アスペクト

今日もごちそうさまでした

角田光代
お肉は好きですか? お魚は好きですか? ピーマンは? にんじんは? 美味しいものが好き、食べることが好き、何よりお料理が好きな角田さんの食にまつわるエッセイがスタートです。

045 隠れ唐辛子ファン

 激辛好きの芽が発芽したのは、タイをはじめて旅した二十四歳のときだ。辛いものっておいしいんだと、この旅ではじめて知った。

 帰国後、私は足繁くエスニック料理屋に足を運ぶようになった。もう二十年も前のことだ。当時、もちろんタイ料理屋もインド料理屋もネパール料理屋もあったけれど、今ほど多様でも多数でもなかった。インターネットがまだ普及しておらず、どこがおいしい、というのは、口コミで知るのみ。そんな時代があったんだなあ。

 私が当時よくいっていたのは、高田馬場にある「カンボジア」というエスニック料理店。タイの食堂には必ずテーブルに常備されている「ドライチリ・砂糖・ナンプラー・唐辛子入り酢」の調味料セットが、この店にもある。友だちと訪れるたび、料理にかけるドライチリと酢につかったプリッキーヌを使う量が増えた。

 辛いものを食べ続けていると、舌の味蕾がつぶれて、どんどん辛さに強くなると聞いたことがある。「つぶれる」というのは比喩表現だと思うが、辛さに麻痺して強くなっていくのはたしかだろう。それまで辛いものと縁のなかった私は、その店に通っているうち、どんどん、どんどん辛さに強くなり、いつのまにやら、激辛派と相成っていた。

 辛いもの好きにもジャンルがあって、わさび系、からし系などあるようだが、私はやっぱり唐辛子系の辛さが好きだ。といっても、自宅で料理をする際、それほど辛いもの好きではない連れ合いが食べられないようなものを作っても致し方ない。だから、激辛派としてのおもな活動場所は、屋外ということになる。

 辛さピラミッドがあるとして、その頂点あたりにあるのは原宿にある中華料理店の麻婆豆腐である。このお店、ほかの辛くないメニュウはなんでもおいしいが、やはり名物は麻婆豆腐だろう。本気で辛い。しかも、うまい。ごはんといっしょに出てくるのだが、すぐ満腹になってしまう私は、ごはんを断り麻婆豆腐だけ食べた。熱い、うまい、辛い! 食べきると、お店の人が「よく食べたネー」と褒めてくれる。

 それから池袋にある、ビルの地下の、中国人の方々が取り仕切るお店の、唐辛子と山椒の鶏肉炒めという料理も好きだ。四川料理なのだが、ここのお店の唐辛子は半端ではない。唐辛子のなかにに鶏肉が埋まっている感じ。

 この唐辛子、揚げ炒め状になっていて、噛むと、さくっとして、おいしい。鶏をほじくり出し食べ終えて、つまみのように唐辛子を囓っていたら、お店の人が「それは食べなくていいヨ!」と笑いながら注意しにきてくれた。おいしいんだけどな。

 そういえば、本郷にある四川料理屋でも、仲のいい激辛派三人で、メニュウの唐辛子マークがついた料理ばかりを頼んで食していたら、お店の人がテーブルにきて、

「あなたがた、テーブルの上真っ赤っかだけど、平気なの!?」

 と言ったことがあった。本場四川の人に心配されるとは、私たちは激辛派の最右翼といったようなものだろうか。

 独特のラーメンで有名なチェーン店、蒙古タンメン中本の「北極」も好きだ。唐辛子でまっ赤っかに染まった汁に、麺ともやし、豚肉などが埋まっている。辛いのが苦手な人は見ただけで咳きこむだろうが、激辛派には魅惑の色。

 けれどこれ、私には量が多すぎ、いつも残してしまうのだが、残したときに必ず「辛くて残したんじゃないんです!」と大声で言い訳したくなる。

 昨今、北極より辛いメニュウがあること、それから麺の量を減らしてもらえることを知った。北極より辛いのは「冷やし味噌」という名前のつけ麺。これは麺が冷たいぶん、熱い北極より食べやすく、味がわかりやすい。唐辛子が辛いだけではないことが、わかるのだ。

