アスペクト

肉記


031 鰻時間

 夏は鰻。鰻大好き。

 鰻を食べにいきましょう、と誘われると、わー、と気持ちが華やぐ。東京タワーのすぐそばに、老舗の鰻屋さんがある。建物も室内もものすごくいい風情。誘われないかぎり、都心で鰻なんて食べないので、興奮する。意気込んで出かける。

 このお店には一品料理とコースがある。コースは、お通し、茶碗蒸し、白焼き、蒲焼き、ごはんに肝吸い、といった具合。

 コース料理を最後まで食べて、はて、という気持ちになる。このお店のことではない、鰻全般にかんして、私はいつも、はて、という気持ちで食べ終えるのである。

 だって、鰻って、意気込んで食べにいくわりにはすぐ食べちゃうでしょ? あっという間に食べ終えてしまうでしょ? この意気込みとスピードのアンバランスさに「はて」となるのだ。

 私が意気込んで食べにいくものに、鮨や天ぷら、焼き肉などがあるが、そのすべて、食べ終えるのにけっこうな時間がかかる。そのけっこうな時間のあいだ、「わー」と気持ちは華やいだままだ。おいしい、おいしい、おいしいねえ、と思い、言い合い、次に登場するものをわくわくと待つ。

 でも鰻は、さ、と終わる。白焼きだって、食べはじめればものの数分で食べてしまう。酒を飲んでいても、ちびちび食べることができない。まして、〆の鰻丼など、早い早い。「ふわー、おいしい」と言い合った後は、もふもふもふもふもふもふ、ひたすら食べてしまう。

 私の家の近所にも、鰻の名店がある。経緯はまったく知らないが、一度閉店し、また復活した店である。この店にはコースがなく、メニュウが、胆串、ひれ串、白焼き、鰻丼と限られている。予約のときに、メニュウも注文しないといけない。そしてその予約時間ぴったりに焼き上がるよう準備をするので、時間に遅れないでくださいと、予約時に告げられる。

 この店の鰻もふわっとしていてとてもおいしい。お米だってちゃんとおいしい。

 すべてのメニュウを予約時にお願いし、当日、ぴったりの時間に着くように出かける。ビールで乾杯していると、胆串、ひれ串、お吸い物、とじゃんじゃん出てくる。ビールの二杯目を注ぎあっていると、白焼きが出てきて、二杯目を飲み終わらないうちに丼と漬け物が出てくる。飲みながら食べたいので、じっくりじっくり食べようと思うが、つい、食べてしまう。日本酒を頼み、白焼きを食べ、鰻丼、ゆっくり食べようと思って、一口食べる。「ふわー、おいしい」と同行者と言葉を交わし、はっ、気がつけば鰻丼完食。

 飲もう、ゆっくり食べようと思っても、早ければ三十分、がんばってねばっても一時間くらいで、ぜんぶ食べ終えてしまう。「はて」と思いながら、二軒目の相談をしている。

 鰻屋さんって、「食べる」ところであって、「飲む」ところではないのだなと毎回、気づく。鮨や焼き肉も、食べるに近いけれど、やっぱり時間のかけかたからして、鮨屋、焼き肉屋は「飲む」場所でもあり得る。でも、鰻専門店は、違うのである。

 鰻だけではなくて、お刺身や煮物や天ぷらもメニュウにある店もあるし、それから同じタレものというくくりなのか、焼き鳥と鰻がメニュウにのっている店もある。そういう店は、最後の鰻丼あるいは蒲焼きとごはんにいき着くまでに、当然もう少し時間がかかる。そういうお店だってうれしいが、「鰻を食べるぞ!」という意気込みが、三割減くらいになる。

 件の鰻屋に、昼間に誘われ、またしても意気込んで出かけた。昼だから、酒なし鰻丼のみ。席に着くと鰻丼が出てくる。食べ終えて時計を確認したら、ああ、十五分であった。でもこの、夢中で食べてしまう感じが、鰻のおいしさなんだよなあ。

