆の削りかすのにおいがするものを、なぜ今までありがたがっていたのか」と思うかもしれない。果たしてそんな日はくるのであろうか。
と言いつつ、今年の松茸ごはんはいつにしようかなー、どのくらい奮発しようかなーと、わくわくと考えている秋のはじめ。 |