 旅先で辛さに感動したのは、新疆ウイグル自治区のウルムチと、メキシコだ。

 ウルムチに辛い料理が多いことはあまり知られていないが、シルクロードの入り口であるこの町、西と東のスパイスが混じり合って、どんな料理もけっこう辛かった。カレー粉とクミンやターメリックといったスパイス、さらには唐辛子も多用されている。ここで食べた火鍋も、震えるくらい辛くてすばらしかった。

 メキシコは、ハラペーニョである。その存在は知っていたし、日本のハンバーガー店でも生ハラペーニョを使っているところは多い。が、実際に彼の地でハラペーニョ入りの、トルタと呼ばれるサンドイッチを食べたときは、誇張ではなく涙が出た。なんというか、突き抜けた辛さ。潔いのだ。涙しながら、天晴れ、と思った。

 ふだんは乾燥唐辛子を使っているが、たまに、友人が自宅で栽培した生の赤唐辛子をくれることがある。これを冷凍しておいて使うのだが、やっぱり自家栽培の生唐辛子は、きちんと辛くて、辛いだけでなく風味もあって、おいしい。

 最近は八百屋さんで生の青唐辛子も買えるようになった。これまた、私は冷凍して常備してある。「二日酔いの朝、味噌汁に一本をちょんちょんと輪切りにして入れると、すーっと醒める」と聞き、実践している。

 ふだんは、私は自身が最右翼の激辛派であることを公言していない。なんとなく恥ずかしいのだ。しかも、ときどき激辛派は意味もなく攻撃される。ダイエットのつもりか、とか、辛くしなくても充分おいしいのに、とか、味覚障害では、とか、何気なく風当たりが強い。あるいは「自分はここまで辛いものが食べられるが、きみはどうか」と勝手に勝負を挑まれることもある。だから、ふだんは激辛派の「げ」の字も顔に出さない。それゆえに、ときどきいっしょに食事をする人が、飲み屋の七味や唐辛子を、これでもかとふりかける私を見て、ぎょっとすることもある。「えっ、あなたそういう人? そういう人だったの?」と、幾度言われたことだろう。

 はい、そういう人なんです。すみません。

046 気がつけば枝豆

 肉が食べたい、と激しく思うときもあるし、魚食べたい、と思うときもある。茄子食べたい、もある、じゃが芋食べたい、もある。桃食べたい、も、ナッツ食べたい、も、やっぱりある。

 が、「枝豆食べたい」は、ないんじゃないか。

 もうどうしてもどうしてもどうしても枝豆が食べたい、狂おしく食べたい、って、私の場合、あんまりない。ないけれど、それが自宅であろうと居酒屋であろうと、夏のテーブルには、ちょこんと存在している。それが枝豆。

 狂おしく食べたくはならないけれど、ないと、なんだか物足りない。なければないでべつにいいんだけれど、あればあったでぜんぜんかまわない、むしろうれしい。枝豆の、この不思議な存在感よ。

 枝豆は、さやに入っている。グリンピースも空豆もさやに入っているが、調理するときはさやから出す。枝豆はさやごと調理し、さやごと食卓に出す。

 エンドウ豆もさやにはいっているが、さやごと食べる。枝豆のさやは食べられない。

 つまり、枝豆は食べるのに面倒な上、空さやというゴミが出る。なのに人は、その面倒を厭わない。これまた、不思議ですねえ。

 そしてそんな面倒な枝豆だが、食べようと思うとそれだけにかかりっきりになる。おかずではない、純然たるつまみだからだ。

 夏の定番仲間、冷や奴も似たようなものだが、しかしこれは、しようと思えばごはんのおかずにもなるし、ほかのものと組み合わせ可能だ。キムチ奴とかオクラ奴とかしらす奴とかね。でも、枝豆は枝豆だけ。ごはんのおかずにはならない、ほかのものと組み合わせ不可。ただ、目を宙にさまよわせ、さやを手に取る、口に運ぶ、豆を押し出す、豆を噛む、ビールを飲む、と永遠なる単体の往復運動。このとき、たいていの人はなんにも考えていないと思う。空白のまま、往復運動をし、「はっ」となる。「はっ」となって、ほかの皿のものに箸を延ばす。

