アスペクト

今日もごちそうさまでした

角田光代
お肉は好きですか? お魚は好きですか? ピーマンは? にんじんは? 美味しいものが好き、食べることが好き、何よりお料理が好きな角田さんの食にまつわるエッセイがスタートです。

049 愛憎レバー

 大きな病気はしたことがなく、風邪も滅多に引かないのだが、貧血と低血糖でよく、へなへなと倒れたりしゃがみこんだりする。貧血は、十代から二十代のときがいちばんひどかった。電車で吊革につかまっているとき。アルバイトをしているとき。町を歩いているとき。なぜかかならず、外にいるとき、それはやってくる。

 視界のなかにぽち、ぽち、と黒い点が見えてくる。この点ひとつひとつが、ぼわぼわと輪郭をにじませながら大きくなる。大きくなりきると視界は黒に染まる。気がつくと、親切なだれかが席や道ばたに座らせてくれている。少し座っていれば、すぐなおる。

 ぽち、ぽち、の時点で「あ、きたな」とわかるのだが、点がふくらみきるまでがほんの数秒なので、対処できない。倒れるな、と思ったときにはもう倒れている。

 ちなみに、低血糖は、黒い点の前に、いやな感じの汗がにじみ出して手が冷たくなるので、こっちのほうはまだ対処ができる。といっても、隣にいる友人に「もうすぐ倒れる」と告げたり、自分で車の邪魔にならないよう歩道に座ったり、する程度だが。

 さて、貧血転倒が最多だったころ、だれもかれもが私に「レバーを食べろ」と言った。母も友人も医者も。「一日に焼鳥屋で売っている串一本食べれば充分だ、それでどれだけ貧血は改善されることか」と、言うのである。

 そしてレバーは、私が一生食べることはないなと思っていた部位である。

 それまでのほとんどが食べず嫌いだったが、レバーは違う。肉だし、レバニラ炒めなんて見るからにおいしそうなので、食べようとしたことが幾度かあった。が、生はあのにちゃにちゃが、焼いたものはあのモカモカが、どうにもだめだった。「こう調理すれば臭みなんかぜんぜんとれる」と、多くの人は言ったが、「食べられない」「苦手」というものって、臭みだけじゃないってレバー好きの人は思いもしないのだ。食感、見てくれ、それらだけで充分、食べられないし苦手になりうる。

 二十代半ばのころ、泊まるところがなくて、うちに連泊している女の子がいたのだが、ある日帰ると、夕食を作ってくれていた。それがなんと、レバーのソース焼き。

「私、これ食べられないんだけれど……」とおずおず言うと、

「知ってる。だからこうすれば臭みも気にならずに食べられるかなと思って」と、にこにこしている。おかずその一品。レバーのみ。

 私はこのとき、己のレバー嫌いを実感した。タダで何日泊めるのもかまわないし電話も好きなだけ使うのもかまわないし台所使うのもかまわないし油飛んでそのままにしておくのもべつにかまわない、でも、嫌いだって言っている人にレバー料理を出さないでほしい。本当に、レバーを無理矢理食べさせられるくらいなら、もう、ボーイフレンドを連れこんでくれちゃって二人で居候してくれたほうがまだましだ、と思った。

 そのレバーのソース焼きとやらは、申し訳ないので無理して一口食べ、もちろん「オウ」となり、ぜんぶ残した。臭みがもっと気にならないようまた何か工夫されちゃたまらないと、しばらく考えたのち、滞在中の公共料金の半分くらい払ってほしいと言ってみた。彼女はすぐに、出ていった。帰ってレバー料理が待っていないことに、ほっとした。

 そんなレバーだったのだが、じつは今、どちらかというと好物である。大をつけてもいい。大好物。

 焼鳥屋ではかならずレバーを頼む。焼肉屋ではかならずレバ刺しを頼む。焼くレバーも頼む。居酒屋で白レバーなんて文字を見つけようものなら、真っ先にそれを頼む。レバーペーストも大好き、パンにつけずともそれだけで食べてしまう。レバカツも好き、レバニラも好き。

 あるとき急に好きになった食材との出会いを、たいてい私は覚えているのだが、レバーだけは覚えていない。公共料金の半分を払えなんていじましいことまで言ってレバー料理を避けるほどだったというのに、いつ、どのように、どうやって、好きになったのか。気がついたら恋に落ちていた。気がついたら交際に至っていた。気がついたら深く愛していた。そんな感じで、レバーとは今に至っている。

 焼鳥屋にたいする私の個人的評価は、レバーがおいしいかまずいかにかかっている。レバーがおいしければ、その店はもう焼き鳥の最高店に認定。

 自分ちでレバー料理も作る。豚レバーは水につけて血抜き(あんまり長時間つけると、水っぽくなってしまう)。鶏レバーは葱の青い部分や生姜とさっと煮て冷水。これで下処理完成。あとはレバニラでもレバーの煮物でも、……なのであるが、じつは私の夫はレバーが食べられない。レバ刺しも焼き鳥のレバも白レバーもレバーペーストもだめ。その気持ち、わかるわかる、と思う私は、件の女友だちのように、無理矢理食べさせるようなことはしない。焼肉屋にいっしょにいってレバ刺しが食べたければひとりで平らげるし、白レバーもひとりで平らげる。おいしいのにナー、食べないなんてもったいなーい、なんて間違っても言いません。レバーがこれほど好きになっても、レバーが苦手だったときの苦手な感じを、未だに生々しく覚えていたりもするのである。だから、もっぱら家でレバー料理をするのは、ひとりのときのみ。

