アスペクト

今日もごちそうさまでした

角田光代
お肉は好きですか? お魚は好きですか? ピーマンは? にんじんは? 美味しいものが好き、食べることが好き、何よりお料理が好きな角田さんの食にまつわるエッセイがスタートです。

No.057 アボカドギャンブル

 昭和四十年代生まれの私に見慣れない食材はずいぶん増えたと、この欄でよく書いているが、アボカドは、見慣れない食材初期だ。子どものころはあまり見かけなかったけれど、二十代のときにはもう登場していた。(ちなみに、私にとって見慣れない食材後期は、アーティチョーク、ロマネスク、など。)

 みなさんの前にはどうのように登場したのかわからないけれど、私の前には、「わさび醤油で食べておいしい」姿で登場した。だから、プリンに醤油をかけて食べるとウニ味になるとか、キュウリに蜂蜜でメロン味とか、そんななんちゃって系だとばかり、思っていた。たしかにアボカドはわさびにも醤油にも合うし、食感もちょっとトロっぽい。

 黒くてごつごつした見かけ。皮を剥いてあらわれる緑色。ねちゃっとした手触り。偏食時代の私なら、まず敬遠し、試したとしても無理無理無理な食べものだと思うのだが、なぜか、最初から平気だった。ふつうにおいしいと思った。でも、なんちゃって系の食べものなんだろうなと思っていた。トロが食べたいのにお金がないときにやむなくわさび醤油で食べるような。

 違うと気づくのはしばらくのち。わさび醤油じゃなく、ごくふつうにサラダで食べて、あら、アボカドってアボカドとしておいしいのね、と知ったのだ。しかもものすごい栄養豊富。ビタミンミネラル、食物繊維まで豊富、しかし高カロリーだから食べ過ぎ禁物。

 皮を剥いてそのまま放置していると、すぐに変色してしまう。レモン汁を振りかければきれいな緑色のまま。茹でた海老とマヨネーズで和えたサラダにしてもおいしいし、まぐろとユッケ風にしてごはんにのせて食べてもおいしい。チーズをのせて焼いてもいい。海老や刻んだゆで卵と春巻きの皮で包んで揚げてもいい。

 メキシコを旅したときは、ワカモレがおいしかったなあ。ハラペーニョやトマトや玉葱、香菜とともにアボカドをすりつぶしたペーストで、トルティーヤやタコスにつけたりはさんだりして食べるんだけれど、ステーキのつけあわせに出てきたこともあった。たぶんずいぶんな高カロリー料理なのだろうけれど、しっかりした噛みごたえの肉と、とろーりとしてちょびっと辛いこのディップはものすごくよく合った。

 スペイン語のメニュウが読めず、いつも勘で頼んだり、あるいは屋台で食べたりしていたから、正確な名前がわからないのだけれど、トルティーヤに肉や野菜を巻いたロールサンドイッチ風のものにこのワカモレが入っていたり、表面をぱりぱりに焼いたチキンをピタに挟んだのにこのディップをかけたり、けっこういろんなところでお世話になった。

 こうして書いていて気づくのは、アボカドっておいしいのに料理の手間があんまりかからない、ということだ。

 そもそも切って醤油だけでおいしいのだし、あのワカモレだって、複雑な味のわりにはかんたんにできる。

 でも、アボカドを買うときって、ものすごーく勇気が要りませんか。

 高カロリーの故ではない。ちょうどいいジャスト熟が、わかりづらいのだ。

 私は子どものころから、商品をやたらに触るなと厳しく躾けられてきた。野菜を触ってはいかん、パック入りの肉を押してはいかん、桃なんか言語道断で触るべからず。それが刷りこまれていて、触るのに抵抗がある。長年の経験から、桃は触らずともおいしいのを買えるようになった(でも失敗はあるが)。でも、アボカドは無理。

 たいていアボカドに窓つきシールがついていて、「この色が最適」と窓のなかの色を参考にするようになっているけれど、あれを参考にしてアボカドを買う人っているんだろうか。いや、きっといるんだろう。私はしない。できない。だって、全体的にその窓の色のアボカドっていうのは滅多になくて(だから窓つきシールなわけだが)、一部はその窓のなか色だけど、そのほかは緑っぽかったりもっと黒っぽかったり、する。

 そんならどうするかというと、私は罪悪感を覚えながら、そ、と握るのである。あくまで、そ、である。へこんだりしないよう、そ。その「そ」で、やわらかーい感触が伝わってくれば食べごろだが、あんまりやわらかすぎるとダメになっている。これが本当にむずかしい。初期とはいえ見慣れない食材に属するものであるだけに、むずかしい。

 アボカドのまんなかにナイフを入れて、くるーっとまわし、ガチャガチャのカプセルの蓋を開けるようにぱかりと開けたとき、「まだ早かった」「遅かった」と思うときの、あの落胆のすさまじさはどうだろう。私は本当に、自分でも呆れるくらい深く落ちこむ。あーあー、あーあーあーもう。という気分になる。だって、アボカド、代用きかないから、作ろうと思っていた料理をあきらめるか、もう一個買ってくるしかないのだ。しかももう一個買ってきたって、おんなじことかもしれない。

 こういう理由で、アボカド大好きなのだが、その好き度と買う頻度は比例していない。

 いつだったか、自然食品のスーパーマーケットで、まだ若いおにいちゃんがレジを打っていたのだが、かごのなかに入っていたアボカドを触り、「これ、ダメになってると思うんで、交換してきていいスか」と言い、ターと走ってべつなものと変えてくれたことがあった。すごい。感動した。そのプロ根性もさることながら、かごから出しただけで熟れ具合がわかる、その感度に。