032 鮨と焼き肉の掟

 お鮨屋さんとと焼き肉屋さんには、私にとって共通点がある。それは、ともにいく人を選ばねばならん、ということ。

 お鮨も焼き肉も、話したい人を誘ってはいけない。

 知人に食事に誘われた。しかも「あなたならくわしいよね」と、焼き肉屋のリクエスト。かつて友人数人でいってたいへんおいしかった店をはりきって予約して、当日。知人と、共通の知り合い、私の三名で、その焼き肉屋にいった。肉はどんどん出てくる。得意そうな人がいなかったので、私が焼き係になり、塩味のものから焼きはじめ、ころあいよく焼けたところで各自の皿に移す。みな、最初は移すタイミングでちゃんと食べていた。

 けれど、知人が何やら深刻な話をはじめ、私は焼いてばかりいるから、共通の知人が聞き役となり、だんだん、皿に焼けた肉がたまりはじめる。まだ序盤である。ほら、食べて食べて、と催促すると、それぞれ口に運ぶが、おいしいと言い合うこともなく、また話に戻ってしまう。あんまり焼いても皿に冷えた肉がたまるばかりだから、タイミングを見計らって焼く。おいしい、おいしいと言い合うこともない。中央で、ただ熱せられていくロースターが煙を上げている。

 このとき私は泣きたくなった。おいしくない! 愛する肉が、ちーっともおいしくない! 前にきたときはあんなにおいしかったのに。何が違うのか? 考えて、はっとする。

 焼き肉というのは、じゃんじゃん焼いてじゃんじゃん食べて、おいしいおいしいと言い合ってはじめて、その真価を発揮するのである。一枚食べて話しこみ、思い出したころにまた一枚焼く、というのでは、もう、おいしさはまるきり損なわれる。その場の雰囲気で、こんなにも味が変わってしまうものなのか。

 お鮨屋も然りである。たいていの店で私はおつまみからおまかせでお願いする。お鮨屋さんは冷たいものは冷たい皿で、あたたかいものはあたたかい皿で出てくる。順番も、ちゃんと考えられている。食べ終わればその皿はさっと下げられ、次の一品が出てくる。焼き肉とは異なるが、出されたものは出されたタイミングで食べるべきだ。

 ところがやっぱり話したい人というのは、なかなか食べず、飲んで話してばかりいる。私が次々と食べていってしまうものだから、タイミングが合わず、お鮨屋さんはやむなく友人の前に皿を重ねていく。その人の前だけ、まるで居酒屋状態に小鉢や小皿が並んでいて、それでもなお、話し続ける。

 私は私のペースで食べればよいのであるが、そのようにして放置され、乾燥していくお造りや料理が気になって気になって、味わうどころではない。やっと握りに突入しても、友人は、目の前に出されたものをぽいぽいと口に入れて話し続ける。おいしい、の一言もない。それがづけだろうが旬のしんこだろうが、気にもしていない。ああ、何か私まで味気ない……。

 話がある人、というのは、味なんてどうでもよくなってしまうのである。自分が今口に入れたものがタン塩だろうが蛙だろうが、エンガワだろうがナマズだろうが、わかろうともしない。

 そんなことが幾度かあって、私は思い知ったのである。焼き肉も鮨も、悩みも仕事もぜんぶ忘れて脳みそを空っぽにして、味わうためだけに食べにいくべきだ。そうして、おいしかったらおいしいと意思表示をすべきなのだ。肉も鮨もちゃんとそれを聞いていて、応えようとしてくれる。「おいしいーっ」「おいしいねーっ」「おいしいー」「おいしいー」それだけの会話で食べ進めていっこうにかまわない。

 じっくり話したり、いちいちおいしいと言わずに飲み食いするのなら、やっぱり居酒屋さんがいちばんいいだろう。

 私が若いころ、焼き肉屋にいる男女はすでにオトコとオンナの仲であるという俗説があった。焼き肉臭がおたがいから漂ってもかまわないほど親しいはずだから、というのが、その説の根拠だった。私は別の根拠でもって、思う。焼き肉屋と鮨屋にいる人たちは、カップルばかりでなく、よほど親しいあいだがらのはずだ。たがいの何を語らずとも、おいしい、おいしいだけで会話が成り立つほどの。

 恋愛に即していうのなら、口説いたり、相手を知ったり、という駆け引きが必要なときは居酒屋で、その恋が成就したら鮨屋か焼き肉屋にゴー、ということか。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。