アスペクト

今日もごちそうさまでした

角田光代
お肉は好きですか? お魚は好きですか? ピーマンは? にんじんは? 美味しいものが好き、食べることが好き、何よりお料理が好きな角田さんの食にまつわるエッセイがスタートです。

No.059 林檎と甘え心

 近くにありすぎて存在感がないものの代表ではないか、林檎。いや、そんなことを思うのは私だけかもしれない。苺が出まわると、「あー、もう春だ、苺苺」とわくわくする。メロンをいただくと「やったーメロン!」とどきどきする。タネあり葡萄だって、「そうだ私葡萄が好きだった」としみじみする。

 でも林檎は、なんとも思わない。ごめんなさい、でも、なんとも思わない。

 林檎の旬は冬だと思うけれど、一年じゅう出まわっている。私がうーんとちいさいころからおんなじかたちで出まわっている。種類があるのは知っているが、その種類すら覚えようとしたためしがない。私はしゃりしゃりと溶けるような林檎が好きだが、それがなんというのかも知らず、適当に買って、食べて、「あーあ、はずれ。しゃりしゃりじゃない」と思ったりする。ごめんなさい林檎。

 十七歳のとき、家庭科の授業ではじめて包丁を握った私でも、林檎の皮は最初からうまく剥けた。どのようにも剥けるのだ。丸のままするする剥いてもよろしいし、切り分けてから剥いてもよろしい。うさぎの耳を残してもよろしい。

 そのかんたんさが、なんだろう、「よし、食べるぞ」という気にさせてくれなくて、実家を出てからというもの、滅多に食べない果物の、滅多に食べないナンバーワンほどにもなっている。かんたんなのに、面倒くさい、というのもあると思う。塩水につけたりしないと茶色く変色してしまうのも、なんか、いやだ。

 そして私は料理は好きだが菓子作りにはまったくもって興味がない。アップルパイだの焼き林檎だの、だから作ろうと思ったことが一度もない。加熱してある林檎を異様に好きな人がいるけれど、私はそもそもあんまり好きではない。

 料理に林檎を使う人もいる。友人宅で、はじめて生の林檎の入ったサラダを食べたときは、衝撃的だった。ピザにパイナップルがのっているのを見たときと双璧くらいの。パイナップルのピザは「げー」と思ったが、サラダの林檎は「頭がよさそう」だと思った。この人はなんと知性的なサラダを作るのか、と。そのサラダは実際知性的においしかったんだけれど、やっぱり、自分で作るには知性的すぎて、その後真似したことはない。

 カレーにすった林檎を入れる人もいるらしいけれど、私はそれもやったことがない。やろうと思ったこともない。

 なーんだ、林檎、きらいなんじゃん、と書いていて自分で言いたくなるが、それが本当に申し訳ないことに、嫌いではないんだな、林檎。

 焼いてなくてサラダにもなってなくて、ただ切っただけの林檎が好きだ。しゃりしゃり溶けるものではないはずれの林檎だって、嫌いなんかじゃない。

 だれかが剥いてくれて、真ん中の芯の部分も取り除いてくれて、フォークか楊枝まで添えてくれて、「はいどうぞ」と出してくれれば、私は躊躇なく食べる。ぜんぶ食べる。そして思う、「ああやっぱり林檎っておいしいな」と。

 林檎は百薬の長だとか、一日一個で医者いらずだとか言われるくらい、えらい果物であることをそういうときに思い出し、よし、林檎、こんなにおいしいんだから一日に一個は食べよう、と思ったりする。朝食のデザートにつけよう。とか。夜、食後の酒をやめて林檎食べよう。とか。整腸作用があるらしいから、私の大好きな言葉デトックスにいいし、しかもポリフェノールが豊富だからワインじゃなくて林檎でいいじゃん。と思うのだ。

 でも翌日、果物屋さんの店頭にいくと、やはり目がいくのは林檎より苺だったり、グレープフルーツだったりする。あまりに身近すぎて、見えないのだ、物理的に林檎の姿が。

 そんな林檎だけれど、発熱時のすり林檎は夢のようにおいしい。

 私は子どものころからほとんど風邪をひかず熱も出さなくて、病気になるとだからその非日常に「やった」と思ったりする。子どものころは、風邪で熱が出るとなんでもほしいものを与えられたから。アイスにメロン、本も漫画も。

 けれどいよいよ熱が三十八度を過ぎると、頭が朦朧としてきて、漫画も本も読めなくなり、アイスにスプーンを入れる気力も、メロンをおいしいと思う余裕もなくなる。そういうとき、すったばかりのひんやり冷たい林檎がいちばん、身にしみておいしい。しかもすってあるところが、なんというか非日常満載で、それもうれしい。

