以前、「鱧はじまりました」の貼り紙が出る料理屋のことを書いたが、つい数週間前に、「ふくはじまりました」に変わった。「ふぐ」じゃない「ふく」というところが、いい。よっしゃ、ふぐ食べなきゃ、という気持ちになる。
ふぐコースというものが世のなかにあると知ったのは、二十代の半ばすぎだ。単行本ができた打ち上げで、編集者が連れていってくれたのだ。ふぐのコースがあるふぐ料理屋にいくのは生まれてはじめてだった。
ふぐコースがふぐだらけで、びっくりした。ふぐ刺身ふぐ唐揚げふぐ鍋。
二十代半ばといえば、私はまだ偏食まっさかりのころ。しかも、食べることより酒を飲むことを重要視していた。はじめてのふぐコースはありがたかったが、しかし、「どうしてこんなに淡泊なものを、みんな高いお金出して食べたがるんだろう」と、正直、思った。ふぐよりも、はまちのほうがトロのほうが、特上カルビのほうがサーロインステーキのほうがありがたい年ごろだった。
しかしながら、私はこのふぐ宴席のことをじつによく覚えている。酒が入ると今し方のことも忘れる私にとって、この記憶は奇跡である。店は当然のこと、そのときいたメンバーも、話した内容もぜんぶ覚えている。クリスマスが間近で、編集者のひとりが私にプレゼントをくれたのだが、その中身も覚えている。
ちなみにこのときみんなで話していたのは、デートについてだった。四十代、三十代、二十代の編集者三人とデートについて語りだしたのだが、なんと二十代の私も交え、四人全員、ふつうのデートがどんなものなのか知らなかったのだ。年の違う私たち四人が知っているのは、ただ唯一、「異性と酒を飲みにいき、そのままどちらかの住まいに泊まる」ことがデートだと思っていた。そういうデートしかしたことがなかった。そうして「ふつうのデートってどんなのだろう」と、話し出したのである。
映画とか……というところまでは想像がついたが、ドライブとか、になるともうみんな頭を抱えた。車に乗ってどこにいくんだろう……と。今思えば、似たもの同士の会だったんだなあ。
その私たちもそれぞれ、二十代は四十代に、三十代は五十代になり、四十代はついこのあいだ定年した。あのときはじめてふぐを食べた私も、ふぐを食べない冬はないくらい、よく食べるようになった。
夏でもふぐは食べられるが、やはり冬である。そうしてあんなに淡泊な味なのに、べらぼうにうまい店と、そうでもない店があることが、次第にわかってきた。値段ではない。ここがみそ。やっぱりいちばんは、信用できる人からの、「どこそこのふぐはうまいらしい」という情報。
二十代ではわからなかったふぐの淡泊なおいしさも、ようやくわかるようになってきた。
が、それでも、思うのである。ふぐコースのなかでいちばんおいしいのは刺身でも唐揚げでもない、鍋後の雑炊だ! と。
鍋のあとの雑炊は、なんだっておいしい。水炊きだって、鱈ちりだって、寄せ鍋だって、みんなみんな、食材のうまみが凝縮されておいしくなるのだ。
そのなかでもふぐは格別だ! と私は声を大にして言いたい。
ふぐ鍋後の雑炊の、あの、清潔感があるのにしっかりと滋味深い、あっさりしているのにしっかりと芯のある味はどうしたことだろう。あれは、ふぐにしか出せない。ふぐじゃなきゃだめなんだ。
二十代のときよりふぐのおいしさがわかるようになったつもりだし、ふぐのうまい店はここ、と太鼓判を持って勧めることもできるけれど、それでも肉派最右翼の私は、本当にはふぐのおいしさはわかっていないのかもしれないと思うことがある。だってふぐ刺しのときからすでに、雑炊雑炊、カモン雑炊と思っているのだもの。ふぐ刺しも唐揚げも鍋も、もうぜんぶ、メインであるところの雑炊にいきつくための前菜くらいに思っているのだもの。雑炊が食べたいが為に、調節しながら鍋をちびちびつつくのだもの。
でも、そういうことってあるよなあとしみじみ思ったりする。
たとえば、人生初ふぐの席で話したデートについてであるが、映画を見る、ドライブをする、なんてことは、それはそれでたのしいが、真の目的ではないはずだ。もっともっと親しくなるために、そういう手順が必要というだけで、もしかしたら、デートだからという理由で、やむなく恋愛映画を見ているホラーマニアもいるだろうし、助手席でたのしそうなふりをしている鉄女もいるかもしれない。映画もドライブも、つまりはふぐ刺しでありふぐ唐揚げであり、ふぐ鍋だ。
たのしい。今日のこと一生忘れない。またデートしようね。でも、真の目的はもっとその先にある。
あのとき、「飲みにいって酔っぱらって相手のうちに泊まる」デートしかしたことがない各世代の四人がそろっていたが、それぞもしかして、「前菜はかっ飛ばして最初からふぐの味のしみこんだ雑炊を食べる」ような贅沢デートだったのではないか。
………なんだかたとえがちょっと、間違っている気がしないでも、ない。 |