アスペクト

肉記


029 一周まわって戻る場所

 食好奇心が旺盛だったのは、三十代のなかばくらいのときだ。私はもともと、外食も飲み会も好きだが、あのお店にいってみたいとか、このお店の何を食べたいというような気持ちはなかった。だから二十代のころ、友人と集まるのは、近所の居酒屋ばかりだった。

 よき編集者たるものの条件のひとつに、飲食店にくわしい、という項目もあるらしく、じつに多くの編集者が、若いときからおいしい店にくわしい。そのかたがたとごはんを食べるときだけ、都心に出向き、指定された店にいって、「よくこういうところを知っているものだなあ」と感心していた。

 凝り性の人だと、駅から二十分も三十分も歩いた場所にぽつんとある、看板の出ていないような古民家を予約してくれたりして、タクシーに乗る余裕のなかった二十代の私は、その道をえんえん歩きながら、「こんなに遠いところでおいしいものを食べるより、駅前でふつうのものを食べたい。牛丼でいい」と、よく思ったものだった。

 三十歳を数年過ぎてから、突然、「あの店にいってみたい」「あれを食べてみたい」と思うようになった。編集の人が指定してくれた店も、どんなところかたのしみになった。あまりにわかりづらい店はやはり苦手だが、駅から遠いことくらい、まったくなんの気にもならなくなった。

 近所ではない、都心の飲食店を自分でさがしていくようにもなった。近所の店も、いつもの居酒屋ではなくて、おいしいと評判の店しかいかなくなった。しかもわざわざ予約までして。上海蟹や北京ダックも、すき焼きも寿司もこの年代のころにはじめておいしいと思った。おいしいと思えるようになったのではなく、そうしたものがちゃんとおいしい店にいくようになったのだ。

 先だって、大先輩を含む数人で、恵比寿の飲食店で食事をした。内装も洒落ていて、料理もちゃんとおいしい。店内は若い人で満席。それを見て大先輩が、

「恵比寿にはこういう店がたくさんあるなあ」と言った。「三十代の、おいしいものを食べたいなと思うようになった人たちが集まる店が、この町には多い」と。

 うまいことを言う、と感心した。恵比寿には、安い居酒屋も各国料理屋もたくさんあるけれど、三十代、おいしいものがわかってきて、それとともに食好奇心がむくむくともたげてきた人たちが好みそうな、ビストロやリストランテや創作料理の店がたくさんある。どこも洒落ていて、接客も親切で、料理はきちんと作られていて、おいしい。値段も、安すぎないが馬鹿高くもない。恵比寿という町自体、三十代の人が似合う町だなと思う。

 不思議なことに、この食好奇心、どんどん薄れてくる。三十代後半がピークだった。四十歳を過ぎてから、下降しっぱなしだ。もちろん、そこそこのものよりも、おいしいものが食べたい。でも、どこそこに評判の店ができたと聞いても、いこうという気にならない。都心なんて、まずいかない。

 先だって、なんだかなんでもない店でなんでもないものが食べたいと思い、近所の、じつにまっとうな居酒屋にいった。座敷席があり、テレビでは野球を放映しているような店だ。案内された席で、本当になんでもない、ほっけとか冷や奴とかを頼み、ぼーっとして酎ハイを飲んだ。そうしてはたと気づいたのである。この店、店名は変わったし店主もかわったけれど、二十代のころ、友だちとよく集まっていた、と。

 一周まわって戻ってきた気分。また、食好奇心が上昇することはあるのだろうか。なんだかないような気もする。ないような気がすることに、ちょっとほっとする。

030 たっぷりめでお願いします

 家の近所に、野菜料理のおいしい飲食店がある。二十年くらい前、おいしいもの好きの男友だちに教えてもらった店だ。その後、店主か店名かどちらかが変わり、でも同じ場所で、同じたたずまいで、同じ野菜料理中心のメニュウで、今もある。二十年くらい前も人気店だったが、今もまだまだ人気店で、けっこう前から予約をしないとまず入れない。

 けっして嫌いではないのだが、野菜料理にあまり興味がないのと、予約をして飲むのが苦手なために、あんまり足繁く通っているわけではない。けれどときどき、あそこにいきたいなー、と思う。思うが、でも、今週末なんて空いているわけがないよな、と諦めてしまう(実際空いていない)。

 野菜好きの友人がいると、ありがたい。つい先だっても、肉が苦手という友人を含め数人で食事をすることになり、「じゃあ、あの店だ!」と喜び勇んで予約した。

 カウンターに、ちいさいテーブル席が四つほど、奥にお座敷がある。古民家を思わせる清潔な店内は、はじめてきたときから変わらない。料理を注文すると、人数分の分量にして、あらかじめ一皿ずつに分けてくれる。もちろん大皿で出してもらって、それぞれ分けることもできるが、そういうのが苦手な人はけっこういるものだ。

 あまり野菜に興味のない私でも、ここの料理がおいしいことはちゃんとわかる。目玉が飛び出るほど、とか、地団駄踏みたくなるほど、という、仰々しいおいしさではなくて、もっと地に足の着いた、ていねいに作ってあるおいしさ。私ひとりワインをざばざば飲み、デカンタをおかわりすると、「ボトルにしたほうがお得かもしれません……」とお店の女の子が教えてくれる。いや、でも、そんなには飲まないと思うから、と、酔いつつある私はいかにもまだ酔っていない返答をし、結局、二つ目のデカンタもひとりで飲み干してしまう。

 ここでデカンタをあらたに追加するのはいかにもみっともないし、飲み過ぎである。グラスのワインを注文することにする。友人たちは談笑を続け、メニュウを開いてまたしても注文すべき料理を選んでいる。友人と食事をするたび私は感心する。みんな、私以外の人はほんっとうによく食べる。ほんっっっとうによく食べる。グラスの赤ワインを追加した私は、デザートのつもりで注文したのだ。なのに彼らは、起承転結でいうなら転のあたり。私はもうけっこうですのでほかの人だけ取り分けてください、とお店の人に伝える。

 転の料理がまたずらずらと並び、私のグラスは空いてしまう。手持ちぶさた。グラスのお変わりを、恥ずかしいのをこらえて注文する。するとボトルを持ってきて注いでくれる女の子は、「多めにしましょうか」と言ってくれるではないか。「ぜひ、たっぷりめでお願いします」と告げると、本当にグラスの八分目くらいまで注いでくれた。

 ああ、いい店だなあ。こういうことに感動する。融通が利くのである。杓子定規ではないのである。

 この店は土鍋で炊いたごはんが有名だ。炊くのに時間が掛かるので、ごはんは一時間くらい前に注文したほうがいいのだが、気づけば、友人たちは転を頼みすぎてけっこうおなかいっぱいの様子。せっかくならば結に炊き込みごはんを頼んでもらいたかった。一口ご相伴にあずかりたかった。でも残念。みなさん転でおなかの蓋が閉じた様子。

 おいしかったねえ、とみんなで夜の道を歩いた。野菜好きの人はとくに感動してくれていて、こういうとき、本当にうれしい。またいこう、今度は土鍋ごはんまでがんばろう、と言い合いながら、でもまた予約しなくちゃなんないのかとちょっと思う。おいしくて融通の利く店は、本当に、席を確保するだけでたいへんなのである。世のなかの飲食店のほとんどがそういう店になったら、予約は必要でなくなるのかな、などと詮無い妄想をする。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。