 もちろん、枝豆を使う料理はある。枝豆炒飯とか、枝豆入りサラダとか、肉味噌に枝豆入れたり、パスタに枝豆入れたり。でも、これって「冷蔵庫にあるから、何かで使わなきゃ」系の料理だ、と思ってしまうのは、私だけであろうか。だってその料理、枝豆がなくてもきっと成立するもん。

 枝豆のポタージュというスープもあるし、枝豆を使う豆ごはんもあるけれど、それだってやっぱり、空豆のポタージュでも代替可だし、豆ごはんはグリンピースが一般的で、どうしても枝豆じゃなきゃだめ、という料理でもない。

 どうしても枝豆じゃなきゃだめ、という料理は、枝豆、そのものしかない。と、私は思う。そう考えると、狂おしく食べたくなるわけではない枝豆が、たいへん立派な存在に思えてくるではないか。そのもので勝負。それだけで勝負。

 ところでこの枝豆であるが、値段にけっこうな幅があるのをご存じでしょうか。

 二百円くらいのものもあるし、七百円近いものもある。一度、その値段の理由を舌で知りたくて、六百円ほどの天狗印の枝豆を買ったことがある。ちなみに、六百円ほど枝豆というのは、私にはかなり高級な部類である。

 うん、たしかに、香ばしくて豆の味が甘やかで、ノーブランド枝豆よりはおいしかった。だだちゃ豆は買ったことがなく、もらって食べたが、こちらもたしかに味が濃くておいしい。でも、さすがに千円を超すとなると「だって枝豆だよ?」と言いたくなる。

 ブランド枝豆もいいが、枝ごと売っている枝豆があれば、それがいい。キッチンばさみでチョキチョキボウルに落とすように切り、たっぷりの塩で揉む揉む揉む。しばらく放置したあと、以前は茹でていたのだが、さいきん私は蒸すようになった。ル・クルーゼなどの厚手の鍋に、枝豆とコップ半分ほどの水を入れて、二分ほど加熱、あとは余熱で蒸す。このほうが甘みが引き立つ気がするんだけれど、どうだろう?

 野菜嫌いだった子ども時代の私も、枝豆は好んで食べていた。が、今のようにさやに口をあて、豆を押し出して食べることがどうしてもできなかった。さやのなかに虫がいたらどうしよう、と思っていたのだ。だからいちいちさやから豆を手のひらにとりだして、虫がいないかじーっと眺め、安全を確認してから食べていた。そうして成長過程のあるとき、枝豆のさやに虫が入っているのなんて見たことない、と結論づけて、それからは中身を確認せずに食べられるようになった。

 この変化にビールが影響しているのはまちがいないと、今になって推測する。ビールなしで枝豆を食べていた子どものころは、そんなふうにノラクラ食べていても、いっこうにかまわなかったのだ。が、食にビールが導入され、枝豆と切っても切れない仲になるにしたがって、口に運ぶ豆を押し出す豆を噛むビール、口に運ぶ豆を押し出す豆を噛むビール、の往復運動を流暢にスムーズに行う必要性が生じ、それに合わせて「虫なんかいない」の気づきに達する、という具合。

 ビールに枝豆って、ただ合うだけだと思っていたんだけれど、枝豆がアルコール分解を助けてくれるって知って、ちょっと頭が下がる思いだった。狂おしく食べたくはならない枝豆ではあるが、やっぱり食べないと夏を迎えた気がしない。えらいなあ、枝豆は。大豆にもなるしね。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。