四月の半ば過ぎになると、魚屋さんの店頭に鰹が並びはじめて、わくわくとする。初鰹、食べねば、と思う。
とくに初もの好き、というわけではないのだけれど、なぜだか鰹には、「食べねば」心を刺激する何かがある。おなじ鰹でも、戻り鰹の時期はさほど「食べねば」にはならないんだよなあ。ちなみに戻り鰹のほうが脂が多いらしいので、ザ・脂女の私はそっちを好みそうなものだが、でも、やっぱり心躍るのは、どういうわけか初鰹。
さくを買えば、フライパンでかんたんにたたきを作れるそうだが、わたしはたたきよりもそのままの刺身のほうが好きである。大きめの斜め切りにして、新たまねぎをたっぷりしいて、その上に並べ、茗荷、生姜、ニンニク、大葉、あさつき、薬味をたくさん用意して醤油で食す。ポン酢で食べてもおいしいし、コチュジャンだれで韓国風にしてもおいしい。
私が一時期凝ったのは、ビニール袋に玉葱とすりおろしたニンニクとかつおをいれ、醤油を入れ、もんで味をなじませて食べる漬けかつお。ニンニクの香りが強い牽引力になって食べやめられないおいしさ。
ところで、江戸時代から初鰹は大人気だったらしく、川柳が多々ある。
女房を 質に入れても 初鰹 とかね。
当時は鰹は辛子で食べていたらしい、
はつかつお からしがなくて 涙かな、 とかね。
私もまねて、辛子で食べてみたことがある。もちろんおいしいけれど、でも食べ慣れたニンニクや生姜のほうがやっぱり好きだ。
たぶん、こういう川柳をどこかで耳にしているから、よけいに初鰹に反応してしまうのかもしれない。あるいは、江戸時代から培われた初鰹DNAというものが、私たちの内に流れているのか。私たちの内に潜む江戸DNAが、四月五月になると初鰹食え、初鰹食わねば、といっせいに騒ぎ出すのかもしれない。今は女房を質に入れなければならないほど、高価なわけでもないし。
鰹は何も刺身ばかりでなく、生姜をきかせて煮た角煮や、パン粉をつけて揚げるフライ、トマトと煮る煮込みなど、加熱料理もある。知人宅におよばれしてそういう料理をごちそうになり、そのおいしさに感動しても、いざ自分で作ろうかとなると、「なんかもったいない」という気持ちがむくむくと頭をもたげ、結局いつも、自分の家では生状態で食べることになる。考えてみれば、私、自分の家で一度も鰹を加熱調理したことがないな。
鰹は洋風にしても活躍してくれる。カルパッチョもいいが、薄切りにするのがすでに面倒な私は、いつもの刺身のごとく厚めにして、すりおろした玉葱・ニンニク・レモン汁・オリーブオイルに塩胡椒でソースを造り、それを皿にしき、その上に鰹を並べ、端を切ったビニール袋からマヨネーズを細めに絞り出してかける料理をよく作る。ソースがオリーブオイルの黄色っぽい緑になって、鰹の赤とのコントラストがたいへんにうつくしい料理なのである。
しかしながら、よくよく考えてみれば、鰹ってそんなに存在感のある魚ではない。
好きな魚は? とか、好きな寿司ネタは? とか、刺身だったら何が好き? とかいった質問に、真っ先に名をあげられるタイプの魚ではないと思いませんか?
子どものころを思いだしてみれば、私にはそれぞれの魚との密接な思い出がある。たとえばまぐろと蜜月を送った思い出。骨がある、という理由で進んで食さなかった秋刀魚との思い出。朝食でよく顔を合わせましたね、という鰺との思い出。二十代半ばまでいっさいお会いしませんでしたね、というふぐとの思い出。でも、鰹は、空白。
ひとり暮らしをはじめ、自炊をするようになって、魚屋の店頭で「あ、初鰹」と意識する、それ以前の私と鰹のかかわりはどのようであったのか、と思い返しても、はっきりした記憶がない。私ほどの元偏食だと、好きか嫌いかがかなりはっきりしているのに、それも、よく思いだせない。
偏食期、まったく食べなかった魚の共通点は、骨のある青魚、あまり好きではなかった魚の共通点は身が白い、なので、そのどちらからも外れる鰹は、どちらかといえば好きの部類だったと思われる。が、「わーい今日は鰹」と思った記憶が、ないのである。
じつは今も、鰹カツオと騒いでせっせと食べているのは、四月から五月。梅雨時期に入るころには鰹のことなどさっぱりと忘れ、かわはぎだ、かれいだ、うにだ、おおシンコの季節だ、寿司屋にいかねば、などとほかに魚に目移りして、めったに思いださないのだから、私のなかで今も存在感が強いとは言い難い。
とはいえ、江戸時代に思いを馳せさせてくれる、貴重な魚であることにかわりはない。その季節、DNAに導かれて魚屋の店頭で立ち止まり、昔と今と時代も環境もこれほど変わっても、人の内には変わらないものがあるんだなあとふと思わせてくれるのは、私にとって春先の鰹と、土用の鰻くらいである。 |