アスペクト

今日もごちそうさまでした

角田光代
お肉は好きですか? お魚は好きですか? ピーマンは? にんじんは? 美味しいものが好き、食べることが好き、何よりお料理が好きな角田さんの食にまつわるエッセイがスタートです。

No.061 かわいや新玉葱

 新、がつくとべつものになる。というのが私の持論。

 新ごぼうとごぼうは違う。新じゃがとじゃが芋は違う。そして新玉葱と玉葱も、違うのである。「新」が出るのは三月から五月くらい。「新」好きの私は、このあいだ、ごくふつうに生活しているように見えて、内心たいへん焦っている。

 三月から五月、食べなきゃならないものが多すぎる。空豆にウド、タラの芽にふきのとう、筍。これら、あーっという間に八百屋さんの店頭から消えていくので、その短い期間にがしっと食べておきたいのである。

 玉葱について、私はとくに何も感じたことがない。好きも、嫌いも、考えたことがない。そのくらい日常になじんだ野菜で、たいていいつも、冷蔵庫にいる。そうしょっちゅう食べている自覚がないが、しかし冷蔵庫にいないほうが不自然で、いないと、「ちっ」と思う。「なんだよ、留守かよ」みたいな気持ち。

 でも、玉葱が何をしてくれているかなんて、思いを馳せたこともない。なぜ、南瓜、にんじん、ブロッコリー、ほうれん草等各種ポタージュに玉葱が必要であるのか。なぜカレーにもシチュウにもグラタンに欠かせないのか。なぜポテトサラダに入れるとキュッと締まった味になるのか。余っているからという理由だけですりおろして作ったドレッシングがなぜおいしいのか。玉葱はかように陰で活躍しているが、たとえば玉葱が単体で奮闘している料理があまりにも少ないので、その威力を私は忘れてしまいがちなのである。

 でも、新玉葱は違う。

 ポタージュスープを作るとき、新玉葱はもったいなくて炒められない。カレーやシチュウやグラタンにも、もったいなくて使えない。そもそも炒めたり煮たり、なんだかそれだけでもったいない。ポテトサラダに入れるのも、生だけど、かすかにもったいない。すりおろしドレッシングは、まあ許容範囲だが、しかしそれも「余ってるから」作るようなものではない、「新玉葱でおいしいドレッシングつーくろっと」といったような、華やかな気持ちでとりかかるものだ。

 「新」がつくだけでこんなにも格が上がる玉葱って、いったいなんなのか。

 しかし、新玉葱はやっぱりとくべつだ。

 かたちがかわいい。皮がまだ茶色くなっておらず、こびりついた土の向こうに白が透けて見える。アラジンと魔法のランプみたいなかたちなのも、かわいい。

 けっこう日持ちする玉葱とおなじ感覚で保存していると、あっという間に悪くなってしまうのも、なんというか、すねているみたいでかわいい。

 この、何をしても「かわいい」感じって、新生児といっしょである。さすが「新」。

 新玉葱の玉葱との最大の違いは、辛みの少なさ。きりりと涼やかで、ほんのりと甘い。いちばんおいしいのは、やっぱり生食、サラダだと思う。

 ふだんサラダの必要など感じたこともなく、食べたいと思ったこともない私だが、新玉葱はサラダで食べたい。わかめやじゃこと和えて和風サラダ、オイルサーディンにのせて洋風サラダ、ごま油、酢、醤油、豆板醤のドレッシングにして中華サラダにもなる。

 居酒屋で飲んだあと、男友だちのおうちに数人で遊びにいったとき、彼が、新玉葱を薄くスライスしたものに、鰹節をのせ醤油をまわしかけただけの、かんたんつまみを出してくれたのだが、これはちょっと感動した。この人、なんかかっこいいわ、と思った。手早くできて、口のなかがさっぱりする。すでに食べ終えたあとだから、このくらいのあっさり感がちょうどいい。しかも、酒に合う。

 これが、玉葱だったらどうだろう。「ふうん」で終わったんじゃないか。水にさらしてなければちょっと辛いだろう、水にさらしてあれば「やけにまめな男だな」と思うだろう。どちらも彼自身への評価に影響はない、単なる感想にすぎない。新玉葱の、あのみずみずしいしゃりしゃり感は、そのままなんとなく粋さにつながるが、玉葱の、辛っぽかったりざくざくしていたりする感じは、なぜか無粋寄りになり、「トマトにかけるとか、なんかないわけ、芸が」「ウインナと炒めるとかさー」「ツナ缶と和えるとかさー」と、図々しくも思ってしまいそうである。

 玉葱を弁護して言えば、冷蔵庫になくて困るのは絶対的に新玉葱ではなく玉葱である。どちらが応用がきくかといえば絶対的に玉葱である。どちらの恩恵をより受けているかといえば絶対的に玉葱である。春先にしかないのが玉葱で、年じゅうあるのが新玉葱だったら、多くの人が困る。

 これは新玉葱を赤ちゃんに、玉葱を中年として考えれば、よくわかる。世のなか、中年だらけだったら、なんだか真っ茶色なイメージだが、それでも最低限のことはまわっていく。赤ちゃんだらけだったら、赤ちゃんたちが困る。

 そして赤ちゃんたちは、その存在だけでかわいい赤ちゃん期をあっという間に終えて、幼児になり、児童になり、少年少女になり、そしてやがて、茶色くふてぶてしく、いないと困る中年へと成長していくのであります。私もいなくては困る中年になれるよう、静かに地味にがんばりたいと思います。

