アスペクト

肉記


033 未だ幻の向こう

 あるときから、都心の地理を理解しようとするのをあきらめた。十年ほど前までは、都心野心のようなものが私にもあり、都心の地理ばかりでなく、飲食店や雑貨店やブティックや、その他のもろもろに、くわしくなりたくて、なんとか理解、記憶しようとしていた。

 無理無理、と潔く放棄したのは、六本木ヒルズの出現がきっかけである。六本木ヒルズができて、あの周辺によくいくようになった人は多いだろうし、そのために地理にくわしくなった人も多いだろう。しかし私は、六本木ヒルズが何であるのか、わからなかった。オフィスと、住居と、ショッピング街が混じり合っていると聞いたが、やたらに広くて、入り口がたくさんあって、どこにショッピングエリアがあるのかわからない。見つけた、と思っても、そこに居並ぶテナントは私の趣味ではない。何かもっとおもしろそうなエリアがあるに違いない、と気ばかり焦るが、見あたらない。

 そしてこのビルに、仕事でやたらに用があるのだ。まずこのビルには放送局が入っている。イベントホールもある。撮影可の図書室も会議室もある。それから、なんだかよくわからない、会員制のレストランのようなものもある。そうしたところに、ある時期、仕事でよく呼び出されていた。月に何度も六本木ヒルズにいかねばならなかった。が、いきかたが、わからないのである。しかたがないので、都心外(と私が考える千駄ヶ谷や新宿)からタクシーに乗って「六本木ヒルズまで」と言う。こうすれば確実にたどり着く。

 と思っていたら、なんと、たどり着かないのだ。六本木ヒルズにはいろいろな入り口があるらしく、「六本木ヒルズの、どこ?」と訊かれる。こちらは六本木ヒルズにいったい「どこ」があるのかすら知らない。蜘蛛のオブジェしか知らない。「あの、蜘蛛のいる……」と言っても、蜘蛛は地上からは見えないからわからない運転手さんも多い。結果、毎回違うところで降ろされる。

 そうして私は放棄したのである。六本木ヒルズがどこにあるのか理解するのを。同時に、今までもよくわかっていなかった、麻布、麻布十番、広尾、青山、そのあたりにくわしくなろうとするのも、地理的関係性を理解しようとするのも、やめた。

 友人の友人が営む店が、この、都心エリアのどこかにある。友人に連れていってもらったのはもうずいぶん前のことだ。フランス料理がもとになってはいるが、メニュウにはパスタがあったり焼きそばがあったり、個性的な創作料理の店である。何を食べても本当においしくて、また、量の多少の相談にも乗ってくれるので、私はいっぺんで好きになった。スタッフの方々もすばらしく気持ちがいい。

 そうしてこのお店、出版関係者にはたいへん有名で人気らしく、対談や打ち合わせや、あるいはたんなる会食に、よく誘われる。そのたび、「わーい、あのお店だ、うれしいな」と気持ちが華やぐ。

 しかし、この店がどこにあるのか私は知らない。理解を放棄した都心内のどこかにあるのだ。最寄り駅がどこかも知らない。たいてい、都心外でタクシーに乗り、番地をナビに入れてもらう。これってどのあたりですか? あのへんですかね? と運転手さんに訊かれても、「すみません、知らないんです」としか答えられない。「あらそー、はじめていく店なの?」と訊かれ、「(すみませんもう六年くらい前からいってるんですが、嘘つきます)ええ、そうなんですよー」と答える。そのお店の前にくると、ようやくわかる。あ、そう、ここだここだ、と思うのだが、本当にお店の真ん前までこなければ、わからない。帰りは帰りで酔っぱらって、どこだかわからないまま大通りに出てタクシーを拾ってしまうので、またしても、わからない。

 童話や絵本では、深い霧の奥に、くまの営む食堂があったりする。信じられないくらいおいしい料理が出てきたりする。私にとってそのお店は、そうしたところである。霧のなか、呪文のように住所をくり返しながら進んでいくと、やがてあらわれる。帰るときにはぜったいにふりむいてはいけなくて、はっと気づいたら家で寝ていたりする。

 いや、本当に実在する人気店なのですが。

034 これはいちばん高いんです

 食事に誘われた。相手方の予約してくれた店は、私のくわしくない都心方面にある。

 「肉好き」があまりにも有名になってしまったらしく、私を食事に誘ってくれる人はみな、肉関係の店を予約してくれる。肉で有名な店、というと、数はしぼられてくる。豚料理のおいしい店といえばあそこ、牛や羊を豪快に炭火で焼いてくれるのはあそこ、イタリア料理だがメイン料理が肉しかないのはあそこ、種類豊富なジビエといえばあそこ、赤身の熟成肉を四百グラムとか八百グラムで提供する店はあそこ……といった具合に、都心部の肉関係の店は、多くの人の共通認識になっている。

