アスペクト

肉記


025 隠してはいるけれど

 辛いものを食べられない人にしたら、味覚障害を疑われるだろうほど、激辛好きである。とはいえ、なんでもかんでも激辛にして食べるわけではない。以前テレビで、ごはんにもおかずにも味噌汁にも唐辛子をかけて食べる人を見たことがあるけれど、あれはまさに舌とか内臓とか、どこかに異常があるのだろう。私はたんに、カレーとか、麻婆豆腐とか、「辛い」と認識されているものが、きちんと辛いとうれしい、というだけである。そして「きちんと辛い」の辛さてっぺんが、ごくふつうの人より、高いのである。

 この辛さてっぺんが一般より高い友人たちがいる。彼らはみな、ふだんは自分の辛さてっぺんの高さについて、隠している。激辛好きって、大食いほどには人から愛されないし、ストレスと関連づけられることもあるし、もっと悪い場合、それこそ味覚の障害や異常を心配されることもある。辛さてっぺんが高いということは、激辛好きの人間にはちょっと恥ずかしいことなのだ。だから黙っている。けれど、類は友を呼ぶの法則で、なんとなく相手の正体がばれるにつれて、集うようになる。集って、情報交換をし、辛さてっぺんの高い店をさがしては、みんなで乗りこむ。

 そのような会合をはじめて数年になるが、最近、つくづく思うのは、激辛料理を出す店というのは、案外少ないということ。カレーやラーメンは、激辛を謳う店が多いが、激辛の集いは飲み会が多いので、数十分で食事のすんでしまうカレー・ラーメン系は向かないし、そもそも、カレーやラーメン店は、往々にして激辛メニュウを「ゲテ」に分類している。さあ、辛さに挑戦だ! 当店は責任持ちません! みたいな謳い文句がその証拠。辛さは挑戦するものでもなく、責任問題に発展するようなものでもない。

 酒も飲めておいしい激辛料理、となると、本当に少ない。まず、料理がかぎられる。タイ料理か中国料理。ほぼこのどちらか。韓国料理は、激辛とはまったく違う。タイ料理、とくにタイ北部の料理は辛いけれど、甘さや酸っぱさ、またハーブの香りも重視された料理なので、やっぱりこの集まりの人たちにとっては「辛い」というよりは、「おいしい」になる。とくべつ辛くしてもらう場合は、お店の人にそのように言うほかない。

 中国料理は、地方によってたいへんに辛い。有名なのは四川料理だけれど、湖南料理も有名だ。東京にある店の多くは、そんなに辛くないように味を調整しているけれど、その地方出身の料理人による、じつに現地色の濃い辛さを味わえる店はいくつかある。池袋の知音食堂とか、本郷の栄児とか、銀座の孔家飯店、新宿の湖南菜館もなかなかに辛い。

 が、そのようにして、激辛で有名な店をひとめぐりしてしまうと、もうあとがない。同じ店を再訪することになる。激辛店は少ないのだなあと、実感する。

 辛さてっぺんには、どうやら分野がある。私は唐辛子のてっぺんは高いが、山椒がそうでもない。だから山椒が多用されていると、「辛い痛い辛い」となる。けれど世のなかには山椒の辛さてっぺんが高い人がいて、こういう人たちは、山椒どっぷりの麻婆豆腐でも汗一粒垂らさず、食べる。

 日本で辛い、というと、辛子とわさびといった、またべつの辛さになる。私はからしはだいじょうぶだけれど、わさびのてっぺんがそれほど高くない。わさびごはんがメニュウにある居酒屋やジンギスカン店がたまにある。あの緑色のわさびではなくて、山わさびという白いわさびのすったものを炊きたてのごはんにまぜたもので、ものすごく風味が高く、おいしいのだが、私は慣れることなく、「おいひい、おいひい」と涙と鼻水まみれになって言うことになる。

 とはいえ、からし専門店とか、わさび専門店とか、そっち方面の激辛店は聞いたことがない。たしかに、あんまり魅惑的な響きではないが、でも和系統の辛さてっぺんが高く、心からそのような店を所望している人もいるのではなかろうか。味覚は自由、そして味覚は果てしない。

026 クレームと大人げ

 隣町に串カツ屋ができた。立地が線路沿いなので、夕方以降に電車に乗ると店内が窓から見える。開店早々から、いつも混んでいる。なかなかの人気店のようだ。いってみようと思い立ち、私も早速、早い時間に出向いた。七時前なのに、店はすでにほぼ満席。

 大阪に本店のあるチェーン店らしい。ソース二度づけ禁止と、メニュウにも書いてあるし店員さんも説明してくれる。串は一本百円から二百円と、たいへんに安い。しかも衣が薄くてさくさくで、おいしい。

