「レストランや飲み屋や電車のなかで、他人の会話をよく聞いてますよね?」
と、よく言われるのだが、そんなふうに盗み聞こうとしているわけではない。電車のなかは騒々しいから、よほど大声の特殊な会話でないと耳に入ってこない。レストランや居酒屋は、ひとりでいることが多いので、勝手に入ってきてしまうことが多い。
当然ながら、にぎやかな店の会話などはまったく聞こえてこないが、そのような店にはひとりで飲みにはいかない。私がひとりでいくのは、こぢんまりした店のランチ、こぢんまりした飲み屋、である。どちらも、うるさくない店を選んでいる。音楽が大きくかかっている店や、客層が若くてにぎやかなところは、ひとりではなく友だちといく。
そんなわけなので、ほかのお客さんの会話というのは聞こうと思わなくても、聞こえてきてしまうのである。
先日も、近所の飲み屋に夕食がてらひとりで出かけた。最近できた、日本酒とワインの店である。ワインは日本産のワインしか置いていない。おつまみも、和食系(煮物や切り干し大根)と洋食系(豚肉のパテや魚のコンフィ)、両方ある。ちいさい細長い店で、カウンターが長く続き、奥にテーブル席が二つか三つくらい。
椎茸とパンチェッタの炒めものとポテトサラダ、グラスのワインを頼み、読みさしの本を開く。何人か、お客さんが入ってくるけれどみなひとり客。カウンターにそれぞれ座り、携帯電話をいじったり、お店の人と親しく話したりしている。国産のワインはあんまり飲んだことがないけれど、しっかりした重めのもの、とお願いして出てきたものは深くてとてもおいしい。料理も奇をてらっていなくて、ていねいすぎてもおらず、ちょっと男子的な調理で、気楽においしい。
三杯目のワインを飲みはじめるくらいのタイミングで、五人連れのグループが入ってきた。奥のテーブル席をくっつければ入れると、お店の人が案内する。テーブル席をあわせ、彼らはコの字型に座る。狭い店なので、奥のカウンターで飲んでいた私は、コの字の開いた部分に座る格好になって、入り口から見れば六人客のようなありさま。なんだか申し訳ないが(五人組に)、わざわざ立って移動するのも、嫌みっぽいような気がして、そのまま飲み続けることにした。
とはいえこの五人組、すでにどこかで食事をし、飲んできたらしく、私などにまったくかまわず、「白ワインはすでにしこたま飲んできたので赤でお願いします−」とお店の人に上機嫌でたのんでいる。
男性ひとり、女性四人。男性はスーツ、女性はさまざまな服装。みなさん三十代半ばくらい。だれがいちばん飲めるとか、飲んだときの失敗談とか、なごやかに話しているが、すでに飲んでいて声が大きいので、コの字の蓋になっている私には筒抜け。
そのうち「夫婦はどんなことで喧嘩をするか」という話題になった。未婚の女性が、既婚者たちに質問したのである。
ああ、なんといい質問だ! 私もその答えを聞きたいぞ。四杯目を飲みながら、私は心のなかでわくわくした。
みな、さまざまであった。若いときは警察沙汰になるほどの喧嘩をしたけれど今はもうしない、とか。友だちの前で夫をからかうつもりでけなして、あとでとんでもない喧嘩になった、とか。
すると黒一色の男性が、「男の怒りは状況だけど、女の怒りは時間」と言い出した。え、何ソレ何ソレ、と身を乗り出す彼女たちとともに、私も胸の内で「何ソレ」をくり返す。彼曰く、男の人は、ある状況「だけ」に対して怒る。彼女がみんなの前で自分を馬鹿にしたとか、約束を破ったとかいう、ひとつの状況に対して、である。でも、女性の怒りは、怒りという軸でずーっと過去からつながっている。だから、「ぼくの奧さんは、ぼくが水道の蛇口をぴったりしめないということで怒り出して、そのことで言い合っているうち、怒りの時間軸が過去に舞い戻って、転職したことを蒸し返して怒る」らしい。
フムフム、たしかになあ。そのときは「怒った」という実感がなくても、なんとなく心にこびりついていて、ほかのことを怒っているうち、「やっぱりあれ、気に入らない!」と、前のことに舞い戻り、「あれもあれも気に入らない!」と怒りの火は燃えさかり、「つまり、Aという悪い癖があるからBもCもDもへいきでやってしまうわけよ」と分析して、ぜんぶ怒る、ということは、私を含む女性には多いかもしれないなあ……、そういう怒りかたをする男性はいるかもしれないけれど、少ないよね……と、ついつい、コの字の蓋の位置から口を出さないように、注意しなくてはならなかった。
それにしても三十代の人の会話って、何気なく深くておもしろいなと思いつつ、ひとりお会計をして、帰った。 |