子どものころはだれしも抜いて食べていたのに、いつのまにか食べられるようになっているのが、わさび。このわさび、年々、じわじわと、食材としての重要度を上げていくような気がする。
十代、二十代のころは、わさびなんて単なる調味料のひとつ、くらいにしか思っていなかった。その調味料が、醤油やソースほどに食材の味を左右するとも思っていなかった。醤油ひとつで料理の味はがらりと変わるが、わさびにそんな力があるはずもないと信じていた。当然わさびに興味もなく、わさび本体がどんな形状かも知らず、賞味期限の切れたチューブわさびを私は平気で使っていた。
だから、二十代のとき、年配の編集者に鮨屋に連れていってもらい、彼が、「ぼくは鮨屋に入ってわさびが市販のもの(つまりチューブわさび)だと、何も頼まずにすぐ出ちゃうんだ」と言ったときは、心底びっくりした。え、じゃあなんならいいの? なんならいいの? とあわてふためいて訊いたくらいだ。もちろん彼の連れていってくれたその鮨屋のわさびは、生わさびだった。
たぶんこのときだ、生わさびとそうでないものを私がはっきりと認識したのは。
とはいえ、もちろん私がその人をまねて、生でないわさびを出す鮨屋を以後信用しなくなった、ということはない。
しかし認識してみると、わさびは私のなかで、むくむくと存在感をもたげてきたのである。三十代になり、まわらない鮨屋にもいくようになると、客の絶えない鮨屋のわさびは百パーセント生わさび、ということもわかる。風味と味が、ぜんぜん違うことがわかってくる。まろやかで、あの独特の「つーん」感が奥ゆかしい。
そして三十代半ば、私は唐突に、わさび漬けに開眼する。
私の父親はわさび漬けが好物で、伊豆、熱海方面にいくと必ず買ってきていた。もらうことも多かった。晩酌時になめるように食べるそれを、子どものころにちょこっともらって、「オエー」となって以来、己の人生にはかかわりないと信じていたわさび漬け。
六十代七十代が中心のメンバーと熱海の温泉に赴いた折、蕎麦屋に入り、蕎麦前にわさび漬け、かまぼこ、卵焼き、天ぷらと注文し、ぬる燗でちびちびつまんでいたときのこと。私は例によってわさび漬けなど無視して天ぷら、卵焼きを中心にちびちびしていたのだが、七十代のひとりが、「これ、うまいから食べるといいよ」と教えてくれたのが、かまぼこにわさび漬けをのせ、醤油をたらりと垂らす食し方。あんまりおいしそうなので、私もやってみた。鼻、つーんに醤油のあまさ、そこへぬる燗。くうううう。父よ、これか、これだったのか。内々で噛みしめるように思った。酒を飲めるようにならなければ、いや、酒の味がわかるようにならなければ、到達しないステージだったのだね、わさび漬けは。
さらにその後、おいしいものの好きな女性編集者にやはり鮨屋に連れていってもらったところ、シメの巻きもので、彼女が「わさびだけ巻いた海苔巻き」を注文した。はじめて食べたんだけれど、これがまあ、さっぱりとしておいしい。
その後、件の老齢グループでまた温泉旅行に出かけたとき、七十代の元文壇バー女将が持参してきたのがこの、「わさびだけ海苔巻き」。旅館の部屋で飲みながらつまんだが、やはり、酒に合う。わさびだけ? と最初は躊躇したけれど、知る人ぞ知る通海苔巻きなのだ、きっと。
その女性編集者に紹介された居酒屋で、わさび飯というのも、食べた。こちらは緑色のわさびではなく、西洋わさびで、白い。炊きたてのごはんに、おろしたての西洋わさびをわーっと混ぜたものを、醤油をチト垂らして、食べる。
これが、すごい! 鼻に、つーんどころとではない、どどーんとくる衝撃、でもうまい、風味と辛みが口いっぱい鼻腔いっぱいに広がって、うまい、うまい、でも調子にのってかきこむと、どどーんときて、涙が出てくる。
おいしいのと、衝撃的なのと、辛いので、私たちはフハフハフハと涙を流し笑いながら一気に食べた。
わさび飯、ジンギスカンのお店にときどきあって、見つけると注文しているが、あそこまで強烈なのはあんまりない。
わさびパスタ、というのもある。広尾にある、フレンチをベースにした創作料理の店で食べたのだが、なんと具がわさびと上にかかった刻み大葉だけ。わさびだけ海苔巻きと原理として同じ。シンプルきわまれりのおいしさ。
このレストランのシェフが、雑誌でわさびパスタの作り方を紹介していた。家庭用だからチューブわさびで可、とのこと。わさびと塩、無縁バターと昆布茶を混ぜたものに、茹でたパスタをからめて刻み大葉を上にのせる。それだけ。
実際に作ってみたが、チューブわさびでもたいへんおいしくできた。でも、生わさびだったらもっとおいしいに違いない。
と、気づいてみれば、加齢に従って、じょじょにその存在を大きくしていくわさびである。
先だって、熱海にいった帰り、わさび漬けを買った。ふと思い立ち、わさび漬け海苔弁を作ってみた。ごはんの上にわさび漬けをぬり、醤油をつけた海苔をその上に並べる海苔弁。
これはまずいです。不味い、ではなく、やばい、という意味のまずいです。飲まずにはいられない弁当になります。 |