 東京で串揚げというと、コース料理になるほうが一般的だと思う。席について「おまかせ」を頼むと、自動的に串が出てきて、おなかいっぱいになったらストップをかける。その串も、豚とか蓮根とか椎茸といった、一種の素材のみではなくて、海老のすり身をキスで巻いたものとか、豚肉で紫蘇と梅をくるんだものとか、子持ち昆布を湯葉で巻いたものとか、なかなか凝ったものが多い。ものすごく高級料理ではないが、とりあえずコース料理なので、格安、というイメージもない。

 ソース二度づけ禁止と謳うようないわゆる「串カツ屋」は、東京ではそんなに多くない。でも、こんなにおいしくて、こんなに安いんだから、そりゃあ流行るよなあ、と満席の店内を見まわして実感する。

 以来、私はこの店に取り憑かれたようになって、ことあるごとに、串カツを食べにいける機会を狙い、先だって、またしてもこの店にいった。前回と同じくほぼ満席で、カウンター席に通された。カウンター席で飲み食いしていると、内側の様子がよくわかる。働いている人が全員、若い。若くて元気がよくて、学園祭の準備でもしているかのようにたのしそうである。

「たのしそうでいいねえ」と連れに言うと、「揚げ作業はハイになるのではなかろうか」とのこと。たしかに、もっともたのしげなのは揚げている若い男の子たちだ。

 若くて元気のいい人たちがたのしそうに働いていると、こちらも妙に気持ちがいい。店内全体も、気分よくリラックスして、笑い声があちこちからあがっている。

 と、奥のカウンターから、ちゃぶ台をひっくり返したようなものすごい音がした。満席の客全員が驚いてそちらを見ると、背広姿のひとり客が立っている。彼の前のカウンターでは、すべての食器がひっくり返って、料理が散らばっている。店内は一瞬にして静まりかえる。背広男は店員に、店長を呼ぶように命じている。店長(これまた若い)があらわれると、彼は立ったまま、極力声を荒らげないようにして、でも、何ごとかを言い連ねはじめた。何か気に入らないことがあって、クレームをつけているようである。

 このクレームが、長い。店長が謝っているのに、ねちねちねちねちと続く。もともと気楽で庶民的でにぎやかな店で、そこだけ、異様な雰囲気になる。一度壊れた雰囲気はなかなかもとどおりにならず、笑い声もなりをひそめ、みんなちらちらと背広姿と店長のやりとりを見守りつつ、飲んでいる。

 漏れ聞こえる会話によると、このひとり客は、店員を呼んでもなかなかこなかったとか、返事のしかたが悪かったとか、そのようなことで怒っているらしい。しかしながら、テレビまでついているこんなにぎやかな店で、客も従業員も声をはりあげながら注文して復唱して、てんてこまいで「ちょっとお待ちくださーい」とジョッキで両手をふさがれた店員が幾度も叫んでいる、下はむき出しのコンクリート、ガラス戸開け放し、という半屋台のような店で、そんなふうに怒るのはハタから見ていてどこか場違いで、痛々しくすらある。

 お店側の対応や飲食物に何か問題があって、それを客が指摘するとき、それ相当のやりかたがある。客全員の注目を集めて怒りたいなら怒鳴り散らせばいいし、本気で問題を解決したいなら静かに話し、謝罪なのか弁償なのか求めるところを早くはっきり言ったほうがいい。どうでもいい店ならば、何も言わずに立ち去って、二度とこなければいいだけ。このひとり客は、そのどれとも違う。鬱憤晴らし、というのが近いように見えた。

 この人、今日一日、いやな日だったのかな、などと想像してしまう。カウンターの内側で、たのしげに仕事をしているはじけるような若さの人たちが、しゃくに障ったのかな、などとも。

 それにしても背広男の文句は長い。なかなか終わらない。店長はずっと謝りながら聞いている。するとカウンターにいた若い従業員の人が、店じゅうに響くような大声で、「みなさんお仕事お疲れさまでした、今日もご来店ありがとうございます!」と叫び、深々と頭を下げた。これで、壊れたままの店内の雰囲気がなんとなく戻り、みな背広男から視線を外し、それぞれの会話に没頭し、少しずつ、少しずつ笑い声が戻ってきた。

 庶民的だとか、超高級、はたまた一見高級風、若者風、高級ではないが格式ある店、常連の多い店――その店々のありように即したクレームでないと、クレームをつけた側が奇異な目で見られてしまうよなと、このときつくづく知ったのである。

前の記事 次の記事

著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。