 飲食店にくわしい編集の方々は、だれかと食事をするとき、その人がいったことのない店をさがそうとする。知っている店ならつまらないだろう、という気遣い故だろう。だから、上記のような有名店は外されることが多いのだが、ときどき、かぶる。「中目黒のブッパという店を予約しました」と言ってくれる方に、「その店、大好きです」と言うと、「ああ、知ってましたか……さすが肉のカクタさん……」とがっかりされることが多い。私は大好きな店にいけてうれしいのだけれど。それにしても肉のカクタさん、って……。

 しかし、都心部のすごいところは、なお、知らない肉の有名店があることだ。

 先の都心方面の店も、牛肉がイチオシの店らしいけれど、私は知らなかった。地図を見てもどこだかさっぱりわからないので、タクシーに乗り住所をナビゲーションシステムに入れてもらった。

 タクシーがたどり着いた場所に見覚えがある。たしかこのあたりに、やっぱりおいしい居酒屋さんがあって、きたことがある。その居酒屋さんにきたとき、すでに「あ、このあたりきたことがある」と思ったのだが、もっと思い返すとこのあたりにはおいしい鍋の店があった。こういうところも都心のすごいところ。さりげなく、評判の店がずらずらとかたまっている。

 さて、その肉の店であるが、トリッパもあれば田舎風パテもあり、バーニャカウダもあればパスタもあり、でもやっぱりイチオシはステーキのようである。スパークリングワインで乾杯し、前菜系のつまみを食べる。料理もたいへんにおいしいし、お店の人も感じがいい。都心ってほんとうにすごいなあ。

 スパークリングワインの次に、赤ワインを飲もうということになって、おすすめのワインを訊いてみた。すると感じのいい従業員が三本のボトルをテーブルに並べ、「これはシチリア島産の、香りの非常にゆたかな、飲み口のさっぱりしたワインです」とこれまた感じよく、一本ずつ説明してくれる。

 ――のだが、その説明の最後にかならず「これはこの三本のなかでいちばん安いワインです」「これがこのなかではいちばん高いワインです。でも高いだけのことはあって、とてもおいしいです」と、値段の高い安いをつけ加える。

 それを聞きながら私はある違和感を覚え、違和感のもとをたどり、なるほどと気づいた。

 テーブルにボトルを並べて、産地や品種や製造年、味や香りの違いをそれぞれ説明してくれる店は多いけれど、その説明に値段の高い・安いとくわえる人を、私ははじめて見たのである。もちろん、ほとんどの店で、説明をしたあと、こちらはいくらになります、とは言う。当然私たちはそれを聞きながら「なるほど、これはこっちのより少し高いのか。でも深い味わいなのだな」などと頭のなかでは考えるし、値段を加味した上で「ではこれをお願いします」と決める。

 でもなんだか、お店の人にから、これはいくらで、このなかではいちばん高い、などと言われると、なんだか困ってしまうのである。「じゃ、このいちばん安いこれを」とは言いづらいし、「じゃ、このいちばん高いのを」とも、なんとなくこそばゆくて言えない。言わずに真ん中の「これを」と言うと、「真ん中の値段を選んだな」と思われそう(思わないだろうが)。

 ステーキもすばらしかった。赤身肉だけれどしっとりとやわらかい。そのステーキ途中でワインが一本空いてしまい、もう一本は多すぎるので、グラスで頼もう、ということになった。先ほどの従業員にグラスワインを頼むと、なんとまた、何と何と何のグラスがあり、値段はこれがいちばん安くてこれがいちばん高いが、いちばん高いのがおいしいという説明。なんだか味やその他の説明がもうどうでもよくなってしまって、「じゃ、そのいちばん高いの」(で、いいやもう)的な注文をしてしまった。

 高いものが安いものよりすぐれているというお店の人の前提が、ちょっと違うのだろうと帰り道、考えた。さらに、余裕のある人はふつう(すぐれているんだから)高いものを頼むだろうという前提も、さっきの彼にはきっとあるに違いない。その前提が伝わるから、安いのだと恥ずかしいかなとか、でも高いのを選ぶのもなんだか……と、客側もいろいろ考えてしまう。でも、千円のワインと一万円のワインというわけではない。千、二千円差のワインなら、優劣ではなく、好みで選ぶべきなのだ。

 ものすごくちいさなことなのに、居心地悪く思えることってあるんだなと、なんだか感心してしまったできごとである。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。