No.062 蕎麦情熱

 小学生のとき、私も偏食だったけれど私の仲良しさんは輪をかけて偏食だった。ごはんに塩をかけて食べる、ということを私はこの子に教わった。おかずのぜんぶが食べられないとき、ごはんに塩をかけてそれだけ食べるのだ。

 この仲良しさんの家に遊びにいって、ごはんどきになると、いつも蕎麦が出た。仲良しさんはいろんなものが食べられなくて、でも蕎麦だけは好物だったのだ。天ぷらも卵もない、ただのざる蕎麦を、よく食べていた。私も幾度かご相伴にあずかって、そうしてあるとき、唐突に、蕎麦が食べられなくなった。

 アレルギーではない。ただ、喉を通らなくなった。もしかして、仲良しさんの、蕎麦だけ食べるその様に、ちょっと辟易したのかもしれない。

 以来私はずーっと蕎麦を食べなかった。年越しはうどん。「太く長く」と言いつつ、ずっとうどん。

 蕎麦再開は、二十代半ばになってから。いつ、どのように再開したのかは覚えていないのだが、「あっ、蕎麦、食べられるようになった」と思ったことと、小学生のときの仲良しさんを思い出したことは、覚えている。

 蕎麦は食べられるようになってみれば、そうとうおいしい。そして蕎麦をおいしいと思うようになると、「蕎麦界」なるものの奥深さに気づく。

 あなたの周囲にもありませんか、蕎麦界。どこそこの蕎麦がおいしい、どこそこはてんでだめ、からはじまって、蕎麦はぜんぶつゆにつけるものではない、喉ごしをたのしむものだ、風味をたのしむものだ、音をたててすするものだとマナーに至るまで、いろんなあれこれがある。

 世のなかには肉の会だの鮨の会だのいろんな愛好会があって、そのなかに、蕎麦の会というのもある。一度、混ぜてもらったことがある。が、蕎麦界とその住人たちが奥深すぎて、一度の参加でもういいや、となった。みんな蕎麦を味わうことに重きをおいて、酔っぱらわないし、騒がないし、蕎麦をすすって「おいしーおいしー」と言い合わないし、うんちくをとうとうと話し合っているだけで、私にはちょっと合わない会であり界であった。

 私もおいしい蕎麦が好きだ。でも、あれこれうんちくを述べつつ食べるのは好きではない。

 年に一、二度、十人ほどで一泊の温泉旅行にいっているのだが、このメンバーがみな七十代六十代と高齢で、観光が大嫌い、目的地に着いたらすぐに蕎麦屋にいって一杯、一杯ののち温泉宿に直行、翌朝はチェックアウトするやいなや蕎麦屋にいって一杯、その後解散、という旅の仕方をする。この人たちは蕎麦好きだが、蕎麦界の住人ではないので、まことに気楽。蕎麦のおいしさとか、たのしみかたを、私はこの高齢者たちに教わった。

 まずビールで乾杯し、卵焼きやら板わさやら天ぷらやらのつまみをたのみ、熱燗を頼む。さんざっぱら飲んで、酔って、たのしくなって、ようやく蕎麦。わさびはつゆにとかすのではなく、蕎麦に直接ぬるようにつけたほうがおいしいとか、冷めた熱燗をちょろっと蕎麦にまわしかけて風味をよくするとか、そういったことをこの人たちに教わった。でもそんなこともしてもいいししなくてもいいし、つゆをたっぷりつけたっていいしつけなくたっていいし、音をたててすすってもすすらなくてもいいのだ。だいじなのは、おいしい蕎麦をおいしく食べる、ということのみ。

 そうして熱燗で酔った体に、そば湯で割ったつゆの、なんとしみわたることか。

 しかしながら私は、立ち食い蕎麦も嫌いではない。というか、むしろ、好き。

 立ち食い蕎麦は私にとって、長らく敷居の高い店だった。回転寿司といっしょで、入ってみるまでルールがわからず、ひとりでは入れない。だれか「通」の人に連れていってもらうべき店。

 幾度か男の子に連れていってもらって、とくにルールなどないと知って、ようやくひとりで入れるようになった。そのときのうれしさといったら!

 蕎麦屋では私は冷たい蕎麦しか食べないが、立ち食い蕎麦屋ではあたたかい蕎麦も食べる。あの、あましょっぱい濃い汁がどうしても飲みたいときがある。コロッケ蕎麦とか天たま蕎麦とか、油の浮いた汁なんか、とくに。

 かつてイタリアを旅していたとき、そこここに立ち食いパン屋があって、バゲット風のサンドイッチをサラリーマン風の男女が颯爽と食べ、去っていくのを見たとき、私はある感銘を受けた。

 忙しいときにさっと食べる、それはやっぱりサンドイッチのように乾いたものが望ましいのだ。なのに私たちは、あんな湿った、汁の滴るものを、立って食べている。忙しくて時間がなくて、急いでいるのに、でも私たちはサンドイッチでもにぎりめしでもなく、蕎麦を食べようとする。それってすごくないか。日本人の食にかける情熱はすごい。そう思ったのだった。

 ちなみに私は更級蕎麦より、黒っぽい無骨な田舎蕎麦が好きです。訊かれてないけど言いたくなる、蕎麦の好み。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。