 レバーのせいばかりではないと思うが、貧血転倒はまったくしなくなった。今多いのは低血糖で、これは対策として、チョコレートを常備しています。

050 せつなさと滑稽と南瓜

 南瓜にたいしてとくに思い入れがあるわけではないんだけれど、なぜか、南瓜には、とくべつな思い出がある。

 ひとつは、十九歳のとき、そのとき交際していた恋人の下宿で、南瓜の煮物を作った思い出。

 こう書いてみると、フーンというようなエピソードだが、私のなかではじつにシュールな記憶である。まずそのときの私は、実家暮らしで、料理などいっさいできなかった。米すら研いだことがなかったのだ。なのに、なぜ南瓜の煮物など作ったのか。もちろん、その恋人に好かれたいためだろう。好かれるには料理、男の好きな料理といえば南瓜、と思っていたのだろう。

 でも、南瓜の煮物だけ作って、ありがたいと思われるはずなんか、ないじゃん、と今の私なら十九歳の小娘に言うであろう。好きな男の子に何か煮物料理を作ろうと思うのなら、肉じゃが、もしくはロールキャベツ、無難なところで煮物じゃないがカレー、つまり、ごはんのおかずじゃないとだめ、南瓜単体じゃごはん食べられないでしょう、そんなもの若い男子はよろこびませんよ。と、言うであろう。

 十九歳にはそういうことがわからなかった。そして、米も研いだことのない小娘の作った南瓜の煮物がどんな味であったか、想像したくない(味見していない)。

 もっとシュールなことに、そのとき、下宿には恋人はいなかった。私は恋人にもらった合い鍵でその部屋に入り、南瓜を煮たのである。あ、違うかも。遊びにいったものの、恋人は用事があって、彼だけ出かけ、私はそこで待っていたのかも。ともかく、私はひとりだった。そうして恋人は帰ってこず、私は南瓜の煮物を鍋に残して、帰ったのだった。それはつまるところ、恋愛の終焉を意味している。だって恋愛の最中なら、男の子が恋人をひとりになんかさせるはずがないのだ。だから私は、生涯はじめて作った南瓜の煮物の行く末――食べてもらえたのか、捨てられたのか――――を、知らない。

 当然のことながら、米もといだことのない小娘の作った南瓜などで恋人の気持ちをつなぎ止めておけるはずもなく、その後しばらくのちに、私はふられた。でもきっと、あれが肉じゃがでもロールキャベツでもカレーでも、はたまた私がどれほどの料理上手であっても、ふられただろうな。そういうものだ、恋愛の終焉というのは。

 もうひとつの記憶は、はじめてオーブンレンジを買ったときのことだ。そのとき私は三十歳。このころ急に仕事がなくなったのと蓄えが尽きたのとで、半年弱アルバイトをしたのだが、そのアルバイト代でオーブンレンジを買ったのだ。それまではあたため機能のみのレンジしか持っていなかった。

 オーブンを買ったと聞いた母が、料理を教えるといってすぐに私の住まいに遊びにきた。このとき母といっしょに作ったものが、しめ鯖とイカめし、それから南瓜のグラタンだった。

 母の定番料理のひとつに、南瓜に鶏挽肉と野菜のみじん切りを詰めて蒸し、ケーキのように切ってあんをかけて食べる、宝蒸しというものがあって、私はたぶんそれを教えてほしいと言ったのだが、面倒だったのか目新しいものを作ってみたかったのか、宝蒸しではなく、グラタンにしようと母が言ったのだった。

 南瓜の上部を切り取って、中身をくりぬき、そこに海老とマッシュルームのグラタンを詰め、チーズをのせて焼く、というような料理。まさに、オーブンがなければできない料理である。

 このときのことが、なぜとくべつな記憶になっているかといえば、これらの料理を作るための買いもの最中に、母とちょっとした喧嘩をしたからである。

 母が、私の買いものにいちいち、そうじゃないとかそれはまちがっているといった否定的コメントをよこすので、いらっとして、「私には私のやりかたがあるんだから口を出さないでほしい」というようなことを、言ったのだった。強い口調で言ったわけではないのだが、母は思いの外、傷ついたらしい。母は傷つくとくどくなる。「そうか、そうよね。もうひとり暮らしが長いものね。自分の方法があるわよね」といじましく言いつのり、料理を教えている最中もくり返していた。そうしてその日、料理を作るだけ作って、ほとんど食べずに帰っていったのだった。

 しかたなく私は友だちを呼んで、しめ鯖とイカめしと南瓜のグラタンで酒を飲んだ。

 そうして母はその後もねちねちと「あのときあなたは自分には自分のやり方があるって言ったのよね」と十年近く言い続けたのだから、本気で傷ついたんだと想像する。年齢的に遅いのは承知だが、あれは私の無意識なる親離れ宣言だったのだろうし、母にしてみれば子離れしてよ宣言だったのだろう。

 そんなわけで、その日の、宝蒸しではない南瓜グラタンは、とくべつな記憶なのである。

 こうして思い出してみると、二つの南瓜の記憶は、なんだかせつないながら、どことなく、滑稽でもある。その「せつないながら滑稽」って、ほくほくと甘くてやさしい南瓜の味と、なんだか似合っているようにも思えてくる。

 ふと思い出したが、魚喃キリコさんの漫画『南瓜とマヨネーズ』も、せつなくて滑稽な、忘れがたくいい漫画だったなあ。機会があれば、ぜひ読んでみてください。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。