この場でも、ほかの雑誌でも、何年も何年も、私は日本の居酒屋文化を賞賛し続けている。
この賞賛は色あせず、まったく減じることもない。同時に、その不可思議さはいよいよ増していく。
ソウルにいった。友人たちとごはんを食べるために集まったのである。この友人たちは、東京でも集まってよく食事をしている。ともかく多く食べ、多く飲む人たちで、眠らない。二時になっても、三時になっても、陽気に飲んでいる。
サムギョプサルの店で食事をし、当然のことながら、飲みにいこう、ということになる。
その場に、韓国に一年弱住んでいた女性がいたので、居酒屋的なところにいきたいが、どこか知らないか尋ねた。けれど彼女が言うには、サムギョプサルならサムギョプサル、ブルコギならブルコギ、参鶏湯なら参鶏湯、というような店がほとんどで、みんなが今思い浮かべているような、チヂミもあればチャプチェもあり、ケジャンもあればトッポッキもあり、ソルロンタンでしめたりできるような店は、ない。最近、日本の居酒屋的な店が流行っているので、ちょっと日本っぽくなるが、それならばある、とのこと。
まさに彼女の指摘通り、私が思い描いていたのは、そのような店である。店の造りは伝統韓屋で、飲みものメニュウにはビール、マッコリ、焼酎、その他あれこれが並び、韓国の有名な料理がずらりと続き、みんなでちょっとずつ食べられる……そんな店。だんじて、日本企業の居酒屋チェーン店ではない。
私はどの国にいってもそのような飲み屋を夢想する。夢想するだけでなく、さがす。私の夢想は、日本の居酒屋の各国バージョンが全世界にあるはずだという、妄想でしかないと頭の隅でわかっていても、「でももしや」と思ってしまう。
でもそれは、私だけではないようだ。私の友人夫妻も、台湾で、居酒屋的な店をさがしまわって足を棒にしたそうである。しかもこの二人、台湾はもう何度目かだというのに、である。ない、とわかっていても、「もしや」とだれしも思うのだ。
本当に、ほんっとうに、日本でいうその国独自の「居酒屋」はどこにもない。少なくとも、私が訪ねた四十数カ国にはない。いちばん近いのがスペインのバルだと思う。それだって、並んでいるのはスペインの料理だ。日本のある種の居酒屋のように、他国料理もどきがあったりは絶対にしない。そしてたいていの国において、食べる店と飲む店は異なる。食べる店に酒類は豊富にはないし、飲む店には決まった食べものしかないか、食べもの自体がない。餅は餅屋。蟹の店は蟹だし、鍋の店は鍋で、バーはバーだ。
ともかく私たちは店を出て、二次会にふさわしい店をさがして異国の町をさまよった。結局、見つかったのはまさに彼女の言うところの「日本の居酒屋を模したような店」。アサヒビールの看板が出ている洒落た店で、たしかにメニュウには、ししゃもの焼いたものや、チヂミや、卵焼きなどが並んでいる。辛いタコ炒めとかチャンジャとかポッサムとか、あとは私たちになじみのない韓国料理とかは、ない。
それでもまあ、飲めればいいのだ。私たちはその店でさんざん飲み食いし、さらに屋台の飲み屋にいって飲み食いした。この屋台も、ずらりと何軒も並んでいるのだが、つまみはどの店もすべて天ぷら的な食べもので、それしかない。
ホテルに帰ったのが一時過ぎ。まだ飲み足りず、明日は帰ってしまうのだし、と、ホテルのバーにいってみると、閉店したばかりだという。ホテルのそばの繁華街にいけば、まだ開いている店はあると思う、とバーの人は言う。
そして私は例の妄想に取り憑かれて、深夜のソウルに出向いたのである。四時、五時までやっている居酒屋が、この繁華街ならあるはず。いや、トッポッキもクッパも、あれもこれも、なんてことは言わない、タッカルビならタッカルビだけでいい、こうなったら湯豆腐や唐揚げがメニュウに並んだ日本居酒屋でもいい、ともかくもう少し飲めればいい。
午前一時過ぎに飲食店が開いているはずだというのが、これまた、私の居酒屋妄想なのである。四時、五時までやっている飲み屋なんて、世界にそうそうはないのである。
一時間ほど歩いて、ようやくその真実にいきあたった。おとなしくホテルに帰り、ミニバーのアルコールを飲んで寝た。
それにしても、日本の居酒屋って、ありがたいけれどつくづく不思議な存在である。飲みながらあれもこれも食べられる店を作ろうと、いったいだれが考えたのだろう? しかも、四時五時まで飲み食いできるようにしようなどと。
そしてなぜ、こんなふうに根づいたのだろう。世界に見本なんてないのだから、居酒屋は純粋な日本文化といっていいと思うのだが、それにしても旅に出るたび、不思議に思う。 |