アスペクト

肉記


041 年はとったが

 今住んでいる、村のような町に、気がつけば二十年近く住んでいる。二十年前にしょっちゅういっていた飲食店は、みな格安居酒屋だった。軒先に赤提灯がぶら下げてあったり、店内に14インチのテレビがあったりするような。フランチャイズの店は、当時からあんまりいかなかった。

 例外として一軒、某フランチャイズ店だけにはよくいっていた。友人たちと、週に二度ほどいっていたのではないか。その店の店長さんと軽口を交わすような、いわゆる常連になっていた。

 ほかのチェーン店はいかないのに、なぜこの店にいっていたのかというと、なんとなくメニュウが独自なものになっていたのである。チェーン店に共通のメニュウプラス、この店のオリジナルメニュウが半分ほどある。それはとくべつな創作料理なんかではなくて、焼き魚だったり卵料理だったりするわけだが、そのせいで、あのチェーン店ののっぺり感とは一線を画していたのである。店内も、清潔でちょっと小洒落たチェーン店とはほど遠く、すすけた壁、14インチのテレビ、色あせた水着女性のポスターという、ザ・赤提灯的な店だった。

 この店がものすごく好き、というわけではなくて、何より値段が安くて落ち着くし、多めの人数でいってもいつも席が空いているから、という理由だった。

 けれど私にとって、「ぜったいのぜったいに今日はこの店でなければならない」と意気込んで出かけることが、しばしばあった。

 長い旅行から帰ってきた日である。

 そのころの私の旅は短くて二週間、長くて一カ月だった。そして私は旅先がどこであろうとも日本食と中華料理を食べないと決めている。その土地のものを食べたいのである。だから当然、帰ってくるときは日本的なものを食べたい。飢えている。

 こういう場合に猛烈に食べたくなる「日本的なもの」は、人によってさまざまだと思う。かつて旅先で会った長旅の日本人たちに、私はよく「帰ったらまず何食べる?」と訊いていた。本当にさまざまだった。ラーメン。味噌汁。コロッケ定食。カレー。蕎麦。とんかつ茶漬け(というものを私は知らなかったのだが、あるらしい)。鮨。卵かけごはん。素麺。焼き肉。

 そうなのだ。日本的な食事って、何も和食ばかりではない。何料理、と厳密に言えない、ドリアやグラタンやシチュウ、ラーメンだって醤油から味噌から豚骨から油から担々、韓国のものとはまるきり違う焼き肉、等々、ものすごくたくさんのバリエーションがある。そもそもとんかつ茶漬けって、どんなジャンルなのだ?

 このバリエーションを最大公約的に満たしてくれるのが、若き日の私にとって、その居酒屋だったのである。旅から帰ったまさにその日、私は友だちを誘い、メニュウをぜんぶ食べ尽くす勢いでこの店を訪れたものだった。

 さて、この店、軽口を交わしたかつての店長さんはもういないが、二十年たった今でも存在している。ただ店名が、昨年変わったのだが、店内とメニュウ構成は何も変わっていない。経営者が変わったか、フランチャイズから独立したか、なのだろう。

 最近では、二週間の旅行ですら不可能なのだが、正月だけ、一週間ほど休むことができる。この正月も休みをとってほんのつかの間、暑い国を旅してきた。帰ってきて、魚専門の居酒屋か、焼き鳥か、和食系の居酒屋か、どこにいこうかつらつら考え、あの店にいってみようと思い立った。まさに二十年前、旅帰りにいっていた、店名の変わった店。お刺身、湯豆腐、焼き魚、餃子、アボカドのサラダ、ああ、なんでもおいしい。たった一週間でも人はこんなに慣れ親しんだ味に飢えるんだなあ。

 以前、十日ほどの海外出張帰りに鮨屋にいったことがある。お刺身も酢飯もたしかにおいしかったのだが、なんと、いちばん感動したのは昆布だった。昆布締めのヒラメからにじみ出る昆布味。子持ち昆布。昆布だしのおすまし。ぐわあああ、舌が震える、というほど、昆布が効いた。自分では自覚していなかったけれど、異国の食事をしていた十日間で、私はアミノ酸に飢えていたのだと、このとき思い知った。

 そしてこの居酒屋でも、あらたな発見があった。焼き魚もおいしい、湯豆腐なんてすばらしい、餃子も万歳。しかしながら、もっとも感動したのが、焼きうどんだったのだ。あの甘じっょぱいソースと紅ショウガに、知らず飢えていたようである。

