アスペクト

肉記


039 私の上海蟹史

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 上海蟹をはじめて食べたのは忘れもしない、三十三歳のときだ。若手作家数人+編集者で飲んでいて、作家が全員、上海蟹を食べたことがないと言い、それならおれが連れていこう、とベテラン編集者が請け負ったのである。その数日後、同じメンバーで実際に上海蟹の宴がおこなわれた。神保町には中華料理店が多いが、そのなかの一軒だった。

 はじめて食べたときの感想は、「何がなんだかわからない」である。私の好むずわい蟹やたらば蟹のように、みっしりとした食べ応えがない。細い脚をほじるのにも一苦労。

 松茸をはじめて食べたときもそうだったけれど、「なぜ大人はこれを驚喜して食べるのか」とひそかに謎を抱いた。

 そのときを皮切りに、季節になると上海蟹を食べる機会がやってくるようになった。十月を過ぎたあたりで、会食となると、「せっかくこの季節なので」と、上海蟹のある店をだれかが指定する。松茸やウニ、白子やアンコウ鍋など、大人になって食べるようになったものは、幾度か食べているうちに、おいしい瞬間がやってくる。「おおーっ、今わかった!」と、その真価がわかるのである。が、上海蟹はなかなかやってこない。幾度食べてもやってこない。身ではなく、むしろ、味噌やたまごがおいしいのだと理解しても、やってこない。

 上海の中心地から少し車で走ったところに、上海蟹のメッカのような町がある。一度、連れていってもらったのだが、なんという町なのかわからない。海沿いの町で、「上海蟹」の巨大ネオンを掲げた店が、不夜城のようにずらりと並んでいる。乗用車ばかりか、貸し切りバスで乗りつけるグループもいる。店に入るとすぐに水槽がずらーっと並んでいて、蟹がいる。

 ここで上海蟹を食べたときは、かすかな「ぉ」程度、わかる瞬間がやってきたような気がするが、雰囲気にのまれただけかもしれない。そして上海蟹以外の料理も、なんでもおいしかったので、店を出るときには「ぉ」も消えてしまった。

 冬がくるたび、私は上海蟹との距離感に悩み、デビュー当時から知っている老編集者に相談までしたのである。「あの、私、上海蟹のおいしさが、今ひとつわからないんです……」と、小説の書き方ではなく、上海蟹の味わい方について、深刻に打ち明けた。老編集者も真顔でそれを受け止め、「カクちゃん、あのね、老酒漬けを食べてみるといいよ」とアドバイスをしてくれた。

 それで挑んだ老酒漬けであるが、たしかに、蒸し蟹よりは、おいしいと感じる。でも「おおーっ」というほどではない。このまま一生私は上海蟹と距離を縮められないまま、生きていくのだろうか……。まあ、それも詮方ないか……。と、ほぼ諦めていた。

 それが昨年の冬のこと。ついに訪れたのである、「おおーっ上海蟹わかったーっ!」の瞬間が。

 毎年一度、いっしょに仕事をするテレビ関係の方々と四谷のレストランに赴いた。このレストランは以前に一度きたことがあるが、そのときは夏だったので、上海蟹を出す店だとは知らなかった。コース料理のなかほど、上海蟹が登場し、お店を仕切るご婦人が食べ方をていねいに教えてくれる。いつものごとく私は何も思わず身を切って食べはじめ、はっと気がついたら、無言のまま、ほぼ食べ終えていた。

 食べ終える段になってようやく、自分が今、他人の声がいっさい届かないほどの集中力を発揮して蟹をすすり、しゃぶり、ほじり、食べていたことに気づいた。本当に、蟹を食べていた何分間か、私には蟹以外の何も見えず何も聞こえなかった。すさまじい集中力で何かをむさぼり食べる「欲」そのものの姿を、まさに今、人前にさらしていたのだと気づき、私は深く自分を恥じた。その自己嫌悪のあとに、じわじわとやってきた、上海蟹はこんなにもすばらしくおいしいのだ、という実感が。

 一度わかると、たいていのものは、それからぐんと味が変わる。去年の冬以来、私は上海蟹の虜である。どこで食べてもおいしい。三十三歳から味もわからず食べ続けた蟹を、今一度、最初から順に食べなおしていきたいくらいだ。

 先だって、新宿のうつくしい中華料理店で、雄雌の半身ずつを一皿に盛って出してくれた。十月は雌だとか雄だとか、十二月からはどちらだとか、よく言うけれど、いつも覚えられない私は、結局どっちがどうなのかもわかっていなかった。もちろん食べ比べたこともない。そうして食べ比べてみて、私はどうも、雄派だということがわかった。雄のみそのほうが濃厚で、雌の卵よりも私は好きなようである。

