大きな病気はしたことがなく、風邪も滅多に引かないのだが、貧血と低血糖でよく、へなへなと倒れたりしゃがみこんだりする。貧血は、十代から二十代のときがいちばんひどかった。電車で吊革につかまっているとき。アルバイトをしているとき。町を歩いているとき。なぜかかならず、外にいるとき、それはやってくる。
視界のなかにぽち、ぽち、と黒い点が見えてくる。この点ひとつひとつが、ぼわぼわと輪郭をにじませながら大きくなる。大きくなりきると視界は黒に染まる。気がつくと、親切なだれかが席や道ばたに座らせてくれている。少し座っていれば、すぐなおる。
ぽち、ぽち、の時点で「あ、きたな」とわかるのだが、点がふくらみきるまでがほんの数秒なので、対処できない。倒れるな、と思ったときにはもう倒れている。
ちなみに、低血糖は、黒い点の前に、いやな感じの汗がにじみ出して手が冷たくなるので、こっちのほうはまだ対処ができる。といっても、隣にいる友人に「もうすぐ倒れる」と告げたり、自分で車の邪魔にならないよう歩道に座ったり、する程度だが。
さて、貧血転倒が最多だったころ、だれもかれもが私に「レバーを食べろ」と言った。母も友人も医者も。「一日に焼鳥屋で売っている串一本食べれば充分だ、それでどれだけ貧血は改善されることか」と、言うのである。
そしてレバーは、私が一生食べることはないなと思っていた部位である。
それまでのほとんどが食べず嫌いだったが、レバーは違う。肉だし、レバニラ炒めなんて見るからにおいしそうなので、食べようとしたことが幾度かあった。が、生はあのにちゃにちゃが、焼いたものはあのモカモカが、どうにもだめだった。「こう調理すれば臭みなんかぜんぜんとれる」と、多くの人は言ったが、「食べられない」「苦手」というものって、臭みだけじゃないってレバー好きの人は思いもしないのだ。食感、見てくれ、それらだけで充分、食べられないし苦手になりうる。
二十代半ばのころ、泊まるところがなくて、うちに連泊している女の子がいたのだが、ある日帰ると、夕食を作ってくれていた。それがなんと、レバーのソース焼き。
「私、これ食べられないんだけれど……」とおずおず言うと、
「知ってる。だからこうすれば臭みも気にならずに食べられるかなと思って」と、にこにこしている。おかずその一品。レバーのみ。
私はこのとき、己のレバー嫌いを実感した。タダで何日泊めるのもかまわないし電話も好きなだけ使うのもかまわないし台所使うのもかまわないし油飛んでそのままにしておくのもべつにかまわない、でも、嫌いだって言っている人にレバー料理を出さないでほしい。本当に、レバーを無理矢理食べさせられるくらいなら、もう、ボーイフレンドを連れこんでくれちゃって二人で居候してくれたほうがまだましだ、と思った。
そのレバーのソース焼きとやらは、申し訳ないので無理して一口食べ、もちろん「オウ」となり、ぜんぶ残した。臭みがもっと気にならないようまた何か工夫されちゃたまらないと、しばらく考えたのち、滞在中の公共料金の半分くらい払ってほしいと言ってみた。彼女はすぐに、出ていった。帰ってレバー料理が待っていないことに、ほっとした。
そんなレバーだったのだが、じつは今、どちらかというと好物である。大をつけてもいい。大好物。
焼鳥屋ではかならずレバーを頼む。焼肉屋ではかならずレバ刺しを頼む。焼くレバーも頼む。居酒屋で白レバーなんて文字を見つけようものなら、真っ先にそれを頼む。レバーペーストも大好き、パンにつけずともそれだけで食べてしまう。レバカツも好き、レバニラも好き。
あるとき急に好きになった食材との出会いを、たいてい私は覚えているのだが、レバーだけは覚えていない。公共料金の半分を払えなんていじましいことまで言ってレバー料理を避けるほどだったというのに、いつ、どのように、どうやって、好きになったのか。気がついたら恋に落ちていた。気がついたら交際に至っていた。気がついたら深く愛していた。そんな感じで、レバーとは今に至っている。
焼鳥屋にたいする私の個人的評価は、レバーがおいしいかまずいかにかかっている。レバーがおいしければ、その店はもう焼き鳥の最高店に認定。
自分ちでレバー料理も作る。豚レバーは水につけて血抜き(あんまり長時間つけると、水っぽくなってしまう)。鶏レバーは葱の青い部分や生姜とさっと煮て冷水。これで下処理完成。あとはレバニラでもレバーの煮物でも、……なのであるが、じつは私の夫はレバーが食べられない。レバ刺しも焼き鳥のレバも白レバーもレバーペーストもだめ。その気持ち、わかるわかる、と思う私は、件の女友だちのように、無理矢理食べさせるようなことはしない。焼肉屋にいっしょにいってレバ刺しが食べたければひとりで平らげるし、白レバーもひとりで平らげる。おいしいのにナー、食べないなんてもったいなーい、なんて間違っても言いません。レバーがこれほど好きになっても、レバーが苦手だったときの苦手な感じを、未だに生々しく覚えていたりもするのである。だから、もっぱら家でレバー料理をするのは、ひとりのときのみ。
レバーのせいばかりではないと思うが、貧血転倒はまったくしなくなった。今多いのは低血糖で、これは対策として、チョコレートを常備しています。 |