私が大学生のころ、ある種の贅沢を説明する例として「名古屋までコーヒーを飲みにいく」というようなものがあった。名古屋は、名古屋でなくとも、神戸でも長野でもよかった。ともかく都内から遠隔地に、オートバイや自動車で、おいしいコーヒーを一杯わざわざ飲みにいく。この遠隔地も、遠すぎてはだめ。北海道や沖縄だと、たんなる贅沢となり、「粋」さのようなものが失われてしまう。
このようなことを「ある種の贅沢」に分類するのは、たいていの場合、男だ。コーヒー一杯のために何時間も高速道路を走ることに、何か、男心をくすぐるロマンエキスが含まれているのではないか。
私には、そのロマンエキスを感知する能力が欠落していて、そんな話を聞いても感心するばかりか、「うへー、いやだそんなの」と思っていた。コーヒーの味の違いもよくわからないのだ、私は。
これに対する女心のロマンエキスは、たとえば「三崎にまぐろを食べにいく」ようなことではないか。五、六年前に、世界一の朝食と謳うレストランが湘南にオープンし、私の知り合いで、いったとか、いきたいと言う女性が多かった。これはレストランがお洒落だからではない、「三崎にまぐろ」とよく似て、その地にその名物を食べにいくロマンエキスだと私は思う。名古屋にコーヒーを飲みにいくのはいやだが、湘南に朝ごはんを食べには、積極的にいく。女性のロマンのほうが、やっぱりどこか現実的で合理的である。
私も名古屋でコーヒーよりは、三崎でまぐろのほうがまだいいが、それでも、女心ロマン能力も欠落していて、あんまりわくわくはしない。三崎にたまたまいたからまぐろを食べるならいいのだが、まぐろを食べに遠方まで赴くのはいやなのだ。
まったくロマンのない、よぶんなたのしみのない人間なのである。
先だって、たった二泊で香港にいった。夏の終わりに友人たちと飲んでいて、香港にいこうという話になった。香港にはみんなに共通の友人が、今現在住んでいる。だから彼女に会いにいこう、おいしいものをみんなで食べよう、と私たちは話したが、それは、酔っぱらい特有の、願望と予定をごっちゃにした話である。「秋にいくのだ」と決めるも、それはあくまで「秋にいきたいね」という願望に過ぎない。このような話はたいてい、二日酔いがおさまるころにはみんな忘れている。
ところが、香港に住んでいる友だちの存在が、この願望に現実味を与えた。私たちは「スケジュール的に無理かも」「仕事が入ってだめかも」と恐れつつも、なんとか合う日程をすりあわせ、出発ぎりぎりにみんなべつにホテルを予約し、べつに航空券を買った。そうして願望は直前に予定となり、同じ日の、それぞれ違う時間に違う飛行機で、私たちは香港に向かったのである。
中環のショッピングビルで待ち合わせ、在住の友人も含めてみんなで落ち合えたときは、まったく大げさでなく「会えた、本当に会えた」と抱き合ってよろこんだ。そのくらい、みんなが本当に香港いきを実現させ、こうして友人に会えていることが信じがたかったのである。涙腺の弱い私は泣きそうですらあった。私など、仕事で数日前までパキスタンにいたという無謀すぎるスケジューリングだったのだ。
さて、その日、夏に「おいしいもの食べよう」と言い合ったとおり、香港在住の友人においしいレストランに連れていってもらった。巨大な海鮮レストランだが、ほとんどのテーブルが埋まっている。お酒の持ち込みが自由、しかも持ち込み代なし、ということで、友人はワインや焼酎、各種取りそろえて十五本くらい持ってきていた。
ものすごく大きなガルーパ(白身魚)の蒸したもの、青菜炒め、茄子と肉炒め、茹で海老、ホタテのガーリック蒸し、近況を報告しながらも、相づちのようにおいしい、おいしいと言い合う。そしてこの時期ならでは、上海蟹! 今の季節は雄がおいしいとお店の人が言い、ひとり一匹、このときばかりは無言になって実をほじくってはひたすら食べる。巨大かつ庶民的な店で、ほぼ満席のフロアにわんわんと人の声がこだまする。みんな何か食べながら、話しながら、にこにこしている。お店の人もとても陽気で親切。ああ、香港ってそうそう、こういうところだった。
くちくなったおなかを抱えて夜の異国に出て、ふらふらと地下鉄に乗って九龍島へ渡り、超高層ビルの最上階にあるというバーに向かいながら、これが私のロマンであると気づいた。
とてもおいしいコーヒーを飲みに名古屋、はわくわくしない。世界一のまぐろを食べに三崎、もわくわくしない。すばらしいステーキを食べにアルゼンチン、も、極上のワインを飲みにフランス、も、神戸と三崎といっしょ、近場ですまそうよ、と思ってしまう。でも。私にもロマンがあった。
友だちとおいしいものをわいわい食べに遠隔地。こんなにわくわく、うっとりすることってほかにないじゃないか。 |