 私もアボカド専用の感度がほしいなあ。そうしたらもっとしょっちゅうアボカドが食べられる。カロリーはこわいけどね……。

No.058 加齢とわさび

 子どものころはだれしも抜いて食べていたのに、いつのまにか食べられるようになっているのが、わさび。このわさび、年々、じわじわと、食材としての重要度を上げていくような気がする。

 十代、二十代のころは、わさびなんて単なる調味料のひとつ、くらいにしか思っていなかった。その調味料が、醤油やソースほどに食材の味を左右するとも思っていなかった。醤油ひとつで料理の味はがらりと変わるが、わさびにそんな力があるはずもないと信じていた。当然わさびに興味もなく、わさび本体がどんな形状かも知らず、賞味期限の切れたチューブわさびを私は平気で使っていた。

 だから、二十代のとき、年配の編集者に鮨屋に連れていってもらい、彼が、「ぼくは鮨屋に入ってわさびが市販のもの(つまりチューブわさび)だと、何も頼まずにすぐ出ちゃうんだ」と言ったときは、心底びっくりした。え、じゃあなんならいいの? なんならいいの? とあわてふためいて訊いたくらいだ。もちろん彼の連れていってくれたその鮨屋のわさびは、生わさびだった。

 たぶんこのときだ、生わさびとそうでないものを私がはっきりと認識したのは。

 とはいえ、もちろん私がその人をまねて、生でないわさびを出す鮨屋を以後信用しなくなった、ということはない。

 しかし認識してみると、わさびは私のなかで、むくむくと存在感をもたげてきたのである。三十代になり、まわらない鮨屋にもいくようになると、客の絶えない鮨屋のわさびは百パーセント生わさび、ということもわかる。風味と味が、ぜんぜん違うことがわかってくる。まろやかで、あの独特の「つーん」感が奥ゆかしい。

 そして三十代半ば、私は唐突に、わさび漬けに開眼する。

 私の父親はわさび漬けが好物で、伊豆、熱海方面にいくと必ず買ってきていた。もらうことも多かった。晩酌時になめるように食べるそれを、子どものころにちょこっともらって、「オエー」となって以来、己の人生にはかかわりないと信じていたわさび漬け。

 六十代七十代が中心のメンバーと熱海の温泉に赴いた折、蕎麦屋に入り、蕎麦前にわさび漬け、かまぼこ、卵焼き、天ぷらと注文し、ぬる燗でちびちびつまんでいたときのこと。私は例によってわさび漬けなど無視して天ぷら、卵焼きを中心にちびちびしていたのだが、七十代のひとりが、「これ、うまいから食べるといいよ」と教えてくれたのが、かまぼこにわさび漬けをのせ、醤油をたらりと垂らす食し方。あんまりおいしそうなので、私もやってみた。鼻、つーんに醤油のあまさ、そこへぬる燗。くうううう。父よ、これか、これだったのか。内々で噛みしめるように思った。酒を飲めるようにならなければ、いや、酒の味がわかるようにならなければ、到達しないステージだったのだね、わさび漬けは。

 さらにその後、おいしいものの好きな女性編集者にやはり鮨屋に連れていってもらったところ、シメの巻きもので、彼女が「わさびだけ巻いた海苔巻き」を注文した。はじめて食べたんだけれど、これがまあ、さっぱりとしておいしい。

 その後、件の老齢グループでまた温泉旅行に出かけたとき、七十代の元文壇バー女将が持参してきたのがこの、「わさびだけ海苔巻き」。旅館の部屋で飲みながらつまんだが、やはり、酒に合う。わさびだけ? と最初は躊躇したけれど、知る人ぞ知る通海苔巻きなのだ、きっと。

 その女性編集者に紹介された居酒屋で、わさび飯というのも、食べた。こちらは緑色のわさびではなく、西洋わさびで、白い。炊きたてのごはんに、おろしたての西洋わさびをわーっと混ぜたものを、醤油をチト垂らして、食べる。

 これが、すごい! 鼻に、つーんどころとではない、どどーんとくる衝撃、でもうまい、風味と辛みが口いっぱい鼻腔いっぱいに広がって、うまい、うまい、でも調子にのってかきこむと、どどーんときて、涙が出てくる。

 おいしいのと、衝撃的なのと、辛いので、私たちはフハフハフハと涙を流し笑いながら一気に食べた。

 わさび飯、ジンギスカンのお店にときどきあって、見つけると注文しているが、あそこまで強烈なのはあんまりない。

 わさびパスタ、というのもある。広尾にある、フレンチをベースにした創作料理の店で食べたのだが、なんと具がわさびと上にかかった刻み大葉だけ。わさびだけ海苔巻きと原理として同じ。シンプルきわまれりのおいしさ。

 このレストランのシェフが、雑誌でわさびパスタの作り方を紹介していた。家庭用だからチューブわさびで可、とのこと。わさびと塩、無縁バターと昆布茶を混ぜたものに、茹でたパスタをからめて刻み大葉を上にのせる。それだけ。

 実際に作ってみたが、チューブわさびでもたいへんおいしくできた。でも、生わさびだったらもっとおいしいに違いない。

 と、気づいてみれば、加齢に従って、じょじょにその存在を大きくしていくわさびである。

 先だって、熱海にいった帰り、わさび漬けを買った。ふと思い立ち、わさび漬け海苔弁を作ってみた。ごはんの上にわさび漬けをぬり、醤油をつけた海苔をその上に並べる海苔弁。

 これはまずいです。不味い、ではなく、やばい、という意味のまずいです。飲まずにはいられない弁当になります。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。