中央線に乗っていて、東中野を通りかかったとき、窓の下部に真っ黄色の菜の花、上部に薄桃色の桜という景色が陽射しを受けてしばらく続き、私は放心したようにそれを見つめて、神さまってすごい、と思った。二十歳くらいのときだ。なぜ神さまが出てきたのかというと、その配色の妙が、人間業と思えなかったからだ。神さま級の色彩感覚だと思ったのである。
その菜の花のつぼみを食べようなんて、いったいだれが考え出したのか。
ともあれ、だれかが考えてくれたから、春先に私たちは菜の花を食べることができる。
山菜と同様、菜の花も春先にしか出まわらない。そのわりには、山菜が喚起させる「急がなきゃ感」が、ない。急いで食べなきゃ終わっちゃう、というあの焦燥感。たぶん、菜の花はほかのもので代用可能だからなんじゃないか。かき菜や小松菜なんかで。
しかしながら八百屋さんの店頭に菜の花が並ぶと、なんだかうれしい。春がきたうれしさもあるが、それに勝るのはかんたんに一品増えるよろこびである。
菜の花のレシピはほんとうにかんたんだ。菜の花はアクが少ないので、私は茹でずに蒸し煮にして使っている。おひたしでも、辛子醤油和えでも、はたまたわさび醤油和えでも、胡麻和えでも、白和えでも、汁物でも、さっとできる。炒める場合は、茹でずにそのまま炒めてなんの問題もない。というか、歯ごたえがしっかり残っておいしい。そのかんたんさのわりに、見栄えがよく、いろどりがきれいな上、時間がたっても変色しない。あの深遠なる緑が食卓にあるだけで、華やかになる。
しかも、なんにでも合ってくれるではないか。炒飯でもちらし寿司でも、パスタでも。ほんとうに、やさしい野菜だよなあ。
以前、青果納品業を営む野菜のプロが主催するやさい塾に、野菜について学びにいったことがある。このときに、青菜のピーナツ和えを習った。
青菜はなんでもいいので、三種類用意する。菜の花、アスパラ菜、かき菜、など。それらを茹でて、塩をひとつまみ、ごま油をひとまわしかけて、十分間、置く。
ピーナツと胡麻をすってペースト状にして、そこに水、塩、お酢を入れ、先ほどの青菜を入れてまぜる。このとき、手で混ぜること。
「手で混ぜる」が、私には何やら衝撃的だった。そっか、手で! なんだか妙に納得したのである。
以来、和えものを作るときは、菜箸でもなく、スプーンでもなく、へらでもなく、手で混ぜるようにしている。気のせいかも知れないけれど、やさしいまるい味になる。
ブロッコリーは弁当向きだと以前書いたことがあるが、菜の花もまた、変色しないし色鮮やかで、弁当に向いている。そして同時に、パーティ料理に向いている。これはすごいことだ。部屋着とイブニングドレスと併用できる一着のようではないか。
私はひとり暮らしをはじめた二十代初期から一貫して家宴会が好きで、頻度こそ変われどずっとやり続けているのだが、この二十年で気づいた重大事が二つある。家宴会の鉄則といってもいいと思う。
量より品数、というのがひとつ。おなじものを大量に出すより、違う料理を少しずつ出したほうが、みんな飽きがこずに食べられる。
人は私が思うより野菜を好む。というのが、ふたつ目。
どうしても私は「おもてなしイコールメイン料理」と思ってしまう。肉料理、魚料理を、だから多く並べてしまうのだ。たとえばすき焼き、アスパラガスの肉巻き、刺身をのせた中華サラダ、アボカドとまぐろのサラダ、生ハム盛り合わせ、う巻き卵、なんてメニュウを平気で組んだりする。どの料理にも、肉か魚かを入れなければ、お客さんに失礼なのではないかと思っているわけである。
が、そんなことはなくて、私以外の人は私が思うよりよほど野菜が好きなのだ。野菜スティックのようなものを出しておくと、すぐになくなる。洗っただけのプチトマトを出しておくと、すぐなくなる。肉で巻いたアスパラは余るのに、茹でて塩しただけのアスパラはすぐになくなる。こんなかんたんなもの、みなさんに出すのはしのびない、と思うものほど、みなさんよくお食べになる。
そんなときに、菜の花。菜の花の辛子和えなんかを一品添えておくと、やはり華やか、そしてみんな箸休めのようにつまんでくれる。菜の花だけでは申し訳ない、と思う私は酒蒸ししたささみや蟹缶なんかをついつい入れたりするが、しかし入れなくたって人気者なのだ。
パーティでも弁当でも、家ごはんでも活躍してくれる菜の花は、地味だけど、陰の立て役者なのである。 |