食好奇心が旺盛だったのは、三十代のなかばくらいのときだ。私はもともと、外食も飲み会も好きだが、あのお店にいってみたいとか、このお店の何を食べたいというような気持ちはなかった。だから二十代のころ、友人と集まるのは、近所の居酒屋ばかりだった。
よき編集者たるものの条件のひとつに、飲食店にくわしい、という項目もあるらしく、じつに多くの編集者が、若いときからおいしい店にくわしい。そのかたがたとごはんを食べるときだけ、都心に出向き、指定された店にいって、「よくこういうところを知っているものだなあ」と感心していた。
凝り性の人だと、駅から二十分も三十分も歩いた場所にぽつんとある、看板の出ていないような古民家を予約してくれたりして、タクシーに乗る余裕のなかった二十代の私は、その道をえんえん歩きながら、「こんなに遠いところでおいしいものを食べるより、駅前でふつうのものを食べたい。牛丼でいい」と、よく思ったものだった。
三十歳を数年過ぎてから、突然、「あの店にいってみたい」「あれを食べてみたい」と思うようになった。編集の人が指定してくれた店も、どんなところかたのしみになった。あまりにわかりづらい店はやはり苦手だが、駅から遠いことくらい、まったくなんの気にもならなくなった。
近所ではない、都心の飲食店を自分でさがしていくようにもなった。近所の店も、いつもの居酒屋ではなくて、おいしいと評判の店しかいかなくなった。しかもわざわざ予約までして。上海蟹や北京ダックも、すき焼きも寿司もこの年代のころにはじめておいしいと思った。おいしいと思えるようになったのではなく、そうしたものがちゃんとおいしい店にいくようになったのだ。
先だって、大先輩を含む数人で、恵比寿の飲食店で食事をした。内装も洒落ていて、料理もちゃんとおいしい。店内は若い人で満席。それを見て大先輩が、
「恵比寿にはこういう店がたくさんあるなあ」と言った。「三十代の、おいしいものを食べたいなと思うようになった人たちが集まる店が、この町には多い」と。
うまいことを言う、と感心した。恵比寿には、安い居酒屋も各国料理屋もたくさんあるけれど、三十代、おいしいものがわかってきて、それとともに食好奇心がむくむくともたげてきた人たちが好みそうな、ビストロやリストランテや創作料理の店がたくさんある。どこも洒落ていて、接客も親切で、料理はきちんと作られていて、おいしい。値段も、安すぎないが馬鹿高くもない。恵比寿という町自体、三十代の人が似合う町だなと思う。
不思議なことに、この食好奇心、どんどん薄れてくる。三十代後半がピークだった。四十歳を過ぎてから、下降しっぱなしだ。もちろん、そこそこのものよりも、おいしいものが食べたい。でも、どこそこに評判の店ができたと聞いても、いこうという気にならない。都心なんて、まずいかない。
先だって、なんだかなんでもない店でなんでもないものが食べたいと思い、近所の、じつにまっとうな居酒屋にいった。座敷席があり、テレビでは野球を放映しているような店だ。案内された席で、本当になんでもない、ほっけとか冷や奴とかを頼み、ぼーっとして酎ハイを飲んだ。そうしてはたと気づいたのである。この店、店名は変わったし店主もかわったけれど、二十代のころ、友だちとよく集まっていた、と。
一周まわって戻ってきた気分。また、食好奇心が上昇することはあるのだろうか。なんだかないような気もする。ないような気がすることに、ちょっとほっとする。 |