 ああ、こんなに近しくなれてよかった。冬のたのしみがひとつ増えて本当によかった。

040 昭和の残像

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 自分でもおかしいのではないかと思うほど、屋台が好きだ。お祭りのときに、神社やお寺の境内にずらりと屋台が並ぶが、あれがとにかく好き。脳みそから快楽物質のようなものがあふれ出て、多幸感を味わいながら境内をさまよう。お好み焼きも、焼きそばも、たいしておいしくないことも知っている。でも、食べずにはいられない。神社に向かいながら、食べる順番まで決めている。

 東南アジアの国々によくある屋台が好きなのも、それに所以するのだろう。旅していて、屋台がずらりと並んでいるのを見つけると、お祭り時とまったく同じ状態になる。

 神社やお寺は、お正月にもにぎやかになる。

 私は二十歳のころから、毎年詣でる神社は決めていて、そこ以外はあんまりお詣りしないのだが、大晦日から元旦になる夜、そのときの住まいの、もっとも近くにある神社に向かう。詣でるのではなくて、屋台で飲食しにいくのである。

 大木が多いせいで、ふだんは夜に沈んでいるような神社が、大晦日から数日は盛大に光り輝いている。鳥居をくぐると、ずらりと奥まであかりを灯した屋台が並んでいる。射的や型抜きは昔のまま今もあるが、紐を引っ張っておもちゃをあてる、新種の屋台もある。食べものもまた、お好み焼き、焼きそば、たこ焼き、いか焼きとオーソドックス組に加え、チヂミ、カルビ串、クレープ、などと新顔組が並ぶ。あたらしい屋台は年々増えていく。去年はケバブ屋台があった。

 秋祭りにはなくて、お正月にはあるもの。それは、大人のための飲食席だ。

 拝殿へと続く参道に、二軒ほど、居酒屋ふうの巨大屋台が登場する。それぞれテーブル席が屋台に隣接し、居酒屋ふうに、席に座って注文し、飲み食いできるのである。運動会のときのようなテントがはられ、その下に、折りたたみ式のテーブルとパイプ椅子がずらりと並んだ簡素な野外席だが、私はこれを見るといてもたってもいられないくらい、興奮する。

 興奮したところで、ほかにどうすることもない、ただ席に座って、酒を飲み、つまみを食べるのであるが、それだけのことがもううれしくてうれしくてたまらない。とにかく寒いし、年越し蕎麦を食べてきたばかりでおなかも空いていない。けれどもそこに座って酒を飲み何か食べないことには、帰ることができない。

 屋台で売っているのは、各種焼き鳥、焼きとん、焼きそば、おでんやもつ煮。ビールやサワー類、焼酎や熱燗もある。ほかの屋台で買ってきたものをここで食べてもいい。

 私のように興奮する大人は多いのではないか。だってこの二つの居酒屋席、毎年かならず混んでいる。みんなふつうに飲み食いしながらおしゃべりしているけれど、きっと頭のなかは私と同じく、快楽物質があふれ出ている状態に違いない。

 屋台が、異常なくらい好きだという話を友人にしたところ、私と同世代の人たち全員が、同意した。七〇年代に子ども時代を過ごした人たちだ。

 ははーん、これはまさに、キャラクター世代。ぴぴんときた。私の子ども時代、それはそれはたくさんのキャラクターが登場し、また、商品化された。キティちゃんもパティ&ジミーもスヌーピーも、ウルトラマンもキューティハニーもハクション大魔王も。私たち世代の子どもは、キャラクター商品をこぞってほしがったが、その多くの親が、それらを絶対に買ってくれなかった。絶対に、だ。多くの親が、あたらしく登場したばかりのキャラクターを、どう扱っていいのかわからなかったのだ。だから最初は、警戒し買い与えなかったのだ。結局、自分で買える文房具から、キャラクター商品はじわじわと浸透していくわけだが、でも私たち世代は、この「買ってもらえなかった」残像をぬぐい去ることができないまま、大人になった。四十代なのにリラックマやピカチューのキャラクター商品を持っているのは、だからだ。と、いうのが私の推論なのだが、屋台も同様ではなかろうか。

 七〇年代、高度成長期、まだまだ衛生状態は悪かった。日本はこんなに潔癖きれい好き社会でもなかった。屋台の食べものでおなかをこわす子どもも多かった。だから子どもたちは、屋台での買い食いをしてはならぬと親に言い渡された。そのときの残像が、今も根強く残っているに違いない。食べたかった食べたかった食べたかった、という怨念のようなもの。

 私自身は、生まれ育った家の近所に、屋台を出すような神社お寺がそもそもなかった。私の屋台執念は、「祭りというものにいってみたい」というところに起因する。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。