お鮨屋さんとと焼き肉屋さんには、私にとって共通点がある。それは、ともにいく人を選ばねばならん、ということ。
お鮨も焼き肉も、話したい人を誘ってはいけない。
知人に食事に誘われた。しかも「あなたならくわしいよね」と、焼き肉屋のリクエスト。かつて友人数人でいってたいへんおいしかった店をはりきって予約して、当日。知人と、共通の知り合い、私の三名で、その焼き肉屋にいった。肉はどんどん出てくる。得意そうな人がいなかったので、私が焼き係になり、塩味のものから焼きはじめ、ころあいよく焼けたところで各自の皿に移す。みな、最初は移すタイミングでちゃんと食べていた。
けれど、知人が何やら深刻な話をはじめ、私は焼いてばかりいるから、共通の知人が聞き役となり、だんだん、皿に焼けた肉がたまりはじめる。まだ序盤である。ほら、食べて食べて、と催促すると、それぞれ口に運ぶが、おいしいと言い合うこともなく、また話に戻ってしまう。あんまり焼いても皿に冷えた肉がたまるばかりだから、タイミングを見計らって焼く。おいしい、おいしいと言い合うこともない。中央で、ただ熱せられていくロースターが煙を上げている。
このとき私は泣きたくなった。おいしくない! 愛する肉が、ちーっともおいしくない! 前にきたときはあんなにおいしかったのに。何が違うのか? 考えて、はっとする。
焼き肉というのは、じゃんじゃん焼いてじゃんじゃん食べて、おいしいおいしいと言い合ってはじめて、その真価を発揮するのである。一枚食べて話しこみ、思い出したころにまた一枚焼く、というのでは、もう、おいしさはまるきり損なわれる。その場の雰囲気で、こんなにも味が変わってしまうものなのか。
お鮨屋も然りである。たいていの店で私はおつまみからおまかせでお願いする。お鮨屋さんは冷たいものは冷たい皿で、あたたかいものはあたたかい皿で出てくる。順番も、ちゃんと考えられている。食べ終わればその皿はさっと下げられ、次の一品が出てくる。焼き肉とは異なるが、出されたものは出されたタイミングで食べるべきだ。
ところがやっぱり話したい人というのは、なかなか食べず、飲んで話してばかりいる。私が次々と食べていってしまうものだから、タイミングが合わず、お鮨屋さんはやむなく友人の前に皿を重ねていく。その人の前だけ、まるで居酒屋状態に小鉢や小皿が並んでいて、それでもなお、話し続ける。
私は私のペースで食べればよいのであるが、そのようにして放置され、乾燥していくお造りや料理が気になって気になって、味わうどころではない。やっと握りに突入しても、友人は、目の前に出されたものをぽいぽいと口に入れて話し続ける。おいしい、の一言もない。それがづけだろうが旬のしんこだろうが、気にもしていない。ああ、何か私まで味気ない……。
話がある人、というのは、味なんてどうでもよくなってしまうのである。自分が今口に入れたものがタン塩だろうが蛙だろうが、エンガワだろうがナマズだろうが、わかろうともしない。
そんなことが幾度かあって、私は思い知ったのである。焼き肉も鮨も、悩みも仕事もぜんぶ忘れて脳みそを空っぽにして、味わうためだけに食べにいくべきだ。そうして、おいしかったらおいしいと意思表示をすべきなのだ。肉も鮨もちゃんとそれを聞いていて、応えようとしてくれる。「おいしいーっ」「おいしいねーっ」「おいしいー」「おいしいー」それだけの会話で食べ進めていっこうにかまわない。
じっくり話したり、いちいちおいしいと言わずに飲み食いするのなら、やっぱり居酒屋さんがいちばんいいだろう。
私が若いころ、焼き肉屋にいる男女はすでにオトコとオンナの仲であるという俗説があった。焼き肉臭がおたがいから漂ってもかまわないほど親しいはずだから、というのが、その説の根拠だった。私は別の根拠でもって、思う。焼き肉屋と鮨屋にいる人たちは、カップルばかりでなく、よほど親しいあいだがらのはずだ。たがいの何を語らずとも、おいしい、おいしいだけで会話が成り立つほどの。
恋愛に即していうのなら、口説いたり、相手を知ったり、という駆け引きが必要なときは居酒屋で、その恋が成就したら鮨屋か焼き肉屋にゴー、ということか。 |