 ああ、今、書いていてわかった。林檎って、自分で剥いたり自分ですったりするんじゃなくて、だれかがやってくれたほうがきっとおいしい果物なのだ。

No.060 よそゆきと部屋着兼用、菜の花

 中央線に乗っていて、東中野を通りかかったとき、窓の下部に真っ黄色の菜の花、上部に薄桃色の桜という景色が陽射しを受けてしばらく続き、私は放心したようにそれを見つめて、神さまってすごい、と思った。二十歳くらいのときだ。なぜ神さまが出てきたのかというと、その配色の妙が、人間業と思えなかったからだ。神さま級の色彩感覚だと思ったのである。

 その菜の花のつぼみを食べようなんて、いったいだれが考え出したのか。

 ともあれ、だれかが考えてくれたから、春先に私たちは菜の花を食べることができる。

 山菜と同様、菜の花も春先にしか出まわらない。そのわりには、山菜が喚起させる「急がなきゃ感」が、ない。急いで食べなきゃ終わっちゃう、というあの焦燥感。たぶん、菜の花はほかのもので代用可能だからなんじゃないか。かき菜や小松菜なんかで。

 しかしながら八百屋さんの店頭に菜の花が並ぶと、なんだかうれしい。春がきたうれしさもあるが、それに勝るのはかんたんに一品増えるよろこびである。

 菜の花のレシピはほんとうにかんたんだ。菜の花はアクが少ないので、私は茹でずに蒸し煮にして使っている。おひたしでも、辛子醤油和えでも、はたまたわさび醤油和えでも、胡麻和えでも、白和えでも、汁物でも、さっとできる。炒める場合は、茹でずにそのまま炒めてなんの問題もない。というか、歯ごたえがしっかり残っておいしい。そのかんたんさのわりに、見栄えがよく、いろどりがきれいな上、時間がたっても変色しない。あの深遠なる緑が食卓にあるだけで、華やかになる。

 しかも、なんにでも合ってくれるではないか。炒飯でもちらし寿司でも、パスタでも。ほんとうに、やさしい野菜だよなあ。

 以前、青果納品業を営む野菜のプロが主催するやさい塾に、野菜について学びにいったことがある。このときに、青菜のピーナツ和えを習った。

 青菜はなんでもいいので、三種類用意する。菜の花、アスパラ菜、かき菜、など。それらを茹でて、塩をひとつまみ、ごま油をひとまわしかけて、十分間、置く。

 ピーナツと胡麻をすってペースト状にして、そこに水、塩、お酢を入れ、先ほどの青菜を入れてまぜる。このとき、手で混ぜること。

 「手で混ぜる」が、私には何やら衝撃的だった。そっか、手で! なんだか妙に納得したのである。

 以来、和えものを作るときは、菜箸でもなく、スプーンでもなく、へらでもなく、手で混ぜるようにしている。気のせいかも知れないけれど、やさしいまるい味になる。

 ブロッコリーは弁当向きだと以前書いたことがあるが、菜の花もまた、変色しないし色鮮やかで、弁当に向いている。そして同時に、パーティ料理に向いている。これはすごいことだ。部屋着とイブニングドレスと併用できる一着のようではないか。

 私はひとり暮らしをはじめた二十代初期から一貫して家宴会が好きで、頻度こそ変われどずっとやり続けているのだが、この二十年で気づいた重大事が二つある。家宴会の鉄則といってもいいと思う。

 量より品数、というのがひとつ。おなじものを大量に出すより、違う料理を少しずつ出したほうが、みんな飽きがこずに食べられる。

 人は私が思うより野菜を好む。というのが、ふたつ目。

 どうしても私は「おもてなしイコールメイン料理」と思ってしまう。肉料理、魚料理を、だから多く並べてしまうのだ。たとえばすき焼き、アスパラガスの肉巻き、刺身をのせた中華サラダ、アボカドとまぐろのサラダ、生ハム盛り合わせ、う巻き卵、なんてメニュウを平気で組んだりする。どの料理にも、肉か魚かを入れなければ、お客さんに失礼なのではないかと思っているわけである。

 が、そんなことはなくて、私以外の人は私が思うよりよほど野菜が好きなのだ。野菜スティックのようなものを出しておくと、すぐになくなる。洗っただけのプチトマトを出しておくと、すぐなくなる。肉で巻いたアスパラは余るのに、茹でて塩しただけのアスパラはすぐになくなる。こんなかんたんなもの、みなさんに出すのはしのびない、と思うものほど、みなさんよくお食べになる。

 そんなときに、菜の花。菜の花の辛子和えなんかを一品添えておくと、やはり華やか、そしてみんな箸休めのようにつまんでくれる。菜の花だけでは申し訳ない、と思う私は酒蒸ししたささみや蟹缶なんかをついつい入れたりするが、しかし入れなくたって人気者なのだ。

 パーティでも弁当でも、家ごはんでも活躍してくれる菜の花は、地味だけど、陰の立て役者なのである。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。