 ぐわあああ、うまい、うまいと言いながら食べて飲み、二十年前と、私ちっとも変わっていないと気づき、うれしいことなのか、残念なことなのか、よくわからなくなった次第である。

042 出世はしていないけれど

 連載がまとまって、単行本ができあがると、打ち上げと称する食事会がある。ない場合もあるが、まあ、よくある。こういう習慣は、私がデビューした九〇年のころからあった。私の最初の単行本を出版してくれた編集部は、編集者が全員、華やかな店より赤提灯や文壇バーを好んだので、そういう場所での打ち上げが多かった。打ち上げといっても、担当編集者と編集長、三人くらいでぼそぼそ飲むわけである。

 その編集部の当時の面々は、みな、二十代から三十代と若かったが、おそらく、元祖編集長の渋好みを受け継いでいたのだろう。ちなみに、その編集者たちは今、私と同様、四十代、五十代になっているが、未だに渋好みである。そのころに植えつけられ、血肉となった価値観って、一生ついてまわるのではないか。

 最近、あんなふうな渋い店好きの編集者は、まず、いない。あのときの彼らと変わらない二十代、三十代の編集者たちの、趣味趣向がまったく変わった。他人に価値観を植えつけてしまえる、元祖編集長のような人が、そもそももう、いないのだろうと思う。

 打ち上げをしてもらう飲食店は、当然、お洒落でおいしい店ばかりになった。お洒落でおいしい店といえば都心だ。都心はすごい。私の住む、東京都下の、村のようなちいさな町のおいしい店もおいしいが、でも、なんというか、バラエティの幅が違う。都心にいくたび、実感する。

 先だって、単行本の打ち上げで招かれた場所も、都心のお洒落なイタリア料理店だった。あか牛がウリで、スパゲティ料理もあるが、肉で満腹になってもらいたいから、というお店側の希望で、スパゲティの含まれない肉中心のコースメニュウがある。

 このお店が、入るのがためらわれるくらい、どこもかしこも真っ白できれいなのである。こんなにもきれいな店は、気取っちゃっているばっかりであんまりおいしくないんじゃないか……という私のネガティブ予想をはるかに裏切って、前菜からしてものすごくおいしい。野菜も肉もそれ自体の味が濃く、量が多くないのがありがたい。

 そうしてメインのあか牛登場。あか牛は、サシの少ない赤身肉で、私はかつて阿蘇のあか牛を取材したことがある。でもこのレストランのあか牛は高知県の牛とのこと。なんとその牛肉が、骨付きの状態のまま、二ブロック、どーんと出てきた。一ブロック、太った人の肘から腕くらいの大きさ。真っ白な内装と、あまりにも不釣り合いな力強さである。

 薪で焼いたこの肉を、その場で切り分けてくれる。肉といっしょに焼いた、じゃが芋、葱、トマトなどがつけあわせとして出てくる。肉がおいしいのはもちろんのこと、このじゃが芋には感動した。

 私はあまり量を食べられないからか、そのお店が自分好みかそうでないか、前菜の段階でほぼ決まってしまう。メインにいくころにはたいていおなかがいっぱいで、メイン料理もぜんぶ食べられることはまれなのだ。でも、前菜が今ひとつ自分の口に合わないのに、メイン料理はすごくおいしくて、最初の評価とかわることって、あんまりないのではないかしらん。

 このお店は、前菜の、焼いた玉ねぎのマリネを食べたときに、「(真っ白でどぎまぎするけれど)ここは私の好きな店だ!」と心が決めしまい、そのあと、牛ばかりかパンでもチーズでも何を食べても気に入ってしまったのである。

 はじめて単行本を出版していただいた二十四歳のときは、イタリア料理なんて数えるくらいしか食べたことがなかった。その当時は、渋い赤提灯で、そんなにおいしいとは(当時は)思えなかったぬる燗をちびちびやっていたことを考えると、都心であか牛なんてのは、もう一大出世のようだけれど、そうではなくて、今ではどんなに若くても、デビューしたてでも、こうしたお洒落なお店で本の誕生を祝ってもらっているのだ。でも、赤提灯からはじまったてるおかげで、出世だ、と思えるのも、なかなかにいいことだと思う。

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著者プロフィール

角田光代 かくたみつよ

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
90年「幸福な遊戯」で「海燕」新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夏のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞などいくつもの賞を受賞。03年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、04年『対岸の彼女』で直木賞受賞など。